第二百二十八話 無思慮の挑戦者
一日を過ぎ、俺達には何の異常も起きはしなかった。
食事は施設の食堂を使い、日用品は売店で購入し、少々肩身が狭いながらも一般的な生活を送れたと断言出来る一日となった。
残念ながら風呂はシャワーのみとなったが、そもそも旅の中では風呂に入れない事も多くある。
過去の出来事を思えば、風呂に入れない程度は何の問題も無かった。熱い湯は俺の気持ちを明るくさせ、大盛のカレーに腹を膨らませ、気さくに話し掛けてくれる兵達のお蔭で寂しさを感じることも無い。
酷く充実した時間だった。それだけでこの施設が大事だと思う程度には情を感じてしまい、呆気無い我が身に呆れすら感じてしまう。
だが久方振りに心から笑えたのだ。彩も最近ではあまり見なくなった暖かい笑みをよく向けるようになり、紛れも無く此処がデウスにとっても過ごし易い環境であると宣言出来る。
此処は本来、十席同盟の為に用意された施設だ。
その権限の全てを十席同盟のデウス達が保有し、俺達が自由に使うことは許されない。時間は細かく決められ、順番を守って風呂に入るという集団行動は必要不可欠だ。
例え客人相手でも規制は掛けるものだが、SAS-1は基本的に全てを自由にさせた。
それは枷を嵌めても破壊するからという諦めも混ざっているのだろう。俺達はルールを破るつもりは無いが、彼女達にそう受け取られてしまう部分は確かにある。
最低限守ってほしいことだけを告げ、SAS-1は別の仕事へと向かってしまった。
その間に彩はこの施設の情報を全て吸い上げ、極秘も含めた部分もブラックボックスに保存している。
「予想通りではありましたが、此方に関する不利な計画は何も無いようですね」
「有難いことにな。 ……だが、彩が調べたのは此処だけだ」
極秘の計画の中には非合法な物も含まれていた。
人体実験は流石に存在しなかったものの、幾つかの倫理的問題を抱えた計画はあったのである。
ただ、それを見つけても沖縄奪還に大きく影響は無い。それに、件の計画は全て確りと参加する意思を出した者だけが受けている。
それについて口を出す権利は無いし、そもそも此処にある情報だけが全ての極秘でもないだろう。
此方が警戒をしているのは向こうも解っている。それ故に彩が全力で調べ出すことも、彼等にとっては予想の範疇に収まっているだろう。
だから敢えて極秘の中でも比較的露見されても大丈夫なものだけを残した、と結論を出すことも出来る。
もしかすれば大量殺戮を起こす計画を練っているかもしれないし、彩に追い付くべく新兵器の計画を立て上げている可能性もあるにはあった。
ただ、それは現実的な話ではない。今も軍は数多くの準備に兵を走らせ続けている。
「今はまだと思って良いだろうな。 少なくとも今日明日の間に完全な敵対関係が出来上がると思わなくても良さそうだ」
「憂いが無くなる事は素直に喜ばしいですが、それで足元を掬われることは無いようにしたいですね。 流石にあちらも、いい加減此方の対処法の一つや二つ程度は持っていると思いますから」
「解っているとも。 だけど、そう簡単に君の目から逃れられるとも思えない」
彼女の懸念は尤もであるが、だからといって彼女が警戒をしない訳が無い。
今も蜘蛛は回収されておらず、情報は常に集積中だ。この目から逃れるには、それこそあらゆる情報を遮断する堅固な金庫にでも籠らねばならない。
それは不可能だ。最初から彩を想定した基地作りでもしていない限り、彩の手を逃れる事は出来ない。
今はまだ軍は沖縄奪還に意識を向けている。それが無事に終わったとしても、今度は彩を警戒してあの街で小細工を弄することは出来ない。
脅威を知らしめ、畏怖を叩き付け、それをもって初めて新しい平和は始まる。
デウスの未来に必ずしも今の軍という組織は必要ではないのだ。それを向こうも理解しているからこそ、出来る限り優し気な対応を取っている。
そうせねば日本が平和になった後に排斥されてしまうかもしれないからと、怯えているのは明白だ。
