パスワード
外へ出るとイウの声がまだ林の中を響いていた。
「あのな、ガウロパ。今日中にカタがつかないから、野宿することになるらしいって知らせてくれてんだ。な? おめぇ。暗黒時代のスコールの恐ろしさ知ってるよな? それがもう少しでやって来るんだぜ。でもよく見ろよ。幸いここにいい避難壕があるんだ。これを使わない手はねえだろ?」
叱り飛ばす気力も失せたのだろう。イウの口調はずいぶんと力の落ちた調子で、諭すようだった。
あいかわらずガウロパは丸くなった背を向けて地面の上で消沈しており、すぐ隣には膝を抱いてしゃがみ込んだ麻由が動物園の熊でも眺める目で観察し、ミウは巨漢の肩に手を添えて説き伏せるかのような仕草で固着していた。三人がかりでもダメとなると、こりゃそうとう重症なんだと思った。
出てきた俺に向かって、イウが溜め息のような声を漏らす。
「あぁ、修一か……」
出会ってたったの半日で妙に馴れ馴れしく接する態度は、見た目の胡散臭さと真逆の魔力を持っていて、こちらも自然と打ち解けてしまうのはある種の魅力だと思う。
「まだ説得できないのか?」
「あぁ。よくこれでミウのガーディアンやってられるよな」
互いにタメ口でやり取りするものの、何の違和感も受けないのはとても不思議だっだ。
体から放出する威圧感が今やゼロとなってしまったガウロパが反論する。
「閉所恐怖症はタイムパトローラーには関係ないことでござる。それにそこの入り口は拙者の身体では入れないし……」
「そんなことねえぜ。ぎりぎりもぐりこめるって」
よく確かめもせずにイウは発言するが、確かに回廊の途中でターンをする場所だとつかえるかも知れない。
それをイウに説明すると、
「じゃあスコールが来たらどうする?」
あきらめムード満載だ。
「なぁ、ガウロパさんよ。このアンクレットはコンクリートの壁で遮られても自爆装置が起動するのか?」
「こんなヤツに『さん』はいらねえよ」
とイウが口を挟み、ガウロパも淡々と応える。
「距離だけでござる。壁ぐらいどうってことはない」
「じゃあスコールが来たら、あんたはそこらの木にしがみついて、イウは中に入って、閉めた扉の後ろに潜んでたらいいじゃないか」
「おお。それはよきアイデアでござる」
俺の提案にようやくガウロパは声を晴らして腰を持ち上げた。
「よかったね、ガウさん。その代わり今日はここでキャンプよ」
麻由はにこやかに接し、ガウロパはヘコヘコこと腰を折って、
「中に入らないのなら、なんでもするでござる。このご恩は生涯忘れぬでござる」
頑強で筋肉質、スキンヘッドでゴツゴツした強面の割りに気の優しい一面を見た。
「こんなこと覚えてくれなくていいよ。それより麻由。麻衣が呼んでるんだ」
「あっ。わかったすぐ行く」
麻由はパタパタと耐熱スーツの膝を払うと、白い兎のように跳ねて地下室の中へ飛び込んで行った。
「さっきはオレたちにも食料を分けてくれて、礼を言うぜ」
イウはミウをチラ見してから、えらく生真面目な言葉を並べると細い指をキザっぽく立てて見せた。
「いいって。ただ晩飯がどうなるかわからないぜ。俺も握り飯ひとつしか無いし……」
「気にするな。一食ぐらい抜いたからって死にゃーしねえぜ。それにお前らに貰った、塩っぱい飴がまだ何個かある」
常識もわきまえた意外といいヤツ宣言をするイウ。いったい時間規則に反するって、罪なんだろうか。
麻由が居なくなった場所へミウが入れ換わると、膝を抱いてしゃがみ込んだ。
「どうする。中に入るか?」と尋ねる俺に、
「この人を見てる」
ミウは居場所を探してうろつくガウロパを焦点の定まらない目で追い、ガウロパは急いでミウの前に飛び帰ると慈愛のこもる眼差しを注いだ。
「姫さま……」
俺では計り知れない固い絆でこの二人が結ばれていると確信した。こいつらが何者であったにしても悪人ではない。
