第百十二話 予期せぬ被害
「おはようございます、指揮官」
「ああ、おはよう」
早朝の五時。未だ客人である只野達は寝ている時間であり、されど軍では仕事の開始時刻である。
デウス達は交代でデータの更新等をしながら起き続けていたので人間の睡眠について感覚を理解出来ないものの、そういうものであると認識はしている。それ故に眠たげな眼の指揮官の状態を正確に理解は出来ずとも、秘書として任命されたデウスは半ば自動的に出来立てのコーヒーを机の上に置いた。
砂糖とミルクの入っていない純粋なブラックコーヒーを指揮官は何時もの如く飲み干し、残り僅かな眠気を振り払う。
机の上には夜間にも届いている無数の書類の山。これを全て一人で処理するのは半ば不可能であり、であるからこそ処理速度の速いデウスが秘書に一人付いている。
「客人の状態はどうだ」
「現在は変化しておりません。只野様を他のデウスの方々が指導しています」
「そうか。まぁ、男としては守られっぱなしである事が我慢出来ないのだろうな。気持ちは解る。……そのままにおけ」
「かしこまりました。……では本日の業務を開始致します」
伊藤指揮官は彼女の無表情を暫し眺め、次いで書類に視線を移す。
その姿を見ながら、秘書となったデウスも自身が受け持つ書類を胸に抱えた。彼女が担当する書類の多くが現場関係の物が多く、その場で書けない類の物も存在している。
だからこそ、挨拶を済ませた彼女は今日も指揮官によって定められた通りに武器庫やデウスの状態確認に向かった。
指揮官から見送りの声は無い。常日頃からそれは当然のものとなっていたが、今この基地に所属するデウスにとってその言葉が無いのは酷く寂しさを感じてしまう。
仕事上の付き合いならば相応に親しくなければそんな言葉は出はしない。一般常識に疎くとも、軍に身を置いていれば流石にその程度の常識は身に付く。
だからこそ解ってしまうのだ。互いの温度差が、互いの理解の深さが。
デウスは指揮官について多くの情報を手にしている。それは指揮官としての手腕や、日々の癖などだ。それらを真面目に細かく記録しておく事で支配者から悪い印象を持たれないようにするという行為が確立され、デウス達の全員にその情報は共有される。
そして、反対にデウス達の指揮官は何も知ろうとはしないのだ。待遇が悪くないだけ万倍有難いものの、それでも冷めた視線はデウス達が求めたものでは一切無い。
欲しかったのは肯定だ。言葉一つ、行動一つ、何かでデウス達を褒めれば関係の悪化は起こり得なかった。
「――VS-11」
廊下を進みながら女性型のデウスはそっと呟く。
周りには誰も居らず、普段ならば廊下を歩く他の兵士の姿も見えない。完全な一人きりの状態である筈だが――不思議な事に彼女の背後からいきなり別の影が現れた。
恰好に差異は無い。共に支給された紺の軍服を身に纏い、違うのは頭部くらいなものだ。
「経過に変化は無し。依然として交流は継続中」
「そう、ならそのままで。指揮官には私から嘘を流し続けます」
片方は只野達を、もう片方は伊藤指揮官を。
双方は言葉によって情報を共有され、現在の情報を上書きする。足が向く先は中庭であり、今現在において訓練の開始されていないその場所に向かった所で意味は無いだろう。
しかし、彼女達の目には明確な確信がある。不安など一寸も無い堂々たる足取りで中庭に向かい、そして到着する。
普段であれば緑の多いそこには無数の色彩が並び、中でも一番目立っているのは紺の色。
静寂に満ち、日々の精神的苦痛を落ち着かせる休憩スポットは無数のデウスによって完全に占拠されてしまっていた。
全体の約八割。終結した人造の群れは恐ろしいまでのタイミングの良さで秘書に視線を向ける。
普段であれば美しいと評される筈のその顔はしかし、何故か見る者を不安にさせる雰囲気を纏っていた。
「皆様、解り切っているとは思いますがご静粛に。不要な真似をされてしまってはあの方が起きてしまいます」
秘書の静かな声が中庭を満たす。その言葉に対してデウス達は何も言わず、表情にも出さず、ただただ無を貫いている。まるで起動前の出荷状態が如く、デウスは一体の肉と機械の塊として立つだけとなっていた。
