科学者 柏木良子さんはあなどれない
とりあえず。未来の良子さんも連れて来てよかった。この女性は直接誘導できそうもない。
ベッドの下から這い出してきた良子さんは、両手を膝について肩で息をしているわたしを見て、驚きを隠せない様子だった。
「どうしたの日高さん? 顔色が優れないわ」
と言われて、思わず睨み上げる。
「あなた。どんな精神力してんですか!」
いきなり言われてキョトンするものの、
「そんなこと言われたって知らないわよぉ」
気の毒そうな顔を向けてきた。
未来体にそんなことを訴えても仕方がない。逆にわたしの精神力が劣るということだ。パスファインダーよりも強い精神力って……。
マジマジと良子さんの顔を見つめてしまった。
「どう? うまく私を操れた?」
他人事のように言われて、わたしは額を指で突きながら、襲ってくる脱力感を堪えて伝える。
「過去のあなたは服部さんとの電話を切る前にここに戻ってきますので、あなたが入れ替わって、電話に出て要件を告げなさい」
「何を怒ってるのよ? それよりどうして私が電話に出ないといけないの? 過去の私を精神操作して用件を言わせればいいのに」
どしゃっと肩が重くなった。
「それができたら、こんなに疲れていません!」
先祖代々の背後霊がそろって乗ってきたのか、と思わせる肩の異常な重みを振り払い、つい大声で訴えた。
「あなた、どこかで精神修行でもして来たんですか?」
「えー? やってないわよー」
良子さんは無邪気な仕草で肩をすくめ、わたしは力尽き果てて麻衣さんたちのベッドの上に飛び込んだ。
「パンツ見えてるわよ、日高さん」
にへらと笑う良子さんを無視して仰向けに寝転がる。彼女たちの香りが漂い、懐かしいおかしな気持ちと共に吸い上げた。
どうしてここで感慨を覚えたのかは意味不明だが、たぶんこれが成功すれば、あの救急箱に薬が実体化するはず。でなければこの苦労が水の泡になる。
「あなた――意外と大胆なのね」
まだくだらないことを告げてくる良子さんに溜め息をぶつけて、わたしは目をつむった。
数分後、扉が空いて良子さんが入って来た。もちろん精神操作を行った過去の良子さんだった。目の焦点が定まらず、無意味に天井を仰いだ姿。つまり服部さんとの電話が終了する間際なのだ。
わたしは記憶をたどる。確かに電話の最中にこの人は席を外したのだ。緊急時の薬品リストでも取りに戻ったのだと思っていたが、まさかこの時のわたしが関与していたとは思ってもみなかった。
やはりパスファインダー失格かもしれない。わたしはそこまで推測できなかった。でもあの眼帯男は感じ取っていた。何だか無性に悔しい。あいつより能力が劣るなんて恥もいいとこだわ。
湧き上がってきた新たな憤怒を急いで振り払い、精神操作を受けた『良子』さんをベッドに座らせた。こっちの用事が済むまではこれでいいとして、
「良子さん?」
わたしの時間に存在する彼女を探す。ベッドの下へ声を掛けるが、返事がない?
どこ行ったのよ。こんな重要なときに――。
苛立ち始める気分を堪え、外に顔を出してみて驚愕する。
ハンカチで手を拭きながらこちらへ歩んで来る白衣姿を見つけた。
「こんな大事な時に何してんですか、あなた?」
「えっ? おしっこよ」
ハンカチを折り畳んで平然と。
また頭が痛くなってきた。
彼女は平気で部屋に入ろうとするので、急いで押し出した。二人が対面するとまずい。
「あなた! ここへ何しに来たのか分かってるんですか? さっさと電話口へ行って用件を伝えて来なさい!」
なぜ、年上の女性に向かって叱咤しなければいけないのだろう。いつまで経っても釈然としないもどかしさにイライラしていると、
(良子さん?)
