目覚める記憶
注文したマシンガンカレーは特別辛いわけもでもなく、エスニックな香りが鼻を刺激するわけでもない。ごく普通で、ネームミングのインパクトから来る期待を完全に無視した、ただのカレーだった。ただ、マーくんの言うとおり硝煙の香りは本物で、厨房から響いた鈍い音が腹腔を震わせたときは全員で見つめ合ったことを知らせておこう。
柏木さんは口に含んだ料理を飲み込むと色っぽい吐息をした。
「あぁぁ。懐かしいなぁ、この硝煙の匂い……好きだわ」
目がどこかへ行っちゃってますよ、柏木さん。
「あれは確か……雲州(現=出雲地方)へ調査に行った時。20メートル級の多足亜門に出会っちゃってさぁ……」
「お話中スミマセン。多足亜門ってなんすか?」
「大百足の変異体やんか」と麻衣。
ほんと詳しいよな、そういうこと。
「常識やで……」
そうっすか?
柏木さんもキラキラした目でうなずき、話を続ける。
「そのとき……そう、全弾よ。8発全弾撃ち尽くして、やっとおとなしくなったのよ」
「柏木さんもレッドカード所持者やで」と麻衣が補足するように付け加えた。
じゃ、いま俺の前にはレッドカード持ちの女性が三人もいるのか……こんなことあり得んことだ。
「――でさっ、夢中になった私もいけなかったんだけど、もうバラバラよ。ムカデが……」
ちょっと……。食事中の会話ではない気がしますよ。
でも柏木さんは平然と、麻衣と麻由は体を乗り出して聞いている。
「大切な消化器官や神経繊維までふっ飛ばしちゃってさ。もったいないことしたよなぁ。実際さ……」
「8発って、すごいやん。本物のショットガンや」
「お前らのはオモチャなのか?」
麻由が頭を振る。
「ううん。本物だけどさ。あたしたちのは軽量化を計るために5発までしか装弾できないの」
5発でじゅうぶんだ。
「あのときの臭い……あはぁ。懐かしい」
俺は思った。『温かくて寛容な女性』にもう一つ言葉を加えておこうと。
温かくて寛容で、どこかの神経が一本消失した女性だとな。
「さて、それじゃ本題に移ろうか」
テーブルの対面でニコニコしながら頬杖をついて見守る女神さまが、食べ終わった俺たちの様子を一巡させると、ほっそりとした顎を上げた。
ウエイトレスのマーくんが食事の後片付けをしてテーブルを広げてくれるあいだ、麻衣は口の周りをナプキンで拭き、それが済むとキイワラビの採取ケースを静かに置いて、ずらりと並べて見せ、柏木さんはテーブルに広げられた物体をまるで八百屋の前で物色する主婦にも似た目で覗き込む。
「どれどれ……。20本とは最高記録じゃない? それよりこの1本はすごいね。これって地面から出て数十分でしょ。カビ毒にほとんど触れてない。これはすごいわ。誰が見つけたの?」
一瞬、麻衣はランちゃんの入った俺のリュックをチラ見したが、ふっと肩の力を抜いて顎をしゃくる。
「こいつや……」
「すごいじゃない。お手柄ね」
「いやまぐれです」
なんとも答えにくい。ランちゃんにお情けでもらいました、とも言えないし。
「でもこれはすごいわ……」
柏木さんは執拗に黄色い新芽を観察し、何度もケースの中に向かって溜め息を落とした。それはまるで憧れの人の写真を見つめる少女のよう。艶っぽい仕草で頬をほんのりと染めて見入る姿は、いつまでも俺を釘付けにする対象となっていた。
柏木さんは散々キイワラビの新芽に堪能した後、パッと表情を元に戻して宣言。
「よし、これだけ3倍払うわ」
えぇぇ! それってそんなにすごいの!?