俺達だって明日の事を見ることは出来ない。全てを決める戦いの最中で死に、彼等の天下が巡って来る可能性も零ではないのだ。
――二日目の昼。
決して安息出来る筈もない場所で安息の時間を過ごせているのは、一重に今は放置されているが為。
今回の話で要扱いされているだろうが、それでも此方を害するつもりは一切あるまい。全ては彩やあの街のデウス達が抑止力として機能しているからこそで、決して俺が作り上げたものではなかった。
隣に愛すべき誰かが居て、まだ明日を見る事を許されている。
それがどれだけ幸福で、手放してはいけないものか。最早俺は見間違えるつもりは無い。
死んでも良いと過去には考えていた。それは今も完全に消えた訳ではないが、そんな思考は彩の想いを無下にするだけだ。
生きて生きて生き抜いて。彩達と日常を謳歌する。
その為に此処に来ているのだし、嘗ては敵だった者達を利用するのに拒否反応は無かった。
「――そろそろ来ますね」
「……やっぱり来るか。 出来れば最終日にしてほしかったんだが」
だが、相手は俺と同じ想いを持ってはいない。
それを示すように彼女は俺に熱源が近付く事を告げ、直ぐに前面に一枚の盾が展開された。
直後、扉を吹き飛ばすような大きな爆発が俺達に襲い掛かる。鼓膜が破れかねない爆音は懐かしさすら覚えるもので、しかしこんな感覚を懐かしみたくはなかった。
室内は煙で満たされ、とてもではないが人体が活動出来る領域ではない。にも関わらず俺が平気なのは、彼女がその煙をブラックボックスに吸収しているからだ。
例え煙であろうとも、それは気体という確かな形をしている。であれば、彼女に干渉出来ない道理は無い。
現実的に有り得ない速度で煙は消えていき、残るは残骸となった幾つもの黒焦げの家具が部屋に散らばる。そして、破壊された扉の先にはV1995の姿があった。
片手には細長いバズーカのような火器。もう片手にはハンドガンが握られ、その銃身は既に此方に向けられている。
部屋の外からは警報音が鳴り響き、人々の騒音が遠くに聞こえた。
V1995の目は一瞬も逸らさず、俺に注がれている。そこに宿っているのはあの場よりも濃い憎悪で、恐らくが俺が見た中では最も感情的なデウスだ。
それだけの殺意を滾らせながらも、彼はまだ理性を喪失していない。
狂気の淵に立ちながらも常人であることに拘っている。それ故か、酷く精神的な揺らぎも大きくなっているのが俺の目からも窺えた。
「……只野信次。 貴様に頼みがあって来た」
「此処をこんな風にした上で、それを言うのか。 お前がしていることがどれだけ非常識なのか、理解している筈だろう?」
「解っている。 これが終われば俺は処罰され、初期化は免れない。 だからその前に、確かめたいんだ」
何を確かめたいのか。
それを今更尋ねる程、俺は野暮ではない。彼が望むのは真実だけだ。
あれだけの言葉を重ねても、彼は彼女が言っている内容が正しいと信じ切れなかった。だからこそ、命を懸けて真を尋ねたいのだろう。
お前がどれほどの窮地に立たされたとしても、同じ言葉を吐けるかどうか。
その為に強襲し、周りの騒ぎを承知の上で俺を殺害しに来た。今この瞬間において、彼の頭には組織の繋がりなどどうでも良いのだろう。
此処に立つのは十席同盟の男ではない。ただの一デウスとして人類の生存を放棄した。
本能を凌駕する想いを見せる相手はこれが初めてだ。こんなにも人間らしく暴走し、こんなにも俺の胸を熱くさせる。
これは誰もが望んでいた事態ではないだろう。そうなると思いながらも、そうなってほしくないと願い続けた結果に違いない。
それでも、俺は確かに感動を覚えていた。
人間らしい感情の暴走をデウスも備えている。更に人間との違いは無くなっていき、彼等はどんどん独自の歩みで人に近付いていくのだろう。
「何度でも言う。 俺と彩の間にあるのは純粋な愛だけだ」
「――ッ!」
目を逸らさずに俺は真正面から同じ言葉を繰り返す。
その行動に彼は目を見開きながらも、口を軋ませてハンドガンの引き金を押した。