みんなが集まる大きな部屋から麻由さんの様子を窺う声が――。もちろん過去の麻由さんだ。
私は慌てて良子さん(未来)を突っつく、
「な、何か返事しなさい。怪しまれます」
「えっ? ど、どうしよ」
「アドリブ利くんでしょ、あなた」
「え? ええ」
ごくんと唾を飲んで、
「すぐ戻るから。ちょっと服部君の相手しててー」
と奥へ放っておいてから、
「きゃっ。役者になった気分よー」
わたしは呆れて吐息する。そして叫んだ。
「たかだか、九日前の自分を演じるだけです」
はしゃいだ女子高生のお尻をひっぱたく勢いで命じる。
「さぁ、早く行きなさい!」
「分かったわよぉぉ」
口の先を尖らせて、良子さんはみんなが集まる食卓へと飛んで行った。
それから再び数分後。高揚してピンク色に頬を染めた良子さんが戻ってきた。
「行って来たわ。――あぁ興奮しちゃった。だって、みんな過去の人たちなのよ。つい口から漏れそうなるわ。あんたたち九州へ行って面白いこと満載の旅になるのよって」
わたしは真っ青になった。
「言ったのですか!」
「言ってないわよ。私もリーパーの端くれだもの。『現時の人に関与しない』これが鉄則なの」
「あなたは、リーパーでもなんでもありませんから」
と宣言するものの、あまり強くは言えない自分が悲しかった。こんなに関与してしまったのはわたしのほうなのだ。
「さぁ。帰りますわよ」
「この部屋にいる私はどうするの?」
寝室のベッドに座る、意識もうろうとした自分の姿をちゃんと理解していた。
「今からわたしが覚醒します」
良子さんは、ふーん、と納得のいかないような返事をすると顎へ指を当て、なにやら言いたそうな気配。
「日高さん……」
「何ですか?」
「中に入ってビックリしたらダメよ」
「な、何を言ってるんですか?」
良子さんは笑った目をして黙り込んだ。
何が言いたいのだろう。
とにかくこの良子さんはどうでもいい。わたしの時間の人物だからだ。それよりも部屋で待機する過去のこの人だけは、ちゃんとフォローしておかないと、今の自分自身に跳ね返ってくるのだ。
外で待つように、と未来の良子さんへ言い聞かせて――またトイレにでも行かれたら困る。
扉を開けて室内に足を踏み入れた途端、声を掛けられた。
「もう、用事は済んだの?」
「な、なに?」
過去体からそう尋ねられて激しく動揺した。
勝手に覚醒しただけではなく、問われた内容がとても不自然なのだ。
「何か用があって、ここに来たんでしょ?」
「なっ!」
声が出ない。外で待たせた良子さんではない。過去のほうだ。だとすると精神誘導が解けたのだ。
なんて強靭な精神力。
「よ、用ってなんです?」
とりあえず、すっとぼけることに。
「日高さん……」
「な、なんです?」
「何があったか知らないけど、がんばってね」
悟っていた。しかもすべてを。
おそるべし良子さん。
目を点にするわたしの背を押すと、彼女から扉の外へと促された。
ま、まずい。この事を記憶されては、未来の良子さんの記憶に齟齬が発生する。
その時、「はっ!」と思い当った。だからわたしはこの時に精神融合をしたんだと。
そう、精神操作よりももっと内面からコントロールするには融合して一時的な記憶を司る海馬の一部を改竄するしか手は無いのだ。
咄嗟にわたしは精神を統一した。光の玉を思い浮かべ、自分の額から良子さんの額へと移して行く。
「くっ! な、なに!」
修一さんの時とは雲泥の差があった。
押し寄せる精神波の流動にもまれながら、なんとか目的を果たし、良子さんの記憶からわたしを消し去ることに成功。
すぐに扉の外へ逃げ出た。そう逃げた。一刻も早くここから離れたかった。こんな精神力のある人はあり得ない。
「苦労かけるわね」
「きゃぁー!」
肩口から語られて髪の毛が総毛立った。
わたしは扉の外で待っていた未来体を捕まえて喰いついた。
「どこで気づいたんです?」
「んー。さっきトイレで、ふっと思い出したの」
「よく。黙っていてくれましたね。先に告げられていたら、水の泡になるところでしたわ」
良子さんは面白そうに続けた。
「リーパーは現時の人に影響を与えてはいけないのよー」
「なんと……」
少し前に解けたと言ったが、わたしの精神融合の処置を自ら解いた人はこの人が初めてだ。
わたしは何も言えず、急いで良子さんの腕を取ると亜空間へ飛び込み、あらためて静止した白衣の女性を見つめた。
この人、侮れない。ここまでりっぱにリーディングソースのキャラクターをこなす人を今までに見たことが無い。
彼女の端正な顔を眺めつつ、歴史、いや時間の流れを導くって、こういうことなんだとわたしは悟った。
さて――。
超視力抑制ゴーグルを外した。
「ここからが問題なのですよ」
隣で凝固している良子さんに説明するような口調がおかしくて、ちょっと微笑む。
