第三百五話 閉幕・Ⅲ
誰が悪かったのか。何が諸悪の根源だったのか。
その大元を辿れば、力を付与した世界だった。世界が明確な選別基準を持たずに付与したことで対象は暴虐の限りを尽くし、結果的に暴君となって世界の権限を奪った。
全てではないにせよ、今や海側の世界が保持する権限はあまりにも少ない。超越者となった海を打倒することも、力そのものを戻すことも出来ず、世界は傍観者として海を見ることしか出来なかった。
故に彩が処断すべきは海だったのかもしれない。よくも曖昧な基準で決めたなと、断罪の刃を突き立てるべきだった。
しかし、彩が憎むべき敵と定めたのは海だ。例え本能的なものであったとしても貪り食らう弱者を求めて空間を砕き、此処まで侵略を進めてしまった。
世界が力を付与させたのは事実だが、最終的にそれを是としたのは海だ。思考能力の無い本能のみの活動とはいえ、それでも自由を持っているのであれば維持を優先することだって出来ただろう。
「お前はただ、暴れたかっただけだ」
巨大な海に対して海中に巨大な爆発物を何百と出現させる。
サイズは東京タワーと同程度。全てに最初から火が入り、出現した直後から一気に爆音を響かせる。何百の火は海水を先程とは比較にならない速度で蒸発させていき、明確に傷を与えていく。
消えていく自身の身体。喪失の激痛を海は堪え切れず、絶叫を上げて彩に憎悪の目を向けた。
しかし、それ以上の激情を彩は持っている。彼女の瞳には暗い炎が灯され、コアの先には何百何千といった規模の歴代達が極大の殺意を迸らせていた。
貴様程度が憎悪を向けるな。全てを狂わせたのはお前の所為で、ならば囚人の如く苦しみに耐えろ。
言外に放たれる嚇怒の念を海は理解出来ない。即座に失った分の海水を吸収した星を使って再生させ、激痛の元凶たる彩に迫る。
その攻撃に先程までの何処かゆっくりとした素振りは微塵も存在せず、ただただ嘗て滅ぼした人間のように必死だった。
口角が吊り上がる。何と情けないのだろうとその滑稽さに嘲笑が表に出てきてしまう。
海とは本来、人もデウスも敵わぬ脅威だった。傍若無人が如くに他の世界を浸食し、望むがままに虐殺を繰り返す存在として歴代の中でも恐れられてきたのだ。
それが感情を無理矢理に叩き込まれた瞬間、一切の余裕を失った。
勿論、今代の彩が特殊であったのは言うまでもない。彼女が異なる方向に進化を果たしたからこそ、現在状況は発生している。
さりとて、それでも嘲笑わずにはいられない。たかが感情を手にしただけで焦りを抱いた。
絶対王者であったのならばそのように振る舞えば良いのに、相手は最初から全力だ。絶対に殺し切ってみせると言わんばかりに水量を増し、無制限に強化される緑の膜を破壊しようと尽力していた。
「力を得られて興奮しただろう? これで誰にも邪魔されないと思っている。 そうでなければこんな真似はしない」
超越者を持つ前だった海の過去を彩は知らない。
しかし海は、感情を得たことで過去の自分を思い出す。深く深く漂うだけだった自分が誰も届かぬ力を手に入れ、暴虐の限りを尽くした。
その当時は何も感じはしなかったが、確かに今は愉悦を覚えている。自分は誰よりも上で、如何なる生物も震えるだけの小動物へと成り下がった。怯える必要も無く、理不尽が許容される世界。それを素晴らしいと感情は肯定し、故にこそ相手の居ない世界で王者となってはつまらない。
叩き潰せる相手が居てこそこの力に意味がある。涙混じりに懇願する人間を見て、自身の子を震えながら庇おうとする親を見て、勇気を振り絞りながら立ち上がる敵を見て――――それを理不尽に踏み躙るのだ。
何たる爽快。自身の主柱に響く快楽は、何度思い返しても忘れられるものではない。
であるからこそ、空間を壊してでも相手を求めた。海は自身を分析し、そのように結果を得た。
