時のナビゲーター(前編)
「なんだよ、ラッチって?」
「原因と結果のパスが通じた時、未来はラッチされ決定します。一度決定した未来は変わることはありません。それを無理に変えようとする現象。それが時空震です。でもまだラッチされていません。結果にまでパスが通っていないんです」
「それが柏木さんの記憶と俺たちの記憶が異なる理由なのか? 服部さんが入れ忘れた可能性だってあるじゃないか」
「あの方はとても良子さんを慕っておられますし。あの状況下で緊急時の医療キットを積み忘れるなどありえません」
「でも現に積んでないだろ? 他に答えは無い。入れ忘れたんだ」
言い切る俺にミウは白い指を振った。
「服部さんは積み込んだのに、なぜ薬がここに入っていないか……」
ミウは途中で口ごもり、イウは露骨に顔を歪めた。
「いやな予感がするぜ……」
連中はそれっきり何も言わず黙り込んだ。ミウは小さな口を一文字にきゅっと力を掛けるだけで、何も語ろうともしなかった。
それが余計に俺の焦燥感を煽った。
服部さんが薬を入れ忘れようが、柏木さんが指示しなかったでもなんでもいい。今さら過去を引き摺り出して責任の先を問題にしているのではない。どうにかして薬を手に入れなければ、麻衣は確実に死ぬという現実を何とかしたいだけだ。
俺は目をつむり黙考する。結論はこれしかない。
「ランちゃん、熊本へ戻ろう。そこへ行けば薬が手に入る」
普通に考えれば不可能なことなのだが、俺は完全に冷静さを失っており、血迷った言葉を吐いていた。
『現在の場所から最短で熊本へ戻るには阿蘇の亀裂を越えなければいけません。他のコースを行くと一週間はかかります。麻衣のショック症状は10分から15分以内という、早急の治療が必要なのです』
ランちゃんは俺を優しく諭すみたいにして告げた。
どうする――。
まっとうな方法では、薬が手に入る場所へ移動できない。
責任を果たさなかった過去を正すには、それより過去へ戻って注意を喚起する、それとも直接薬を手に入れて戻ってくればいい。
ここにはそんな夢のようなことを可能にする連中がいるじゃないか。
目の前がさっと開けた。明るい朝日を浴びたようだった。
「ミウ! 過去へ飛んで薬を持って来てくれ。頼む、麻衣を助けるには、もうそれしか方法がないんだ」
必死の懇願に対して、ミウは冷然と応える。
「落ち着いて修一さん。そんなことをすれば、我々の記憶に齟齬が生じます」
「記憶に齟齬ができたっていいだろ。記憶違いなんていくらでも起きてる」
「個人が記憶違いを起こしたのではないのです。世界が変わってしまうのですよ」
「麻衣たちがこんなことになっているのに、なんだよその言い方」
声を荒げる俺に反応して、ミウはみるみる表情を曇らせ、
「ごめんなさい。時間規則に犯するから、わたしたちは手が出させないの」
悔しげに下唇を噛んだ。
ミウの気持ちを察する余裕は今の俺には無い。頭の中は麻衣を助けることしか考えられない。
「服部さんさえ、入れ忘れなかったら……」
激しく悔やまれ、無念の涙が溢れそうになる。
「記憶違いじゃないわ。私の記憶も修一くんの記憶も正しいのよ。きっと記憶の齟齬って、こういうことでしょ?」
「そのとおりです。でも今問題なのは、麻衣さんと麻由さんとでパスが繋がっていたことです。つまり薬はあったのです。そのためにあなたが薬の指示をしたのです」
「意味が解からんぞ! 現実を見てくれ、麻衣は死にそうじゃないか!」
柏木さんも俺の意見に賛同。
「そこよ。現実に薬が無いじゃない。ということは私が指示しなかったからでしょ。じゃあなぜ麻衣が助かるの。どうしてそれが麻由の存在と繋がるの?」
俺の理解不能な部分を適切に指摘する柏木さん。麻衣と麻由とが時間的につながるってどういう意味だろ。双子だから、生まれた時間が同じだと言いたいのか?
