第十話 境
普通とは何か。この問いに明確な形で答えられる者は存在しない。
貧富の差、成績の差、幸福の差、強さの差、容姿の差。全てが全てパラメータとしては別々であり、故にどの観点から見たとしても最終的な結果はばらばらになる。
知的生命体である時点でその思考からは逃げられず、だからこそ他人の格差に苦悩するのだ。
自分は誰それよりも上か下かと。それが一概に愚かとは言わないが、行き過ぎれば破滅へと一直線に走り抜く。
先を見据えぬ者の抱く苦悩など所詮は断崖へと続く道だ。最終的に飛べずに墜ちるのならば選択すべきではない。
人類は愚かという言葉は間違ってはいないのだろう。自身の恩人にすら牙を向ける種族を決して素晴らしいと誰もが賞賛する訳も無い。
デウスという存在がどれだけ人類を守っても、好いても、それに対して未だ人類は完全な対応というものをしていなかった。
制御装置という名の安全機能を取り付け、制約という不利な条件を強制的に結ばせ、他人としての態度を崩さず、彼等彼女等との関係はそれによって漸く成り立っていたのである。そこに宿る人類の感情は正しく恐れであり、畏れだ。
彼女達に対するあらゆる制限を解除すれば人類では手が出せない。怪物を打倒可能な時点で負けは確定されているのだから、それに対する措置を用意しておくのは自然だろう。
本来の用途を無視した彼等の運用は間違いとは言い切れない。安全性を考えるならば正しいし、生まれ方を知っていれば人道の観点は無視されるだろう。
だが今この瞬間において。一人の逃げ出したデウスは何の制約も科せられていない。
追われる身となっているとはいえ、彼女が以前まで居た場所と比べれば拘束されている気配は微塵も存在していなかった。あるのは嘗てからは考えられない程の解放感に、充足感。
今ならば不可能などない。そう一瞬でも考えて、しかしその直後に大きな不安を彼女を襲う。
確かに彼女だけならば何も不安は無いかもしれない。相手のデウスをどれだけ見ても不安も恐怖も無かったし、ヘリを見ても何も変化は起きていなかった。
感情の変化が起きる要因は常に只野・信次という存在に対してのみ。今まで出会った他のあらゆる人間と違い過ぎていた為に、彼女は最初申し訳なさと困惑を浮かべていた。
軍の中においてデウスの存在は確かに貴重だ。他の一兵卒に比べれば遥かに丁寧に扱われているのは彼女も頷けるところである。それに正当な理由があれば富裕層を摘発する許可も得られるのだから、決して冷遇されているだけではないのは確かだ。
それでも彼女達を見る軍属の目は常に冷たい。優しい人種は数える程しかなく、そういった者達も何処か線を引いていた。仲間としての接し方というよりも知り合いに対する接し方ばかりであり、上官によってはデウスそのものを危険な作戦ばかりに投入する事もあった。
それでも彼女達には人類の守護という最初から決定付けられた運命があり、それに従ったのである。それ以外に道は無いと思っていたからというのもあっただろう。
「…………」
離れた彼を思い、対象の位置を壁に空いた僅かな隙間より把握する。
今現在において敵は彼女達を発見してはいない。この廃墟を中心として包囲する形を取り、五人のデウスもまた周辺を警戒するに留めるばかりだ。
確かに彼の言う通り、相手は此方を警戒して近寄って来ない。デウスだけであれば此方の損傷も勘定に入れて突撃させる事もあるというのに、相手側の指揮官は酷く慎重だった。
それだけ恐ろしいのだ、彼女自身が。彼の言葉が真実であった事に胸は一瞬痛みの声を上げたが、それでも次に思い出した彼の言葉に気を持ち上げる。
己は確かに人類の守護者。あのデータを見ても彼はそれを肯定した。
同時に、それは今の軍のやり方を否定する事にも繋がる。何せデータ元は軍の第一研究機関で、しかもその研究は裏側で行われているものだ。
人類を消費してのやり方に彼女は納得出来ず、それを偶然知ってからは阻止の方法を考えた。
真っ先に辿り着いたのは成果の拡大だ。今以上の結果を出し、その研究が無意味であると知らしめる。
