スマトラ大蒟蒻の群生地帯を抜ける
柏木さんが白衣の裾を翻して立ち上がった。
「さあ胸を張って行くわよ!」
「レッツ、ごぉぉっ!」
あー何事もありませんように……。
期待に胸を膨らませる三バカトリオと、天にまします万の神々様に交通安全祈願をする俺。明暗に分かれた思いの坩堝と化した操縦席で船長は凛とした声でこう宣言した。
「ランちゃん。微速前進!」
厳命に従ってランちゃんはアストライアーの鼻先、キャノピーの先端から糸状菌の中へと侵入して行った。
ガサガサ、ザワザワ、と騒がしい音を立てて外壁を擦る糸状菌の摩擦音が始まった。
さっと室内が青緑色の光で満たされ、猛烈な圧迫感が押し寄せた。続いてキャノピーの視界が悪くなる。
雨が降るわけでもないのに、外側にいく筋もの滴が流れ出したのだ。
「凝縮だ!」
「そうよ。よく知ってるわね」
「それぐらいはケミカルガーデンに入ったことのある者の常識ですよ」
外気温が高く空気中の水蒸気が過飽和になると起きる現象で、気温の低いキャノピーの外側に水滴が付くのさ。早い話が冷えた液体をグラスに注ぐと外側に水滴が付くのと同じなのさ。
「明るい……」
ミウがキャノピーの外に色の異なる瞳を向けた。
「空は見えないけどね。子実体の内側が緑色に発光するので意外と明るいのよ。綺麗でしょ?」
観光用の洞窟をガイドするみたいな説明をした柏木さんは、反対に質問で返してきた。
「それよりさ。なんかジャングルと違うと思わない?」
「景色ですか?」
「違うわよー。そんなのは当たり前よ。そうじゃなくってさー」
答えられないミウがもどかしいのか、自ら回答する。
「揺れが無いでしょ?」
「ほんとですね」
「あ。ホントだ。突き上げてくるショックが無い」
まるでスポンジの上を走るようで柔らかげな揺れしか伝わってこない。麻衣がいつだか言っていた。ガーデンに入ったら一変すると。
骨に優しい揺れは歓迎するのだが、目にはキツイ景色が広がりだした。
極彩色の糸状菌が織りなすフラクタル模様の奥底を覗き込んだ不思議な景色。マクロなんだかミクロなんだか、有限の世界が無限に広がって見えてしまい目まいを誘う。
ガウロパがしきりに目頭を揉んでいるのは俺と同じで目が疲れて来るからだ。タヌキ寝入りをかますイウの行動が意外と正解かも知れない。
そんな摩訶不思議な空間をアストライアーは一点の迷いもなく突き進んで行く。誰もが言葉を失くしひたすら目を瞬かせるだけになった。
なのに――。
「ランちゃん。クスダマカビの胞子嚢の塊があるわ。踏みつけたらだめよ」
三バカ変異体トリオは、雨が降り出したアマガエルみたいに嬉々とした。
この迷路の中でよくそんなものを見つけられるんもんだ。地面を指差して指示を出す柏木船長。いったいどれが胞子嚢だと言うんだ?
