第百十話 偽・長閑
長く、平穏な時間。
この時代の中で極めて貴重なその時間は、五年前であればまだ維持されていた。
人々は世界大戦を起こさず、未知の物質による大規模なパンデミックに襲われる事も無く、天災によって絶滅に追い込まれた訳でもない。
この時代を長く過ごした者だからこそ、昔は良かったと悪く取られかねない発言を多くするのだ。
そして、それを聞いた者達も誰一人として否定はしない。まったくもって真実であるからこそ、そうだと肯定する以外の選択肢が存在しないのである。
この時代の人間は総じて疲れていた。楽になれるのならば、それこそ一つの切っ掛けによって自殺をしかねない程に。
それが抑えられているのは、やはりまだ希望があるからだ。
あの頃のように何の脅威にも晒されていない時代が来るのだと、そう信じて今を足掻くのである。それを醜いと嘲笑う人間は居ないし、もしも居ればどんな役職であっても処分されるのは明白だ。
「……なんというか、だな」
目の前で繰り広げられている光景に、只野は無意識に呟く。
許可を貰った上で中庭に設置された一つのパイプ椅子。その上に只野は座り、穏やかな陽光に照らされながら中庭で起きている事象に目を細める。
十数人のデウスを二つに別れ、片方は組手を行っていた。もう片方は異なる銃器をランダムに選択しながら急造の的に向かって引き金を押している。
どちらも表情そのものは真剣だ。遊びの余地も入らない光景は休憩場所であるだろう中庭には見えず、何らかの訓練施設のようにも見えてしまった。
そんな彼女達の背後を彩が教官のように回っている。いや、教官のようではなく本当に教官として彼女は回っていた。
事の発端は数日前。完全な客人扱いを受けていた只野達であるが、このままでは腐ると考えた彼は自身を鍛えるついでに彩達の感覚も鈍らないようにと訓練施設を使えないか伊藤指揮官に打診していた。
結果としてはその頼みは不可能であるの三文字によって却下されたのであるが、代わりの案として中庭を利用する事を許可してくれたのだ。
的になる人体が描かれた数百枚の板を中庭の端にある木にぶら下げ、装備そのものは彩達が普段から格納している物を使う。
伊藤指揮官から直接の許可を貰っているものの、中庭はデウス達の休憩所だ。そこを騒音塗れにさせてしまう事を彼女達に謝れば、当の本人達は怒るよりも興味を持って近付いてきた。
「終了!残りの時間は休憩に充て、通常の訓練に戻るように!!」
『っは!』
よって興味の視線に晒されながら彩達は訓練に挑む事になり、その技術を学びたいと多数のデウスが押し寄せてくることになってしまったのだ。
デウスも生まれた時期によって熟練度に差が生まれる。それを急速に埋めていくには上級者のデータを真似る事であるが、実力的に上位のデウス達がそれを見せてくれる事は稀有だそうだ。
訓練生が見れる最大の上位者は教官クラスであり、その実力は並のデウスより多少強い程度。十席同盟クラスの者は存在しないそうで、故に強者側である彩に指導を願うのは自然な流れだった。
当初はそれを断ろうとしていたものの、此処は相手のホームグラウンド。借りているのは此方であり、それに対して強固に拒否をし続けるというのは心象を悪くするだけである。
ならばいっそ協力し、この基地のデウスの質を上げた方が良い。
それが人類の繁栄に繋がるのであれば尚更やるべきだろう。勿論それを彩が拒否すれば彼は何も言えないのだが、試しに振った話を彼女は簡単に了承した。
己の技術が自分達に牙を剥く可能性がある。それでも彩がこんなに簡単に了承してくれたのは、一重に只野の言葉だったからだろう。
そうでなければどんな頼み方をされても彼女は頑として許さなかった。しかし、それだけで盲目的に彼女は教えている訳では無い。
此処の基地に所属するデウスは総じて指揮官との間にプライベートな繋がりが存在しないのである。
あるのは仕事の上司部下の関係のみであり、故にこそ優しさが無い。軍に所属している以上はそれは必要ではないが、その部分こそに付け入る隙があった。
全てが全てでそうである保証は無いものの、デウスは人の優しさに飢えている。特に無償の愛というものを与えられれば、デウスは一生をかけてその人物に忠誠を誓うだろう。
仕事のみの間柄でその優しさは獲得出来ない。そして軍に所属する限り、その機会は滅多に訪れないだろう。
ならば、その対象を只野・信次に定めてしまえばよい。そうすれば此処のデウス達は無条件で只野に忠誠を誓い、此方の指示通りに行動してくれるだろう。
軍の人間に信を置く事は出来ない。けれども、同じデウスならば働き次第で一定の信を置く事が出来る。
打算的な行動であり、それを只野に言わなかったのは単に自己嫌悪からだ。只野の方は純粋に質を上げようとしていると彩が思ったからこそ、そう考えてしまう自分に嫌悪が向いてしまう。
どんな性格でも只野は受け入れると言っても、やはり限度はある。明かせない部分は誰にだって存在するのだから、彩が隠していても不思議ではない。
一先ず、彩が最初に行った事はこれまでの経験で手に入れた接近戦と銃の命中精度向上だ。
これは只野も欲しい分野であり、訓練の間は彼もデウス達と混ざって行っていた。しかし無尽蔵の体力を持つデウス達とは違い、彼の体力は有限。無理をさせない範囲で訓練を行い、その後には椅子に座って休憩をさせている。
「お疲れ様です。どうぞ」
「スポドリとは有り難い。感謝感謝」
訓練の終わった頃に彩は彼に向かって飲み物を渡す。
汗を流している彼はそれを笑顔で受け取り、一気に半分以上を飲み干した。その様子を微笑を浮かべながら彼女は見つめ、彼の肉体が無理をしていないかを性能の落ちた目で分析する。
ワシズとシミズは他のデウス達から可愛がられていた。元々デウスの見た目で小柄なものは存在していたが、ワシズやシミズのような見た目をしている存在は居ない。
それだけに他のデウスから見れば、ワシズやシミズは小動物めいた可愛さを秘めている。猫可愛がりする者が出現し、今はその頬を無遠慮に伸ばされたりしていた。
「あっちはあっちで馴染んでくれたようで何よりだ。ちょっと方向性が違うが」
「完全に弄られる側になっていますね。……まぁ、その方が私達にはプラスに働きます。もしかすれば味方になってくれるかもしれませんしね」
「そうなれば万々歳だな。俺達にとって味方になるのなら、これ以上は無い」
彩は雑談の中で態と自身の目論見を混ぜた。
彼も同様の事を考えてくれれば良いと、そう信じて。それに対する反応は彩にとって極めて喜ばしいものだ。
実際、只野にとっても今目の前に広がるデウス達が味方になってくれた方が良い。そうなれば行動の範囲が広がるのは間違いなく、純粋に集団という意味でも強くなる。
十数人を抱える集団となれば最早それは小規模な組織だ。彼を頂点としたその集団は、正しく彩が望む理想の部隊となることだろう。
勿論最優先は彼の意志だ。その彼が望んだのであるならば、彩が止まる道理は無い。
「なら、このまま共同生活を送りましょう。部隊の質が向上する事は伊藤指揮官にとって恩になります」
「高く売る訳か。中々どうしてあくどいな」
「――そうするのは貴方以外に対してですよ」
目前のデウス達の様子を見つめる彼の耳元に彩はそっと囁く。
その行動が独占欲から来ているのは明白であり、しかし彩の中身をある程度把握している彼が揺らぐ事は無い。
有難うとだけ彼は告げた。そして、彩はその言葉に満面の笑みを向けた。
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