「じゃ。あとでな。それとこのおっさんを見ていて何か思い出したら知らせてくれ」
ミウは無言でうなずくと、俺へと首をひねってひと言付け加えた。
「今日の晩御飯はたいへん……」
「え? 何が見えたんだ?」
この子の未来を視る目は確かなんだ。何が大変なのか、怖くてそれ以上聞くことができなかった。
地下へ戻ると、柏木さんと麻衣たちが見つめ合ったまま絶賛石化中だった。
「ダメよ。わかんないわ」
疲労感たっぷりの声を漏らすのは柏木さんだ。着てきた耐熱スーツを脱ぎ捨てて、胸にオレンジラインが走る、いつもの紺の制服と同じ色のタイトスカート、その上から白衣を纏って、籠の中で遊ぶ小鳥みたいに部屋の中を往復し始めた。
麻衣たちもスーツから肩を抜き、着ぐるみを脱ぐように綺麗な生足を抜き出している。しかも二人そろって左足から抜くタイミングが同じで、まるで精巧にできたロボットの動きのようだ。
「どうしたんすか?」
俺の問いかけに柏木さんは立ち止まって俺へ視線を振る。
「どうしたもこうしたも。二人が認識されて閲覧の許可が出て暗号化されたリストをランちゃんが拾い出してくれたんだけど……。パスワードがわからないのよ」
「今どきパスワードって……指紋認証でも古臭いのに。えらくレトロでアナログな方法を取ったんっすね」
「新しい技術ほど、解析される心配が多いものよ」
そのとおりさ。DNA認証なんてのもすぐに使い物にならなくなったぐらいだし。まぁあれは生物学の発展が逆に足を引っ張って、簡単にコピーDNAが作れるようになったからだ。政府は慌ててDNAコピーの禁止を訴えたのだ。
指紋認証もその人そっくりの指だけをクローン化する、という気味が悪い話を聞いたことがある。悪いことだけに知恵が働く輩はどの時代にもいるのさ。
「ランちゃんは知らないの?」
と出した俺の質問を聞いて、画面に文字が並ぶ。
Laon> パスワードをメモリ内に保存することは危険です。記憶デバイス上には一切結果が残らないようになっています_
「知ってるのは教授夫妻だけか……」
「ここまで徹底して隠すって、よっぽど重要なことなんやろな」
俺のつぶやきに、キュロットのシワを伸ばしながら、麻衣が思い悩むような瞳を向けてきた。
麻衣と麻由は同期した動きで同時に肩を落として小さな唇をきゅっと結んだ。
「むは……っすげ」
こんな何でもない無意識な振る舞いなのに、細部までぴったり一致するなんて、双子って普通ではあり得ない動きをする。
嘆息しつつも尋ねる。
「でも娘には閲覧を許可してんだから、心当たりはあるだろ?」
二人は再び同時に首を振る。
「こんなのはあれだろ。誕生日とか何かの記念日じゃないの? そのへんから入力してみれば?」
「それがね。パスワードを二回間違ったら明日まで開けられなくなるんですって」
柏木さんは諦めムード満載の面立ちを俺に向けると、女性らしいほっそりとした肩をすくめてみせた。
「よほど調べてからでないと、うかつに入力できないわけか……」
「これはマジに困難だっすね……」
俺は腕を組み、鼻から細く息を吐き、
「親父さんやお袋さんの結婚記念日とかは?」
俺が思いつくのはこんな低レベルのことぐらいだ。あきらかに麻衣は鼻で笑った。
「ウチらのお父さんがそんな単純なものを……」
「悪かったな単純で。でもお前らも閲覧できるようになってんだから、ご両親は何か知らせてないのか?」
「うーん。そんな話は無かったよ」
顎に指をあて、麻由が天井へ視線を巡らせる。
「何かヒントが無ければ、でたらめに入れるわけにもいかないし。教授の癖とか……何かないのかよ?」
俺は近くにあった椅子を引き寄せて腰を落とし、思案に暮れた。
「何も出んな……」
出たのは溜め息と変な言葉だけ。