「だいたい胞子嚢ってなんだよ」
麻衣は突き放すように言う。
「胞子を抱き込む袋やんか。知らんのかいな」
知るかよ……。
糸状菌の絨毯がぶ厚く岩盤を覆ったおかげで心地良い振動が続くが、たまにそれとは異質のショックが伝わって来ることに気付いた。妙に周期的に訪れるので、首を突き出してキャノピーの下を覗いて納得できた。
「あの肥え溜めの群生地だ」
俺が落ちた肥えの匂いにまみれた落とし穴的巨大植物の大群生地帯だった。たしかスマトラオオコンニャクとかいう食虫植物の変異体だ。
麻由が首を俺へと捻じって楽しげに言う。
「ほら。修一の好きなコンニャクさんよ」
俺だけじゃない。
「どこへ逃げた、あいつ?」
一緒に嘲笑ってやろうと思ったのに、麻衣はここから逃げ去っており操縦補助室にはいなかった。
「いかがなさいました、修一さん?」
きょろきょろする挙動不審の俺に尋ねたミウに応える。
「キャノピーから下を覗いてみろよ。何が見える?」
ミウは素直に立ち上がり、操縦席への昇降ステップの手すりに掴まり下を覗き込んだ。ガウロパも釣られて首を曲げる。
「花……でござるな」
前方に突き出たキャノピーの足下越しに地面が見える。それほど速くないスピードで移動する表面に点在する物体。
「ほんと。茎の無い大きくて美しい花が一面に咲き誇って。でも面白いですね。この乗り物が通るたびに瞬間に花を閉じますわ。まるで動物みたい。でも濃い茜色の花がとても美しゅうございます」
もちろん柏木さんも正体を知っているので、ニヤニヤするだけ。
「本当は勉強のために外に出て見学したいんだけどね。まんがいち落ちたら困るからやめておこうね」
「落ちる? どこに落ちるんです? 植物ですよね?」
尋ねながら自分の席に戻るあどけないミウの顔を見て、俺は半笑で答える。
「落ちたらば命にかかわるんだけどな、何がすごいってな……」
まだ俺は麻衣を探していた。この質問はぜひ麻衣に答えさせてやりたかったのさ。
「あいつどこ行ったんだ?」
俺は薄ら笑いを維持して再び麻衣を探すが、姿はいぜん見えない。早くしないとイベントが終わってしまう。
興味ありげに俺の説明を待つミウに視線を戻して先を続ける。
「あの花の地下茎は空洞になっていて上を通る動物が落ちて来るのを待ってるんだ」
「落とし穴ですか?」
「そう。中にはとろんとした液体が溜まっていて落ちてきた動物を喰っちまうんだ」
「あんな美しい花が……食虫植物だとは」
「食虫って言ったって虫だけじゃないわよ。人間だって落ちたら三十分で骨にされるわよ」
相変わらず怖いことを平気で告げるのは柏木さんだ。
「なんと……おそろしい」
ミウは鼻にしわを寄せ拒否の姿勢。俺は楽しげに続ける。
「それでな。その臭いがすごいんだ」
「臭い?」
同じ言葉を疑問形に変えてミウが返した。前の席からもう一度からかうような柏木さんの声。
「コヤシの臭いよー」
「コヤシ?」
「お前知らないのか? 過去の時代ならいくらでもあったろ。肥溜めってやつだよ」
ミウは瞬時に唇をキッと締め、手で鼻と口を押さえた。
「エンガチョ……」
そう。エンガチョだ。
「関西では、『ベベンジョ』って言うのよ」
麻由が曲げた中指を人差し指と重ねると、ケラケラと笑って俺の前に突き出した。
「なんだ? ベベンジョって?」
関西の変な言葉に戸惑う俺の前で麻由は愉しげに高々と宣言。
「ベベンジョ、カンジョ、指きったぁー」
指をぱっと広げ、麻由はケタケタと笑い転げた。
「ま……まさか修一さん……それに落ちた?」
バレたら仕方が無い。静かに首肯した。でも仲間がいることを教えたい。いったい麻衣はどこへ逃げたんだ?
「え……エンンガチョ」とミウがつぶやき鼻をつまみ。
「修一のベベンジョー」と麻由が囃し立てる。
そこへ。
「あんたたちさぁー。まだそんな子供みたいなことやってるの?」
本来なら先陣を切ってやり出しそうな柏木さんなのに、意外にも大人の対応。
「どうしたの?」
予想を裏切る反応に麻由が面食らい。ミウもキョトン。でも柏木さんは平然と、
「タイタンアルム(別名スマトラオオコンニャク)の変異体が溜め込んだ液体の正体は消化液なのよ。別に汚いモノではないわよ。私なんかあの中に潜ったことあるんだから。側面に消化器官がずらって並んでるのよ。あんたたちもいっぺん見たほうがいいわよ。綺麗なんだからー」
麻由は興味を膨らまして固まり、俺とミウは柏木さんの驚異的な価値観の違いに驚きを隠せず青白くなった顔を向け合った。
あの中に潜るって……信じられん。
ついでに報告すると、群生地を過ぎてだいぶ経ってから麻衣が姿を現した。もちろんからかわれることから退避するためにどこかに身を隠していたと告白。タイタンアルムの犠牲者は俺一人でよいそうだ。
ぬ、やろう……。