この時間(7月31日)から、少し先まではかろうじて見えるが、8月4日辺りから霧が広がり、よく見えなくなる。
とりあえずそこまで行こう。
8月4日――の亜空間内。
ここでは何も変わらない。実空間から見ると、時間が止まって見えるのだから。
しかしその時間の流れを現時よりも先に視るわたしの目が、もう利かない。
盲目のまま時間を超えても、どこにたどり着くか分からない。ましてや、わたしたち(柏木さんも含めて)は、麻衣さんが蜂に刺されて運び込まれたアストライアーの、あの場所の、あの時間のほんの先に戻らないといけない。少しでも過去に戻ると、まだそこに存在するわたしたちと対面してしまい。激しい重複共振の果てに、実体融合を起こして宇宙の塵になってしまう。マイクロ秒でも未来に戻らないと、すべてが水の泡になってしまう。
ここで思案していてもラチが明かないので、わたしは半実体化して実空間に出てみた。
これはわたしが考え出した方法なのだ。意識と思考は亜空間に残して、身体だけを外に向ける。こうすれば実空間からの影響は一切受けないで、状況が把握できる。ただ、誰かにその姿を見られたら、その影響は免れないだろう。たぶん半分透けたように見えるので、肝をつぶされるかもしれない。
しかし今はそれしかない。
ゴーグルを付けて半実体化状態で外に出た。
そこはカビの絡まるジャングルだった。気味が悪い色とりどりの糸みたいな触手。良子さんたちは糸状菌と呼ぶが、それが束になって大きな柱を支えている。もしこのまま実体化したら、体にも絡まり身動き取れなくなるのでは、と思うほどのひどい有様だ。
空に目を向けると、糸状菌の隙間から緑の光りを放つ巨大で不気味なヒダが見えた。ガーデンの天蓋だ。あまりにも巨大で、空でさえそれに遮られてまったく見えない。
わたしは現時の場所と時間の手がかりを探そうと、辺りを探索した。
「ここはどこかしら。ランさんの走るルートからそれほど離れていないはずなんだけど」
突然、目の前に流線形をした大きな金属物体が飛び出してきた。肝をつぶす私の体を突き抜けて、猛烈な速度で糸状菌の林を通り過ぎて行った。
「――っ!」
静寂の中で何かが爆発したような衝撃が襲う。亜空間と実空間の隙間なので音がまったく無いのだが、半実体化するわたしの全身を凄絶な爆流が沈黙のまま吹き抜けたのだ。
「はぁぁ驚いた。アストライアーだ!」
驚愕したわたしは、ペタンと尻餅を突いて空間の境目に手を掛けた。
実空間に実体化していたわけではないので、身体には何の影響も無いが、精神衛生上、非常によくない。
早鐘のように脈打つ心臓の鼓動が落ち着くまで、わたしは驀進していったアストライアーの後ろ姿をじっと眺めていた。糸状菌の壁を爆砕して通った跡が深く地面をえぐって大きな穴を空けていた。まるで長いトンネルを覗き込むようで、その力強い振る舞いにわたしは呆気にとられた。
「ほんと。元気な人ね……」
徐々にあのAIを擬人化していく自分に笑ってしまった。
時間の方向と距離が大体正しかったことに気をよくして、時間跳躍を再開した。
亜空間に戻り、再びゴーグルを外した時だった。
「なに?」
奇妙な光りの点滅を見つけて首をかしげる。時間の流れがまともに見えていないのに、光りの点滅が見えるなんてありえない。
最初は弱々しく、近づくにつれ、それは緑色の明らかに光の点滅だと確信できた。
「何かしら?」
点滅の周期が決まっていた。短い周期で二度点滅して、少し長めの間が空いて、また二度点滅する。
「こ、これは……」
パスファインダー昇進試験でも出題されていたパターンだ。でも実際に目にするのは初めてのこと。
「亜空間ビーコン(beacon)!」
茫然として凍りつく。
なぜここで、何のために、誰が……。
いくつもの疑問が湧き出た。
何のために……。
これは即答できる。リーパーが迷いそうな場所に設置されていて、正しい時間流に戻るため。
「時空震が近いことを知らせてるんだわ」
それが『なぜここで』の答えだ。
自分も今回の時空震に気づき、後続するリーパーたちに危険を知らせるビーコンを撒いたが、この時間ではなくもっと過去のはずだ。
誰か別のリーパーが置いてくれたのかも。そう思うのが妥当なのだが、
誰だろう?
分岐した先の別の未来から来たリーパーなら、わたしを助けるようなことはしない。迷わせて元の時間に戻る邪魔をするほうを取る。
どちらにしても調査する必要がある。
わたしはゴーグルを掛けて、そっと亜空間と実空間の隙間に降り立った。
「あ――っ!」
目の前で忽然と実体化した物体を見上げて息を飲んだ。
「アストライアー」
無限軌道の駆動部分に糸状菌の束を巻き付けた巨大な乗り物が停車しており、その後部デッキの少し離れた空間に亜空間ビーコンが点滅していた。
「どうして!?」
せっかく出した答えが、すべて白紙に戻った。




