第百七十五話 低く静かに進行せよ
何をもって贅沢と判断するかは、その人の気質が定めるものだ。
自分が自由に使える資金を多く持っているか、家が大きく豪奢であるか、己の才覚が他者よりも突出しているか。
見方を変えれば、複数の女性に好かれることも贅沢だと言えるだろう。
十人十色。今挙げた例も贅沢ではないと判断する者も存在し、そういった人間の求める贅沢のラインは高い。
それは時として人間の範疇では達成出来ない、非現実的なものになるだろう。そして、前人未到という言葉に人は容易く魅了されてしまうものだ。
滋賀基地に居る指揮官も、その点はまったく変わらない。他の人間と同じく、誰も到達出来ない場所を目掛けて今も部下達を酷使させ続けている。
「準備が終わるまで残り十日は必要です!」
「ならん。 なんとしても五日で準備を完了させろ」
一人の兵が滋賀基地の指揮官に食って掛かる。
その行為が自身の首を絞める事になると理解していても、準備期間の延長を求めて嘆願していた。
今現在において、滋賀基地は混乱状態だ。降って湧いたような戦闘準備に、命令内容が隠されている所為で兵の誰もがまるで理解出来ていない。
その上、攻撃する対象が既に機能の半分以上が落ちた街だ。その街には怪物の存在は確認されず、被災者達が協力して生きている情報しか来てはいない。
そんな場所に攻め込んだとしてもメリットらしいメリットなど存在する筈も無いのは明白だ。
一部ではデウスが潜んでいるとの噂が流れているが、その情報の裏付けは出来ていない。故に、兵の誰もが真実を知らずに準備をしなければならないのである。
「指揮官殿! せめて明確な攻撃対象のみを教えていただきたい! そうでなければ此方も想定することは出来ません!!」
「行けば解る。 此度の戦いは最大でもデウスクラスの想定でいけ」
「……ッ、!」
歯軋りをしつつ、兵は敬礼をして出て行く。
最後に扉を強く叩きつけ、後には静けさだけが執務室に広がった。肥えた腹を撫でさすりつつ、指揮官は一つふんと呟く。
「五月蠅い男だ。 私が命令したのだから、そのまま準備を済ませれば良いものを」
兵とはそういうものである。
命令を受け、従順に行う。その後に評価するのが指揮官であり、何かの不備があれば責められるのは担当した兵だ。
それはデウスであっても変わらない。寧ろ、デウスの方が兵よりも従順であるべきだと彼は考えていた。
机の上に置かれていた珈琲を口に含む。完全に冷め切ってしまった珈琲は彼の想像よりも苦く、思わず渋面を浮かべてしまう。
苛立ちを含んだ顔は一度手元のベルを鳴らす。
直後、扉は開かれて一人の女性が入って来る。一般的な紺の軍服を着込んだその女性は、軍服と同色の髪を腰まで伸ばした美人だった。
「どうかいたしましたか?」
「新しい珈琲を用意しろ。 あの馬鹿の所為で冷め切ってしまった」
「かしこまりました」
溜息を一つ。
頭の中にあるのは今後の予定と、自分の未来予想図。残りの期間で全ての準備を終え、廃墟だらけの無人に近い死んだ街を襲う。
相手の設備群は全て停止中だ。例え多少なりとて復旧したとしても、それでは焼け石に水程度。
潤沢な資源を用意する繋がりも、軍の状況を考えれば助けてはくれないだろう。残る心配事と言えば軍でも話題のデウスであるが、単騎である時点で限界は見えている。
デウスが強力な存在である事は彼とて理解はしているのだ。その上で、同時に限界も理解している。
単騎でも活躍するとはいえ、支援の少ない状況では徐々に疲弊していくだろう。滋賀基地のデウス部隊を全てぶつければ、どれだけ強くとも拘束するのも可能に違いない。
何よりも、あの街には人間が居る。人質を取ってしまえばデウスも手を出せず、そのまま武器を捨てるだろう。
後は街に住む人間を全て処理し、デウスを機能停止状態にさせて本部に運ぶ。
