銀髪の少女
「麻由! シュラフや。シュラフ広げてー!」
命じながら麻衣は風のように動いた。すぐに三輪バギーの荷台下部にある取っ手を強く握って、ぐいっと引く。
勢いよく広がる冷気の白い気体と、飛び散る霜に俺は息を飲む。
「なんだ、その引き出し!」
「マイナス50℃の冷凍庫にこれは圧縮冷気や。これでシュラフを膨らましたら小一時間は何とかなる」
中から金属色に光る2リットルボトルほどの円柱形の容器を引き抜くと、素早くタオルを巻き、シュラフを広げている麻由の元へと走った。
「麻由。防毒マスクひとつ余ってたやろ?」
「うん」
「それ、この子に使おう」
「そうね。シュラフだけでは心細いものね」
振り返った先で崩れ落ちたのは間違いなく人だった。しかも流星のような銀のロングヘアーに整った面立ちは紛れもなく美人とカテゴライズされる。
「しっかし……マンドレイクの次は外人さんや。あんた珍しいもん見つけるの天才やな」
「……ぅ」
うっすらと意識の残る少女が薄い唇を開けようとした。そこへ麻由がそっと顔を近づける。
「いいのよ。喋らないで。ここら辺には毒が充満してるから、あたしたちみたいにこのマスクをしてちょうだい……ね? それとお水飲む?」
言葉は通じるみたいで、少女はシュラフの中で水はいらないと首を振ると自分からマスクへ手を伸ばしてきた。
「綺麗な髪だなぁ……手もあんなに白くて細い」
「悪かったね、黒くて太くて……」
「なんだよ。ヤキモチか?」
「ばっ! か!」
丸い瞳をこぼれ落ちんばかりに広げて、びっくりしたような目で俺を見る麻衣。
急いで俺から視線を逸らすところなんか、その口調からは想像できないしおらしさを感じる。丸まったショートの癖っ毛をふぁふぁと揺らして、ほんのり赤らめた頬を誤魔化すように、ヘッドクーラーのカチュームの位置を動かした。この何でもない仕草が俺の胸を打つのさ。
で麻衣は決然と言う。
「この子を連れてこのままキャンプ続行は不可能や。すぐに撤退しよう」
シュラフのサーモ・モニターと、ランちゃんを繋ぐインターフェースを準備しながら、麻衣がそう告げた。
この決断力には惚れ惚れする。これが帰還率100パーセントの理由だな。
「ランちゃん、帰りの時間は?」
『6時間20分です』
答えるのはもちろん俺たちのスーツだ。
「スーツのバッテリーってそんなに持つのか?」
不安に揺れる俺の心中を察したのか、
「心配ないわよ。予備を持ってきてるから……」
だけど麻由は言葉を濁し、麻衣が代わる。
「問題はアイスエアーが持つかどうかやねん」
「と言うと?」
「一晩テントで休息する分ぐらいしか持ってきてないんや」
「あの子の分か…………」
荷台で揺れる耐熱シュラフの膨らみをぼんやりと窺う。なぜあんな場所にいたのか理由は解らない。でも意識はあるし見た目はケガも無い。何とか無事に町まで連れ帰らなければならない。
麻衣は黙り込んだ俺の気配を断ち切るように決意を行動に移した。
「よし。ここでウダウダ言うてても、時間が無駄に過ぎるだけや!」
次々と俺たちに命じる。
「収穫した変異体植物とマンドレイクは死んでも持って帰る。あと銃弾と予備バッテリー。それ以外は全部ここに置いて行く。あんたは麻由と一緒にいらん荷物を降ろして……。あっと、飲料水は持って行くから、かき集めといてや」
「よし、まかせろ」
麻衣の勢いに巻き込まれ俺もすぐに動いた。
立て続けに麻衣はランちゃんへも命じる。
「ランちゃんは帰りのコースの最短距離を探して所要時間を計算し直して」
三輪バギーはこくりとうなずくと、しばらく首を垂れた。まるで命令を実行するかような仕草に驚きだ。
「修一。ほら手伝って。一分でも稼ぐのよ」
ランちゃんの行動に目を取られている場合ではない。
ひとまず荷台から最もかさばるテントを下ろし、少々恨めしげに見つめつつ、つぎに空の採取ボックスをすべて地面に下ろした。次に大事な収穫物をひと塊にして大きなクーラーボックスに入れ、ロープで括って荷台に固定。
そのあいだに双子の姉妹は荷台の最前部にスペースを作り、少女を寝かせたシュラフをそこへ載せた。
俺の作業が終わるのを待って、麻衣は気勢を上げる。
「よっしゃ、準備できた。撤退や!」
続いてランちゃんが蛇腹の首をもたげた。