「おおきに良子さん。助かります」
俺の計算では通常タイプが3万と読んでいるので……すげぇ。1本で9万円か。
「では、次いきまぁーす」
麻由がごそごそと俺のリュックを開けると、ランちゃんのメインユニットをテーブルの上に出し、その隣で麻衣がもったい振りながら柏木さんの前に1枚の写真を裏返しに置いた。
「なによー?」
柏木さんは怪訝な様子。麻衣はニタニタ笑いを続け、
「良子さん、ようく見てや。もしかしたら世紀の大発見かもしれへんデ」
柏木さんは悪戯っぽく笑い、
「何を見つけたか知らないけど。私は研究所の部長よ。ちょっとやそこらでは驚かないわよ」
と意見を述べる柏木さんの前で、麻衣は勢いよく写真を表に返した。
「なんなの?」
とっさには判断つかないらしい。そりゃそうさ、俺の変顔が三分の一を占める写真だからな。でも残りの部分にはあり得ないモノが写り込んでいる。
しばらく黙視していた柏木さんの顔色がみるみる桜色に染まり、色濃くなった瞳を見開いて石化。
「まさかっ!」
麻由が指の先で示し、
「ランちゃんが撮った、マンドレイクの生写真よ」
「う……うそでしょ」
まるで油の切れたロボットの首が旋回するようだ。ギギギと捻じられて、驚愕に開け放たれた丸い目が点だった。
「これって……」
ふたたびゆっくりと元の位置に首が据え置かれると、もう一度目を皿のようにして、柏木さんは凝視する。
「連続写真がランちゃんのメモリに記録されてますから、見てみます?」
麻由がメインユニットを示すその言葉でようやく緊張をほぐしたようで、艶やかなロングへヤーを背中へ払うと、震え声はそのままで俺へと向かって叫んだ。
「でかしたわ、修一くん! これは世界的な快挙よ」
白衣の袖を両手でパンッと引っ張り、黒水晶みたいな瞳から驚嘆と歓喜を混ぜた視線を俺に強く当て、それが非常に熱く感じて、俺は恥ずかしくなって下を向き、麻衣はさらに付け加える。
「良子さん。写真だけで驚くのはまだ早いデ……」
まだ何も見せていないのに、早くも興奮の極みに達したのか、
「うそ! え? あ? きゃぁぁぁ」
柏木さんは甲高い欣喜の絶叫で店内を驚かせて、食事中の他の客を振り向かせた。
「み、みんな。静かにしようね」
興奮しているのは柏木さんだけですから。
「完全体やないけど……。ほぉーらっ」
麻衣は再びもったいぶった仕草でゆっくりとリュックからケースを取り出し、コトンと置く。
「どう? 良子さん。マンドレイクの子実体やで」
「ぁぁぉ――っ!」
声にならない絶叫というものを俺は初めて聞いたかもしれない。
「ねっ? すごいでしょ」
「すごいなんてもんじゃないわよ! だめ! 私今日寝られないかも」
狂乱の騒ぎをするテーブルの連中とは対照的に、窓際の空気が暗いことに気づき、俺は銀髪の少女に視線を滑らせる。
彼女はこっちの乱痴気騒ぎとは関係なく、憂いを浮かべた表情で静観中だ。
白い顔に不安を滲ませた少女を窺えば窺うほど不思議な気持ちになった。
まず最も心を引かれるのが、色の異なる二つの瞳だ。
一つは夜明けの清澄な空気を感じさせる透き通った薄い青色。もう一つは、夕暮れの空に残る雲を照らす赤とオレンジの色のようだ。混ざりきれずに渦を巻いて光る宝石のような虹彩。それはまさに奇跡の彩りだ。そして誰よりも美しい流星の尾みたいに長く伸びたストレートな銀髪。地球上にこんな子が本当にいたのだ。それよりいったいどこから来たのだろう。
俺の視線に麻由が気づき、その先、少女の肩に手を添えて優しい声を掛けた。
「もうちょっと待ってね。これがあたしたちのお仕事なの。これすんだら病院行くからね」
少女はぷるぷると首を振って、にっこりと笑う。
「別になんでもない……ただ、とても楽しそうね」
麻由は彼女の腕に軽く触れて、小さく唇の端を持ち上げた。
「もうあなたも仲間だからね。よく見てて、あたしたちこうやって生活してるのよ」
少女はほのかな笑みを浮かべて麻由の顔を見た。
「わたしも手伝わせてもらえるの?」
「もちろんよ。大歓迎だわ」
穏和な時間が窓際で過ぎていくのを眺めていた俺は、ランちゃんとフィルムフォンとのインターフェースにもたつく麻衣を見つけて手を出した。
「どれ……代わるよ」
「助かるねぇ。こういうものは男子に限るのよね」
柏木さんの熱い視線を左から受けつつ、手を動かした。
すぐにフィルムフォンのディスプレイに文字が流れる。
Laon> お久しぶりです。柏木部長_
「相変わらず固いわね。部長なんて肩書はいらないって言ってるでしょ。で、どう? 元気にしてた?」
まるで友達に語るようだ。