俺は手を震わせてもう一度乞う。
「ミウ、見てくれ。麻衣は死にそうなんだ。これはどうしてだ?」
ミウは俺の疑問を振り払うかのようにして銀髪を強く翻した。
「それはまだ救助の手を差し伸べていないから……」
「じゃあそれまで指をくわえて待ってるのか? 救助が来なかったらどうする」
「そうよ。日高さんが過去に飛んで薬を持ってくれば麻衣は助かるじゃない」
「そうしたいのはやまやまです。ですが。良子さんの記憶違いが気になります」
「記憶なんてどうでもいいだろ!」
ミウは俺の顔をキッと睨み、麻衣の隣のベッドを指差す。
「いいですか。こちらのベッドに横たわる麻由さんが起こしてる現象は自己消滅なんです。それは麻衣さんとのパスが途切れようとしているからです。ですので、ここでわたしが間違った行動を起すと、異なる時間流に分岐してしまいます。そうすると、今のわたしたち、全員の存在すら危ぶまれるのです」
「お前らの言ってることは、さっぱり理解できん! しょせん俺の知能なんて猿人程度のモノさ。でもな、麻衣たちを助けたい気持ちは人の一千倍は持ってるんだ。頼む、過去に飛んで薬を手に入れて来てくれ」
強く懇願するが、ミウは空しく頭を振るばかり。
「麻衣さんと麻由さんにパスが繋がっていなければ、そうしたかもしれません。でも繋がっていることが分かっただけでなく、良子さんの記憶と我々の記憶が異なっていると判明したのです。ここまで来ると事態を楽観することは出来ません。強行すれば別の流れが発生します。そうなると麻衣さんが助かったとしても、麻由さんにどう影響が出るか。もし消滅したら……そんな世界耐えられますか? あなたならこの意味がお解りでしょ?」
激しい苛立ちに襲われて麻痺していた意識が甦った。精神操作を受けて見せられていた分岐した未来の映像。麻由の存在が無い未来。あれが現実になる。
「それは考えたくない……」
抜き差しならぬ現状に、力が抜けて膝を落しかけた俺へ、さらにイウの追撃が入る。
「もし入れ忘れたのが事実なら、コピーねえちゃんは蜂に刺されて、ここで死ぬ運命なんだ。どう考えたってそうだろ。薬が無いんだからな」
イウはとんでもなく冷たい言葉を吐いた。だがこの状況ならそうだ。反論はできない。しかし、俺はわずかでも未来組に期待を込めていたんだ。お前らリーパーなら何かできると。
「正しい時の流れは運命と言われています」
ついに俺は切れた。その乾いた言葉が最も腹が立つ。思考が消え失せ血液が沸騰した。
「バっカヤローっ! なんでお前らそんなに淡々としてんだ! どうせ生きていた時代が違うから。俺たちのことなんて他人事なんだろ!」
パンッ!!
叫んだ俺の頬をミウが平手打ちをした。
「痛っ!」その衝撃でやっと我に返った。
ミウは奥歯を噛み締めて、強い決意の表情を浮かべており、それを代弁するかのようにイウが喚いた。
「落ち着け、修一っ! こいつの話にはまだ続きがあるんだ! お前はコピーねえちゃんのこととなると見境無く熱くなりやがるな」
「…………」
ミウに平手打ちされた頬を押さえて、俺はイウをポカンと見つめた。
「このねえちゃんには複雑にパスが繋がっていたんだ。もうひとりのねえちゃんとお前にも繋がってる。だからここでは死なない。誰かが助けたんだ。だからこそパスが繋がっていたんだ」
俺たちにパスが繋がっていたから、誰かが助けた?
いや、助けたから繋がった?
どっちだ?
言えることは一つ。助けなかったらパスは繋がらない。
何のことだ?
「パスってなんだよ? 意味がよく解からねえよ」
ていうか、こういうことか?
「まさか、麻衣の存在が麻由を導き出すと言いたいの?」
パスってそう言うことか。でもいったいどうやったらそんな現象になるんだ?
「やっと理解したか。そうだ、誰かがこのねえちゃんを助けたんだ」
最大の謎はそれだ。さっきからそう言い切る理由は?