「どう? 帰りの最短距離は?」
『5時間45分です』
「三十分短縮できたね」と麻由が応え、
「じゃあ……行きと同じ迷路を通るわけや」
当然のように首肯するランちゃん。
最初の頃と比べると格段に人間臭く感じるのは、意思疎通が自由にできるからだ。
にしても……。
「よくランちゃんの言いたいことが解かるな?」
「5時間ぐらいで帰るにはそのルートしかないねん。町まで川をさかのぼるルートは安全やけど時間が掛かるから……」
言い終わらないうちに、麻衣は力強く腕を前へ振る。
「ランちゃん、時間がもったいない。先に出発して。ウチらは今度ここに戻る時のためにビーコン置いて行く」
すぐにランちゃんのゴツゴツしたタイヤが回り始めた。最低限の武器と採取物だけを積んで俺たちの撤退が始まった。もちろんその中には謎の少女を保護したシュラフが積み込まれている。
麻衣は帰り道を指示していないにもかかわらず、揺るぎのない姿勢で三輪バギーは帰路についた。安定した走行を見せて俺たちから離れて行く姿をおかしな気分で見送る。
「とんでもない方へ行っちまわないのか?」
「あんた、まだランちゃんを過小評価してるやろ。あんたより確実に帰るデ」
「それを言われたら何とも言い返せないな。どっちが北かも解らんもんな」
グレースハンティングのオヤジさんから進呈されたビーコン。つまり電波発信機だそうだ。それを置き去りにする荷物の真ん中に置いた麻衣はすぐにとんぼ返りして楽しげに言う。
「これで迷うことなくここに戻れるやろ?」
「なるほどね。捨てて行くわけではないんだ」
「当たり前やん。ウチら大尽ちゃうで」
古臭いことを言う奴だ。
電源を入れたビーコンをセッティングした麻衣に促されて、迷うこともなく帰路を進んで行くランちゃんの後を追いかけた。
数分で追いつくや否や、麻衣は尋ねる。
「ランちゃん、いま何時?」
『午前4時42分です』
「そろそろ夜明けやな……急がなアカンわ」
意味ありげなことをつぶやいて麻衣がショットガンに銃弾を込め始めた。隣で麻由もライフルの下から突き出た箱型の弾倉をぐいっと引き抜いて、チェックする姿を横目ですがめて、俺は新たな緊張を走らせる。
「何が始まるのか知らんけどさ。俺、まだショットガンの撃ち方教わってないぜ」
ランちゃんの荷台に積みっぱなしになっていた麻由のショットガンを掴むと胸に抱いて見せる。
「あっちゃぁー。すっかり忘れてたぁ」
さっと顔を上げた麻衣の表情は、あきらかに後悔の念だった。
「不気味な雰囲気だな……」とつぶやく俺に、
「修一。散弾銃の弾の込め方だけ教えるわ」
「どしたんだよ。なんでお前らそんなに焦ってんの?」
「ほんまやったら、この時間帯はウチらシュラフの中で仮眠を取ってたはずなんよ」
何が言いたいのか、さっぱり理解できない。
「餌の時間やねん」
「エサ? なんの?」
麻由がクリクリした黒い瞳を俺に向けた。
「リュウキュウオオスジギンヤンマくんがゴハンを探す時間なの」
「だっ!」
大きく開けた俺の口から唾液が跳んだ。
「例のトンボか?」
1メートルの翼をバタバタさせるトンボを想像して背筋に冷たい汗を滴らせた。
「オスは縄張りを持ってるんだけどね、なぜか餌の時間だけは群れで集まるの。これは変異体だけの習性なのよ」
生物学の授業はどうでもいいっすよ。
「よう聞いてな。あいつら数で勝負してくるからうまくローテーションで銃を回していかんとヤバイんや」
「理解はしたがどうやるんだ? 俺はやったことない」
「ライフルは麻由に任せとけばええ。その道のプロやから」
プロって、女子だぞ。
「あんな……」
麻衣は真剣だった。
「ショットガンを連射させるには、弾を込める空白がけっこう問題やねん」
麻衣は俺の目の中を窺いつつ説明を続ける。
「麻由のライフルは20連発や。でもこのショットガンは5発しか連射できひん。息を合わせて打ち合わんかったら、必ず二人揃って弾を込める、変な隙間が生まれるねん。その時を連中は狙ってくるんや……解るやろ?」
ふんふんとうなずく俺に、
「ちょっと、ウチの銃に弾を込めてみて」
麻衣は折り畳んだ傘でも渡す気軽さで俺に銃を差し出した。それと引き換えにこっちはウサギのキーホルダーの付いたショットガンを返す。