Laon> はい。今朝のセルフチェックでも機能不全は発見されていません。それに川村姉妹はとても好くしてくれます。充電状態も常に良好です_
だろうな。腹減ったら勝手に盗み食いするもんな。
「でさぁ。今回の件、あなたはどう思うの? 連続写真以外に生体データも記録できたんでしょ?」
Laon> はい。12テラバイトのデータを取得することに成功しています_
と文字が流れた後、少しの間が空いて、
Laon> ご覧になりますか?_
と出て止まった。
柏木女史はゴクリと唾を飲むと、胸のポケットから細いフレームのメガネを広げて、鼻にちょこんと掛けた。
「ちょっと見せてくれる?」
すぐにわけの分からない数値が滝のように流れ出し、
「すごいわ……」
声を絞り出して、見入る柏木さん。
Laon> その中に哺乳類のデータが混じっています_
「ブラックビーストでしょ?」
Laon> はい。想定内ですが、現時点では種類までは不明です_
「熱によるゴーストよ。麻衣ちゃんたちの生体反応が反射したんじゃないの? よくあるわ」
Laon> 了解しました。それではマルチスペクトルフィルターに掛けてみますので、もう一度ご覧になりますか?_
「うん。頼むわ」
数値の意味はさっぱり解らないが、メガネに文字の羅列を反射させた端正な顔に俺は心を奪われており、テーブルの隅で展開された異変に気付かなかった。銀髪の少女がいきなり立ち上がり、天井に向けてつぶやいたのだ。
「カ、ロ、ン……」
目の焦点は完璧にこの場には無く。壁をすり抜けた遠い向こうにあった。
そしてさらに続ける。
「カロンは天然高分子構造の物質で……極端な温度差と高圧力のもと……」
「どうしたの? カロンってなぁに?」
初めて聞く言葉を綴り出した少女の動きを、麻由が疑問で遮った。
「カロンって唱えると何か思い出しそうなの」
「なんかの合言葉かな?」
「解らない……」
少女は頭を抱えて激しく振るが、次の刹那、ばたっと止まって目を見開き天井に向かってこう叫んだ。
「ヒダカミウ!」
力強く銀髪を翻すと、続けて目を見開いた。
「わたしの名前は日高ミウ!!」
自分が出した言葉に驚いて息を詰めると、すぐに茫然自失状態に陥った。
「思い出したのね?」
飛びつく麻由へ。少女は静かに首肯した。
「名前だけ……。でも……もっと重要な何かがある。でも……でも……だめ。思い出せない」
「オーケー、ランちゃん!」
柏木さんが手のひらを打ち鳴らして立ち上がった。
「データは帰ってからゆっくり見るわ。それより先に病院へ行くわよ。さぁ片付けるのよ。ほら、修一くん。これで精算してきて」
白衣の片側をマントみたいに勢いよく広げると、内側からデザインチックな平たい財布を抜いて俺にぽんと投げて寄こす、女性とは思えない大胆でいて力強い動き。
麻衣たちの行動力はこの人譲りなんだと直感した。かっこいい。こんな女性が世の中にはいるのだと強く思った。
ランちゃんのメインユニットを引っさげて出てきた柏木さんに、レジで精算を終わらせた俺は頭を下げつつ財布を返す。
「どうも、今日はごちそうさまでした」
「いいわよ、これくらい。それより記者会見の挨拶、考えておいたほうがいいわよ」
「……マジっすか?」
柏木さんは片目の瞬きで応え、俺は息を吸う。
あの気色悪いキノコが本物のマンドレイクだと証明されたワケだ。生まれて17年目の夏にして、俺って超ラッキーな男じゃん。
村上になんて報告してやろうか。クラス連中から色々言われるだろうな。
「こんなとこで何してんの? 通行の邪魔やで。それと修一。あとでエエ報告したるから、家で待っててくれる?」
浮かれて突っ立つ俺の袖を麻衣が引いた。
「俺もついて行ったらまずいのか?」
という言葉に麻衣が即答する。
「まずいに、決まってるやろ」
戸惑う俺の背後から麻由も釘を刺す。
「女の子の診察にあなたが付き合うわけ?」
「あっ……。そ、そうか。わりい。わかったそれじゃ俺、家で待ってるから」
俺は私物だけになったリュックを片方の肩に引っ提げて手を挙げる。
「じゃな。ちゃんと診てもらえよ」
水色と赤の双眸を俺へと向けて、こくりとうなずく少女の頭をぽんぽんと撫でた。そして麻衣たちには軽く手を振る。
「頼んだぞ、な?」
「うん。また後で。あ、そや」
麻衣は保冷財に包まれた荷物をリュックから出して、俺に手渡して言う。
「今晩はこれで一杯やるでって、おっちゃんに伝えてといてくれる?」
俺はうなずき、
「お前なー。酒飲みみたいな会話するなよ」
麻衣と麻由は笑った目の形までそっくりにして、手を振って応える姿は完全に合わせ鏡だった。
二人の同じ動きにめまいを覚えたが、俺は手を振ってその場を離れた。