そりゃそうさ。変異体生物の権威である川村博士は指導者でもある。なのでみんなが教授と呼んでいるが、そんな人の考えたパスワードさ。それを一介の役所勤めの親父を持つ俺に考え出せというのが、そもそも無理なのだ。
「そうだわ……教授が使ってる大阪研究所のコンピュータで使うパスワードは、人の名前のアルファベットをもじっていたわ。たいしたものが保管されてるわけじゃないんだけど、部外者が勝手にデータを持ち出すのを嫌って、私たちだけにパスワードを教えてくれたの。そのときは奥さまのファイルは『WAKIA』で、教授のは『ARUMA』だったわ」
「なんすか? なんかの単語っすか?」
「ワキアとアルマって呼ぶのよ」と柏木さんは楽しげに。反応したのは麻由で、
「あ、それ知ってる。アルファベットを逆にしてるんでしょ」
「逆に?」
「お母さんの川村亜依『KAWAMURA AI』を逆にするのよ」
首をひねった俺に、麻衣が代わる。
「『KAWAMURA AI』をそれぞれ反対から書くんや。ほんなら、『ARUMAWAK IA』となるやろ。それを真ん中から半分にしたら、『WAKIA』と『ARUMA』になるやろ」
なるほど――。
麻衣の指示通りにランちゃんが画面に文字を並べてくれるのを見ながら尋ねる。
「じゃあ、ここのパスワードもそうかな?」
ところが柏木さんはそうではないと首を振った。
「そのことは結局みんなが知っていて、パスワードの意味がなくなってたもん」
「だろうな。プライベートの研究所でも同じパスワードは使わないよな」
試してみるのも手かと思ったが、それで本日分のチャンスを2回使っちまう。間違っていたらアウトだ。明日までアヌビスは黙り込んでしまうだろう。
「でも、これだけ厳重にロックしているのよ、こんな言葉遊びでパスワードは決めないでしょ」
焦点の合っていない目で画面を眺めていた麻由が顔をもたげた。
「なにもヒントが無いとは……こりゃあ、腰を据えてかからないとダメだぞ」
「ちょっと待って」
気温が下がって、着る必要の無くなった耐熱スーツを脱ごうとした俺の手を麻衣が止めた。
「お父さんがウチら宛てに何か残してるかもしれへん」
「どうやって検索する? キーワードが漠然としすぎて絞れないだろ?」
まるで雲を掴むようだ。
「ダメもとで、ランちゃんに訊いてみるか」
コホンと咳払いをして、俺はランちゃんに向かって尋ねた。
「麻衣と麻由宛に何かメッセージは残っていないかな?」
画面に検索中のメッセージが表示され、検索数値がとんでもない速度でインクリメント(ひとつずつ加算)されていく。
そしてすぐに――。
Laon> お二人に当てたメッセージは多数発見できましたが、すでに開封済みになっています_
「ねぇランちゃん。プライバシーの保護を解除してお父さんとお母さんが連絡を取り合っている部分とか、もう一度調べてくれへん」
「お、おい、麻衣。俺がここにいてもいいのか?」
「あんたやもん、かまへん」
「修一だもんね」
と念を押す麻由の言葉は意味深い。喜んでいいのか怒っていいのか。複雑な気持ちを混ぜて待つ俺の前で、画面に文字列が並んでいく。
ほとんどが研究に関する事柄で柏木さん以外の者が見たって、イヌに論語、あるいは牛に経文だ。ところが調べていくと麻衣たちの誕生日に両親のメッセージが集中することに気付き、二人はそれを拾い出し始めた。
「ねえ、見てこれ。懐かしいわぁ。麻由が7才の誕生日に熱出した時のことが書いてあるワ」と麻衣が言い出し、
「そうそう。あたし風邪をひいて寝ててさ、ベッドの中でケーキのローソク消して……消えないので麻衣が代わりに消してくれたんだよね。そのことが書かれてる。うわあ懐かしいなあ」
二人のは両親のメッセージから思い出に浸り出し、パスワード探しは中断。
「だめだこいつら、戦力にならん」
仕方がないので俺はさらにメッセージを遡る。