イウは柏木さんを輝く片目で睨んで大きく首肯すると、得々と語り始めた。
「だがな。その説明をここでするには時間が無い。この子を助けたかったら、ひとまず棚上げにしろ、時間ができたらパスファインダー様が直々に説明してくれるだろう」
そこを聞きたいのは誰しもそうだが、もう事態は切迫している。そう判断した柏木さんが動いた。
「分かったわ。でも必ず説明してちょうだいね」
「もちろんだ」
俺たちが黙り込んだのを見届けると、イウは続けた。
「じゃぁ誰が助けたかという話だ。現時間のお前らか、もしくはオレたち未来組か、それとも別の人物か。簡単には答えは出せないし、うかつに手も出せない。まんがいち違う人物が手を出したら、それで未来は変わる!」
「変わる?」
「本当にお前ってヤツは……抜けた野郎だな」
怒り出すのかと思ったら、手のひらで俺の頭を包むと、ガシガシ擦りながら微笑みまで浮かべやがった。
「修一。この中は空っぽなのか? さっきミウが説明しただろ。お前ら現代組はオレたちの過去なんだ。それを素手で触ってみろ、どんな結果が自分に跳ね返ってくるか。この中の誰かがいない世界に切り替わるか、最悪は全員がここにいなくなることだってあるんだ」
「でもこのままじっとしていても、ラチがあかないんだろ?」
それでも俺は食い下がらなかった。
「わたしがこの二人を助けます」
頭の後ろに手をまわしてゴーグルを外そうとしたミウに、電撃ショック受けたカエルみたいにイウが飛びついた。
「バっカ野郎! パスファインダーともあろう者がなにトチ狂ってんだ。そんな無茶苦茶な時空修正はダメだ。リーパーの掟に背く気か! それは反乱、いや謀反って言うんだ」
「時間規則を破った犯罪者に語られるとは、わたしも地に落ちたものですわね!」
「オレのとはレベルが違う。オマエがやろうとしてるのは、時間の流れを本質から変えてしまうんだ! そんなことをしてみろ!」
イウは眉をつり上げ、この世の終わりだと言わんばかりに叫んだ。
「かたくなにそれを守って来たリーパーたちへの冒涜じゃねえか!」
興奮するイウとミウに向かって、ランちゃんが割り込んできた。
『日高ミウさんの血圧と脈拍が異常です。興奮しすぎています』
ミウはキッと天井を睨め上げ、
「お黙りなさい。リーパーは常人とはかけ離れた身体能力を持っています。AIが口を出すところではありません」
『しかし……』
「オマエ、理解して喋ってんだろうな。『時間項』でない者が、時間の流れを変えるとどうなるか」
何か言おうとするランちゃんの言葉をイウがかき消した。
「そんなことは百も承知です!」
彼女は両手の拳をギュッと力強く握り、
「わたしが手を出したことで、もし……。もしわたしたち未来組が消滅しても。わたしはこの子たち、いや、現代組を放っておくことはできません!」
拳を握りしめ、ミウは決意に満ちた表情で言い切った。
「ふははははは」
いきなりスマイルとは言いがたい哄笑を始めたイウ。もう何がなんだかさっぱりだ。こいつらだけで会話が成立して、俺は完全に対岸に押しやられており、眼帯男と銀髪少女の言い争いを交互に眺めるしか手段は無かった。
「へへっ。言い切りやがったな。オマエがそう決めたんならオレも従うぜ。へっ! 面白くなってきやがった。みんなで時間規則を破れば怖くない、だぜ!」
イウは楽しげに言い捨てて、偉そうに椅子へどかりと座り、腕を組んでミウをじっと熱い視線で見つめた。それは血縁者が自分の身内に注ぐ慈しみを帯びた表情だった。
次元の異なる高品質な論戦は、俺の稚拙で無様な訴えなど綺麗さっぱり洗い流されており、興ざめもいいところだ。
「なぁ。分かるように説明してくれよ」
イウは人差し指で俺の額をぽんっと押して、楽しげに言った。
「ミウは……な」
意味ありげに間を空け、
「……修一のために命を投げ捨てるんだとよ」
「ば、バカ。現代組みんなを守るだめです。個人的な意味合いはございません」
顔を真っ赤にして下を向くミウをさらにからかう。
「リーパーはな、現時の人間に影響を与えてはいけない。また与えられてもいけない、という鉄則があるんだ。それをミウは破ろうとしてんだよ!」
「えっ!」
時空理論だとか時間規則なんてクソ喰らえだが、何となく今の言葉は俺でも理解できた。できたらできたで、黙り込んでしまう。
「そっか。あなたちは未来のことを私たちに知らせることはできないのね。知らせたらそれは未来ではなくなるのよ」
相変わらず柏木さんの頭脳は明晰のようだ。俺なんかトラック半周、いや周回遅れになりそうだというのに、連中の会話にちゃんとついて来ていた。
「俺には難解すぎます」
そう答えるの精一杯だった。バカだな俺って……。