しかし、それを成すにはあまりにもデウス達は疲れ切っている。更なる戦いに駆り出されれば金属疲労も合わさって何処で故障が発生するかも不明なままだ。
それを指揮官は知っている筈なのにメンテの間隔は遠く、まるで壊れてしまえと言っているようでもあった。
この状態で更なる結果を叩き出すのは不可能だ。故に第二に行き付いた案として研究施設の破壊を考えたが、結果としてその方法は失敗に終わっている。
多数の爆弾を用意してもそもそも研究所に出向く用事が無いのだ。デウスの場所は全て専用の監視システムによって把握されているので、無断でそちらに行く事も出来はしない。
それでもこうして軍から離脱出来たのは、皮肉にもメンテの間隔が遠かったからこそ起きた故障だった。
他のデウスは関節のダメージなどだったが、彼女の場合はピンポイントに通信システムのみ。そこには当然監視システムも含まれ、長距離通信も今は出来ない。
故にチャンスを狙って戦場より離脱し、最終的に追ってきた軍によって彼女は彼と出会った。
この巡り合わせが悪かったなどと彼女は思わない。部屋は今まで暮らしたどの部屋よりも狭かったが、僅かに残っていた根幹のシステムに存在する人としての温もりを確かに感じさせてくれるものだった。
今までデウス同士でしかなかった雑談も行え、まさか服までも用意され、彼女の守りたかった人類の姿はまさしく彼だったのだとシャワーの中で涙さえ流した程だ。
そんな彼をこんな事に巻き込ませたのは紛れも無く己自身。何となく解っていたと言ってくれても、あそこで倒れていた己の責に他ならない。
「――落ちろ」
物陰から狙ったARの弾は、何発か外しながらも一人のデウスの関節を破壊する。
飛行ユニットは破壊しない。それをされて地面に着地された場合、相手はこの廃墟の中にまで入ってくるだろう。
直後に彼女が居た場所に無数の弾が飛んでくる。それを真横に移動しながら回避した。
少なくとも今の攻撃によって彼女自身が一番高い階層である三階に居るのは解った筈だ。であれば相手がそちらを優先的に狙うのは事実。
他の階層はヘリに居る兵に監視させているだろうと判断し、三階から移動せずにそのまま銃撃戦を開始した。
「先ずは一体落とす!」
階層移動はそのまま彼と会う事に繋がる。己の迷惑にならないようにと配慮して隠れてくれたのに、不用意に動き回って合流してはまた彼を守りながらの戦いになってしまう。
それでは彼の提案を無駄にするのと同じ。それに、今この瞬間においてだけで言えば彼女は全力を出せる。
守る壁など不要。ポーズとして見せていた態度すら、最早必要ではない。
割れた窓枠を相手に投げ付け、一瞬出来た隙に窓から飛び出した。そのまま飛び出れば恰好の的にされてしまうが、彼女は己の機能をフルに活用して廃墟の壁を駆け抜ける。
一瞬遅れて五人のデウスは発砲を開始するが、そのどれもがまるで命中の気配を見せない。
相手の位置は常に視認出来る。どのように動くのかの予測も立てられる。しかしどうしても命中にまでは至らない。
五人のデウスは困惑を隠せない。一体何故、どうしてこうまで命中しないのか。
規格の変化はそれほど無い筈だ。一兵士として戦う存在であれば、タイプとしての差は大きくは開いていない。
であるにも関わらず、何が起こっているのか。新型が開発された事実もまた存在はしなかった筈だ。
極秘のタイプが生まれていたのかと考える中、狙われた彼女が思うのはただ一つ。
――負けない。
負けぬものか、絶対に。此処で負けるようならばその時点で己は彼の期待を裏切る愚か者だ。
あの温かい目が忘れられない。己の話に常に耳を傾けてくれた真剣な眼差しが忘れられない。
初めて彼女は、己の護るべき存在を視認した。他のデウスに無く、己だけを見てくれる相手を発見した。
人類という漠然とした存在ではなく、確かな個を認めたのだ。であればこそ――デウスはデウスとしての活動を再開する。
そこに悪意は一つも無く、開発者の想いそのままの愛でもって稼働するのだ。
『君達は人類の守護者だ。だからこそ、自分にとっての護る理由を見つけてくれ。そうでなければ何も成せはしないだろう』
頭に響く誰かの声を、その時の彼女は覚えてはいなかった。