するとたくさんある文面の中でも、二人が生まれた日のファイルに引っかかる一文を見つけた。
「この2302年。5月10日って、お前らの生まれた日だろ。そのところに未来より天使を『預かる』と書かれてるけど、これって誤記入だよな?」
どうでもいいところに目が留まったのは俺だけで、麻衣と麻由は両親が娘の誕生を心より喜んだ文章に心打たれて、うっとり恍惚状態さ。そんな時にうかつなことを言って、怒りを爆発させてはと思い、俺はランちゃんに小声で尋ねた。
「預かるじゃなくて、授かるだろ? これって記入ミスだよな?」
Laon> …………_
無反応だった。
そらそうだ。いくらランちゃんが優秀でも誤記入まで責任は持てない。
「何をしょうも無いとこに喰い付いてんねん」
案の定、麻衣が眉根を寄せた。
「い、いや。普通なら、『天使を授かる』って書かないか?」
「なんや。ウチら橋の下の子って言いたいんか? あんたとちゃうで」
「そうよ。あたしたちは正真正銘、お父さんとお母さんから生まれたのよ」
左右の耳からユニゾンで飛び込む怒鳴り声にタジタジさ。
「わ、悪かったよ。冗談で言っただけだろ。真剣になるなよ」
まだ麻衣は言い足りなさそうに。
「だいたいな、レッドカード申請時に必要やからって、ウチらDNA鑑定までしてんのやで。ちゃんとお父さんとお母さんのDNAが入っとったわ。あんたとは違う」
俺も違う……と思う。なのに柏木さんまでも熱くなり、
「二人と私は長い付き合いなのよ。変なこと言ったらだめでしょ」
「あ、いや。ほんの冗談でして」
マジ怖いな柏木さん。
「じゃ、じゃあ。ご両親は何を預かったんだろな?」
そっちに話を逸らすしかない。
「天使って書いてあるやん。天使やろ?」
と言っておきながら、
「天使って何やろ?」
バカが盛大に首を捻りやがった。
柏木さんが笑い飛ばす。
「たぶんランちゃんのことよ」
「「「ランちゃんが天使?」」」
俺を含めて三重奏とあいなった。
「その昔あったRAISEIプロジェクト(来世計画)で作られた人工知能のテスト版がランちゃんだった……と言う話よ」
「そんなのあったんっすか?」
初めて聞かされるランちゃんの生い立ちだ。俺は興味津々さ。
「知らないの? 修一くん。すぐ断ち切れたけどね。え……と、あったのよ」
自信なさげな答えが返ったが、後で謎だらけのランちゃんのことを調べるきっかけにはなる。
だけど柏木さんは興味の無い声で先を急かした。
「そんな古い話忘れたわよ。それよりはやくパスワード探そう」
麻衣と麻由が生まれた頃なら柏木さんは11才のはず。もしかしてその慌てようは年を誤魔化しているからだろうか。
この人の実年齢はいくつなんだ?
瑞々しい肌艶といい、まだまだ若い豊齢線の目立たない面立ち……美魔女だな。
再びパスワード探しに戻るものの。
Laon> 該当するメッセージは見つかりませんでした。検索を続けますか?_
空しくランちゃんのカーソルが止まった。
「直接的なことは無駄か……」
「でも確かにお父さんの書斎でカロンて言うファイルを見てんで……」
「ウソだとは言ってないけどな」
行き詰ってしまった。何を聞いてもランちゃんは事務的だし、これ以上は何も出ない。
「となったら……もう削除しちゃったのかな?」
と半分あきらめムードの麻由に柏木さんは否定する。
「研究が行き詰ったとしても、削除はしないわよ。ほんの些細なメモに書かれたアイデアだって研究者は大切にするもんよ。ましてや一旦ファイルに落としたものを削除するはずがないわ」
ところが――。
頓挫してしまったパスワード探しが、この後とんでもない展開になるとは、この時の俺には想像だにできなかったのだ。
お読みいただきありがとうございました。今回の話がこの物語でのカギとなっています。そろそろエンジン始動です(遅っ!)