その様に満足そうに秘書は息を吐く。呼吸すらしない現在の状態は隠密性を極限にまで高めたものとなっている。
この中庭は最初からデウス達の休憩所として使われていた。それ故に普通の人間は近寄らず、近寄る人間は此処の指揮官や他の指揮官くらいなものだ。
まったく可能性が無いという訳では無いものの、それでも確率としては極々少数。騒がなければ警備員の一人もやって来ない場所だけに、息を潜めば大群が立っていても気付かれない。
「……さて、本日もあの方から提案のあった訓練があると思います。最初に決めた通りのメンバーは間違える事無くあの方に怪我を負わせる事は無いように。もしも怪我を負わせた場合、あの方の言葉とは関係無く秘密裏に処分されるものと理解してください」
内容は只野がある日より提案した訓練について。
その人員について秘書は説明しているのだが、様子が普通ではない。あまりにも只野に対して配慮しているし、事故が起きた際の罰則にしては非常に重い。
もしも只野が死亡する程の事故であれば処分も止む無しであるが、怪我でそうなるのは過剰だ。
しかし、そこに居並ぶデウス達は誰一人として不満の声を漏らさない。それどころか内心では本日のメンバーに対して嫉妬をしている程だ。
デウスを本当の意味でデウスとして扱ってくれる人間。その貴重性を知っているからこそ、少しでも懇意の仲になりたいのだ。
残念ながら既にトップの座は明確な形となっているが、未だそれ以外の空席が埋まっている気配は無い。
この基地に滞在するのは残り二週間程度。その間に可能な限り彩の記憶に残るような成果を見せなければ、此処に居るデウス全員がその他の区分に収められてしまう。
平等に、かつ情を持って接してくれるのは現状において只野のみ。それが心からのものであると解っているからこそ、依存と知りながらデウス達はその沼に浸かってしまう。
最初の接触の時点で軍では絶対に見ない人間だとデウスは判断した。二回目に会話をした時は、上下関係を感じさせない喋り方に歓喜を覚えた。
三回目、四回目、五回目、六回目。一言二言でも、デウス達は記憶領域に彼の言葉を詰め込んでいく。
それを絶対に忘れないように三重のロックを掛け、データ更新の際には万が一の破損の可能性を予想して全員の記憶領域にバックアップを残してある。
「現状、伊藤指揮官は貴方達が訓練に参加している事を知りません。Z44殿が注意すると思ったのですが、彼は一向にこの状況を眺めるだけとなっています。警戒は怠らないように。私の方からも手を回しておきます――――それにしても」
この基地内において、唯一の不確定存在はZ44だ。
彼が直接指揮官に言えばこの集結も直ぐに知れ渡る。そうなれば即座に解散を促すであろうし、客人の只野にも注意が飛ぶだろう。
それは自分達が彼に迷惑を掛けた事になる。既に彩に教わるという迷惑を掛けておきながら、更に追加で迷惑をかけさせるなどしてはならない。――――そんな真面目な秘書の顔も、次の呟きを最後に変わる。
口元が綻び、頬を淡く染め上げ、視線は中空を漂う。さながら陶酔とも取れる表情はしかし、自由の許可が下りれば皆が行いたいと思っている顔である。
居並ぶデウスの瞳には狂信の二文字が浮かび、そこに理性は込められていない。初めて知った親愛だからこそ、その感情は本能というブーストも合わさり劇的な変化を遂げる。
そこに正気という言葉は存在しない。あるのはただ、皆が脳裏に思い描く只野との生活の数々のみ。
その為に軍が邪魔であれば滅するし、怪物が邪魔であれば同様に滅するのみ。
僅か数日という期間でありながら様変わりを果たしたデウス達によって、基地内の空気は僅かに歪みを帯び始める。今はまだそれに気付く人間は居ないものの、何れは誰かが気付くだろう。
だが、気付いたところでもう遅い。愛を知らぬ者に愛を与えればどうなるか――その結末はもうじき形となって現れるだろう。
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