「弾は5発。ただし最初の1発はこの横穴から、残り4発は……、ほら、このトリガー(引金)のある裏から前へ向かって順番に送るんよ。そんときにこのフォアアームちゅう持ち手が後ろに来てることを確認。解った?」
俺より年下のクセに、こういう説明を始めると必ず教師面になる。でもここは素直に従って、銃の横にある長ぼそい穴へ散弾の筒を押し込んだ。
「そしたら今度はフォアアームを前に押し出す。この時点でトリガーに絶対に触れたらあかんで。セイフティレバーが外れていたら、即行で発射されるから注意してよ」
「怖ぇぇぇな」
「せやで。意識してトリガーには指を入れへん訓練をしやなあかんのやけど、やってる時間が無いんや。心してやってや。こんなとこで自爆なんて嫌やで」
「お……俺だって嫌さ」
麻衣は、にっと笑って見せ、
「ほんで裏から前に向かって4発入れたら完了。それをウチに渡してくれたらエエだけや。わかった?」
なるほど――。
「トリガーさえ気をつければ、どーってことないな」
言われたとおりに俺は弾を込めた。
「みろ。簡単じゃないか……トンボの一匹や二匹……」
込め終わった銃を荷台に載せて一息吐く、その視界の端にでっかい物が音も無く横切った。
ギョッとして見上げる。
それは数十メートル先のこと。空中で静止したソフトボール大の目玉が二つ、ぎょろりと俺を睨みやがった。
「ぎ、ぎだぁー!(来たぁ)トンボだー!」
そいつに一瞥されただけで息が詰まって言葉を失った。
想像を絶する大きさだ。片翼1メートルと麻由から聞いていたが、胴体やら尻尾のことを計算に入れていなかった。
「さぁ、ちょっと賑やかになるで。あんたは荷台の女の子にもう一度アイスエアーを入れてシュラフの温度を下げてくれる。しばらく相手できひんよ」
麻衣の指示に従いシュラフへ冷気を送ろうとファスナーを少し開けた。少女のつぶらな瞳が見える。綺麗な薄い水色の瞳だった。
「あのさ。今からちょっとうるさくなるけど、おとなしくしてんだぞ。それと中が暑くなったら、このバルブをひねるんだ。冷たい新鮮な空気が出るから。それとこのボンベは素手で触るなよ。タオルを巻いておくんだ。低温火傷を起こすからな」
シュラフの開いた口からタオルで巻いた金属のボンベを押し込む。少女は小さくうなずくと大切な物を受け取るように抱き込んだ。俺は急いでシュラフのファスナーを上げて背筋を伸ばすと気合いを込めた。
「さぁ。これから本番だぜ」
「ほら、修一。鼻の下伸ばしてる場合とちがうわよ。散弾とライフルの銃弾を入れた小箱を開封しないとあとが大変よ」
伸ばしたのは背筋であって鼻の下ではない、と言い返したい気持ちを抑えて、銃弾の詰まったバケットを開けようとしたのと時を同じくして、
「来よったで!」
無数の羽音が俺たちを取り囲み、麻衣の声をかき消した。その異様なまでの騒々しさ。空を仰ぎ見て固唾を飲む。糸状菌で編まれたアーチの天井まで、ぎっしりと並んだトンボの目玉に見下ろされていた。
あまりの不気味さに気が遠くなりそうだ。
(山河修一……最大の危機だ。頼むからここで気を失わないでくれ……)
強く自分に祈りをあげ、俺は頬を両手の平で叩いて意識を奮い起こそうとした。その目前で、
「な――っ!」
忽然と大きな目玉が瞬間移動して来て麻衣の頭上でホバリング。
「っしゃ――っ!」
気合と同時に、噴煙が舞ってトンボが木っ端微塵に吹き飛んだ。
「ひとぉーつ!」
薄黄緑色のボディから左右に伸びたセロハンにも似た透明の羽。トンボ特有の長くてスマートな尻尾は黒地に水色の斑点付き。俺が知るギンヤンマとほぼ同じだが、大きさが異常なのだ。頭からシッポまでゆうに2メートルを超えている。
その中で何よりも目立つのは連中の目玉さ。水色のスリガラスみたいに不透明な複眼は焦点が定まらずギラギラしており、小刻みに左右個別に向きを変える振る舞いが、とんでもなくキショイ。
不意に右上から急降下された。
ガシャッ、とフォアアームをスライドさせて空薬莢を排出。今度は前へ押して次の弾を充填、かまえて、ドンッ。
特大のギンヤンマが四方へ爆砕する。
「ふたぁーつ」
撃つたびに数を告る意味がわかった。残りが3発だとあいつは言いたいんだ。
かなり離れたところから数匹の長いボディが急降下。
ダンッ! ダンッ! ダンッ!