今現在、本部はあのデウスの扱いに関して議論に議論を重ねている。
手厚く支援するべきだとか、逆に破壊すべきだとか言われているその状況で、彼が彩を連れてくれば本部は一気に議論を終了させて実験に踏み切るだろう。
そして、その功績を讃えて彼は昇進する。彼女程の希少性を有するのならば、二階級以上は固い。
だが、他の基地からは迂闊に手を出す行為を咎める言葉も来ていた。軍勢として戦えば勝てるかもしれないものの、此方にも手痛い被害を受けるだろうと注意されていたのである。
その言葉を、彼は全て無視していた。この行為によって滋賀基地そのものが孤立するのならば考えたが、同じ派閥内で密かに手を貸してくれている指揮官クラスの人間も居たのだ。
お蔭で最初に予定された期間を圧縮させる事が出来てしまい、故にこそ彼は急がせているのである。
「此方が準備をしているということは、彼方も準備をしているということなのだぞ……」
どうしてそれが解らないのかと、彼は一人憤る。
相手は決して強くはない。だが、準備期間というものは人に希望を与えてしまう。これだけ準備すれば大丈夫ではないかと思わせる感情は、諦観を容易に吹き飛ばすものだ。
被害を最小に、尚且つ相手の心を砕く。それこそが最良の結果であり、理想である。
運ばれた熱い珈琲に手を伸ばし、喉を潤わせた。苦味のある液体が喉を通る度に目は覚め、苛立ちも多少なりとて引いていく。
女は一礼の後に部屋を去る。彼は何も告げず、再度この空間には静寂が満ちた。
巨大な窓からは今も準備を行う兵達の声が聞こえ、同時に見慣れぬ集団も視界に入る。デウスが二割に人間が八割のその集団は、彼の行動に期待を寄せる一部の基地からの支援だった。
「誰も彼も、あのデウスを求めて覇権争いの真っ最中。 俺がそれを手にして、この基地を最強にしてみせる」
デウスの全てがあの力を獲得すれば、勝てない道理は何処にもない。
北海道でも苦戦していた状況を一変させたのだ。その後に彼女が提供した武器は全て溶けたという知らせが入ったが、それならば全員が力を手にして増やせばよい。
彼女を確保した後に本部に送るのは事実だ。だが、その前に一度中身を除くくらいは許されるだろう。
それだけの結果をこれから残すのだから、逆に認めてもらえなければ此方が困る。そして、解析した情報から彩と同等の事象を発生させるのだ。
一度目は失敗するだろう。二度目も失敗する可能性はある。だが、三度目もあれば成功になるに違いない。
「その時が、俺の天下だ」
歪に笑うその相貌。醜悪さを隠さず、彼は脳内に広がる自分の姿に歓喜した。
その未来に到達する為に、無数の屍が出来上がるのだろう。人間もデウスも関係無く、誰が死んだとしても彼は一切気にせず屍の上で豪奢な椅子に座り込む。
周りからは羨望を向けられ、デウスを侍らせ、日本という国の中で彼は天下を謳歌するのだ。
笑い声が執務室を満たす。何処までも悪意に塗れたその声に、国を護る男としての姿は存在しなかった。
「――想定通りね。 まったく、簡単なのもつまらないわ」
執務室の扉の前で、先程珈琲を差し出した女が嘆息する。
胸の中には不快感が漂い、この仕事に関する難易度の低さに呆れすらも彼女は感じていた。そのまま彼女は廊下へと進み、直ぐ近くで待機していた別のデウスに命を下す。
「予定通りに動きなさい」
「了解」
足早に去って行くその姿を視界に収めず、女は低く呟く。その声音に籠っている感情は、暗い喜びだ。
「もうすぐ私達の時代が始まる。 その為にも、あんなゴミは排除しておかないとね。 ――そうでしょう、彩様」
網膜部分に一枚の画像が投影される。
そこに映っているのは、紺色の軍服を着込んだ一人の女性の姿だった。
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