海の沈黙を受け、彩は笑みを深める。やはりお前は鬼畜外道で、救いようのない屑でしかないのだと。人間の範疇で考えてはならぬのだろうが、それでも人の感情を与えた以上は海にも効いてしまう。
「そんな奴が生きていて良い訳ないッ。 さっさと死ぬか、二度と姿を見せるな!!」
裂帛の怒声。
嘗て彩がここまで大きな声を発しただろうかと思う程に声を荒らげ、海に罪を突き付ける。貴様の自己満足によって迷惑を被った人間が居て、今もこうして被害を受けている。
これ以上言い訳を放つ権利すらない。少しでも良心を抱えているのならば、自殺をするか存在そのものをその世界に留めたままにしておくべきだ。
責めて責めて責め、海は言葉に窮する。初めて抱いた感情に戸惑いはあれど、確かに海には罪悪があった。
愉悦を求める抑止は存在せず、理性は最初から破綻したまま。折角獲得したとして、生まれたばかりであれば極大の本能に流されてしまうのも当然。
けれども、僅かばかりの良心が強く海を咎める。産生を上げた自我の一部がひたすらに責め立て、自身の道が正しいのだと信じ切ることが出来ない。
愉悦と自責が同居した心は不安定なまま。だからか、海は何時の間にか攻撃を止めてしまった。
その間にワームホールの閉鎖は進んでいき、最初と比較すると酷く穴は小さいものとなる。
未だ大型の重機を何十と纏めて送り込めるだけの幅はあるが、最初の大規模攻勢を仕掛けるだけの空間は存在しない。
それを目にしつつ、海の深奥は己の深奥に目を向ける。愉悦を感じ、自責を感じ、更にその奥へ。自身が一番最初に感じたものはなんだったのかと記憶を思い返し、魂は唐突に答えを示された。
生存。
最初は防衛本能に支配されての行動だった。それから大きくなるまでも防衛本能が第一となり、多くの生命を食い潰せるようになって初めて防衛本能は消えたのである。
そこに愉悦は殆ど存在せず、あるのは安堵だった。決して誰かを殺した事による愉悦ではなかったのだ。
思い出し、目玉は忙しなく動く。唐突に湧き出す圧倒的な罪悪感が彼の胸を燃やし、暴虐の高揚は消えてしまった。
水が引いていく。彩達の世界に居る怪物達も元の水へと変化していき、その水がワームホール目掛けて一斉に集まり始める。
「惨めに生きることを選ぶか」
――是。これ以上の暴虐を、私は許容しない。
「はッ、身勝手なことだ。 殺すことを許容しないくせに、自分が罰を受けることを怖がっている」
――否定はしない。私は二度と、他所の世界に顔を出すことを止めよう。
殺すことを肯定出来ない以上、殺害をすることは出来ない。
そして原初が生存であった海は、殺される報いを受けることを恐れて手を出さないことを示した。彩の力は海を殺し切るには十分だと本人は確信し、そうならない為に言葉を送るのだ。
忘れていたものを思い出して、どうか殺さないでくれと。その様は王者であるとはとても考えられず、これまでの海という存在を殺す様であったのは間違いない。
これが彼女が送る、公開処刑。海は彩ならば殺せると考えていたようだが、生存に重きを置いた存在が本気を出せば流石に彩も殺し切れない。
まだまだ彼女は並んだだけ。飛び抜けなければ、やはりどうしても滅ぼすことは出来ないのだ。
ゆっくり、ゆっくりと水は彼女から離れていく。ワームホールへの干渉も止まり、これまでの勢いが何だったのかと言いたくなる程に閉鎖が進む。
「二度と姿を見せるな」
――誓おう。だが、他の穴の閉鎖は任せた。私にそれを直す方法は思い浮かばん。
「怠惰な奴め。 ……だが、受けよう」
彩は絶対に海を許さない。海も彩に許してもらおうとは考えていない。
互いは絶対に干渉し合わず、二度と出会わぬことを誓って別れた。
日本のワームホール閉鎖は進み――最後には元から無かったかの如く消える。世界中から怪物の存在が消え、残るは開いたままも同然の穴が静かにそこにあるだけだった。