バッ! ドシュッ! バフッ
麻由がライフルを連発させる。そのたびに空中でトンボが吹き飛び、内部が中空の長細いボディが弾け散る。
ライフルの標的にしては軽々しいのだが、こんなでかいのに襲われたらひとたまりもない。
ブオォォン、という重々しい羽音と同時に、水色の複眼が1メートルほど先に瞬間移動。
ダァン、バハッ!
俺の体は凝固して1ミリも動かないのに、麻由は咄嗟に銃口を振って撃ち砕く、バネみたいな反射神経には脱帽だ。
射撃の反動で彼女のヘッドクーラーが少し歪んでいた。
すかさず飛んで行って、柔らかい髪に手を突っ込んで直してやる。
麻由が華やいだ笑顔でライフルの銃口を揺すって目を輝かせる。ガーデンハンターの小間使い冥利に尽きる瞬間だね。
ドンッ、ダァーン!
「さん。よんっ!」
瞬時に目の前でホバリングを始めた二匹を麻衣が撃ち落とした。隙間を埋めるかのように次のトンボが真上に現れ、
ドンッ!
「無くなったぁ! 次ぃっ!」
さぁ忙しくなってきたぞ。
俺は充填し終わったショットガンと引き換えに空になった銃を受け取ってそれに弾を込めた。なんにしろこれらの作業は歩きながらだから、けっこうムズイのだ。
トンボの空襲がついに連続的になった。大きな羽音が途切れること無く俺たちを襲ってくる。
ドンッ、ドン、ドンッと連射する麻衣。弾はひとつも外れていないが、飛来するほうが圧倒的に多い。空一面がトンボで埋め尽くされていた。
「次やっ!」
合図に反応して、充填した銃を投げると同時に空になった銃が返ってくる。
「ひぃぃぃ。やべぇー」
焦って弾が詰められた箱をひっくり返えしそうになり、さらに心臓の鼓動が脈を強く打つ。
「遅ぉぉぉーい!」
麻衣の怒鳴り声に次の銃を投げ渡した。
お盆と正月とクリスマスに加えて、五月の連休と大掃除までが一度にやって来たのかと思わされる大騒ぎに振り回される俺に向かって、シュラフが少し開くと隙間から鈴を鳴らしたような声が漏れた。
「これ……投げて……」
「え?」
弾を込めながら俺はそちらへ目をやる。
シュラフの口からアイスエアーのボンベが突き出されていた。
「ダメだ。シュラフの中が熱気に戻っちまう」
「少しぐらい……平気……」
押し戻そうとしたが、ボンベはガランと音を立てて荷台の上に転がった。
「ダメだって。そんなことしたら中の温度が上がって……」
こんな状況でゆっくり説明する時間は無い。銃弾の尽きたショットガンがまた俺に投げつけられたのだ。
「次やヘタレ! 大急ぎで充填して!」
俺はたった今充填した方を麻衣に突き出して叫ぶ。
「うっひゃぁ――! えらいコトになってきやがったぜ」




