第一話 地獄
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地獄。
それを想像したとして、皆は何を想像するだろうか。
紅蓮業火の世界か。全身が時間が止まったように氷結する世界か。どれだけ動物に食い殺されても死ねない世界だろうか。
どれも人間には辛いものだろう。否定するつもりはないし、それを否定出来る存在は人間ではない。
されど、今自身の目の前に広がる世界もまた、一つの地獄であることだけは誰にも否定させたくなかった。
始まりは五年前。西暦2067年の元旦に、世界は未曾有の悲劇に襲われた。
日本に、アメリカに、中国に、ロシアに、ドイツに、それぞれ都市一つを飲み込む巨大な黒い渦が生まれたのだ。
それによって失った命は総数一億。特に酷かったのは中国であり、日本の被害は低かったと言えよう。
それでも数十万の命が渦の中に消え去ったのだ。世界中でニュースが流れ、大震災や大津波が起きた際のマニュアルがほぼ全て使い物にならない。
加えて、その渦からは正体不明の――ファンタジック溢れる怪物が無数に出現した。
今でこそ当たり前となった化け物の群れは出てきた瞬間から人間を捕食し始めた。それこそ俺達が菓子を食べるように、手掴みで人間を口に運んで行ったのだ。
生き残った者達の中にはトラウマを抱え、重い精神病に陥っていた。それでも前を向いた者も、戦いの果てに殺された。現代火器が通用すると解っていても、相手の数が圧倒的過ぎて結局は殺された。
引き千切られ、潰され、その光景が日常となっているのだ。折れる者の方が多くなるのは当然であり、必然的に国家としての形が無くなっていく場所も多くなる。
此処には人間の英雄は存在しない。何処までいっても人間は人間のままであり、故に勝てない。
勝つとするならば、それこそ人間を捨てるしかないのだ。その為の実験も行われ、全ては失敗に終わった。
このままでは全滅だ。幼かった当時の俺でもそう思い――しかし五年経った現在でも生きている。
そうなった理由はただ一つ。この世が本当に地獄の最下層ではなかった事を示したその存在を、人類は機械仕掛けの神よりデウスと呼んでいる。
一人の発明者がその存在を生み、国の上層部だけがその存在の一部分を知っていると噂され、構造も理解にまで至っている組織は一つしかない。
デウスは人類のDNAと機械を融合させた、極めて人に近い存在だ。アンドロイドと形容しても良いかもしれない。
見かけ上は人間そのもの。許可さえあれば普通の人間と同様の生活が送れるらしく、しかし与えられる特権は並のものではない。
それこそ下手をすれば金と権力を多く持つ政治家ですら裁けるのだから、国がどれだけ彼等を特別視しているのかなど明瞭だ。
そのデウス達によって、この三年は何とか無事に過ごせている。最前線に立つのはデウスばかりで、人間は指揮をするのみ。数少ない人類が役に立つにはそうするより他に無く、今は上手く回っている。
人類の掲げる目標は五年前から変わらない。即ち怪物の全滅であり、人類の人口増加であり、土地の奪還だ。
指揮官になりたい者達は狭き門となった軍事学校に通い、そうでない者は物資の生産に精を出す。
俺は後者の側だ。武器の生産工場で働く一般人であり、それ以外には何もない。
殊更武器に詳しい訳でもないし、指揮官候補生のように頭が良い訳でもない。そういった適性が軒並み最低だったから、今こうして他の人間同様に社会の歯車として働き続けていた。
日数は周六日。十時間の労働を行い、場合によっては残業もさせられる。
五年前であればブラックだと騒がれるだろうが、今の時代においてはこの待遇はまだホワイトだ。本当のブラックは休みなんて無いし、払われる賃金も低い。
そういった場所は内部告発によって消えるケースが多いものの、消える気配は依然として無いのが実状だ。
何せ今の世の中は年中戦争状態。常に何処かで争いがある以上、無くなった物を急いで補充しなければならない。
必然的に工場側のノルマも増し、俺達の負担も増える。それを仕方ないと思えるのは確りと結果を出してくれているからに他ならない。
五年前はまるで希望が無かった。二年目も地獄だった。三年目にして初めてもしやという芽が生まれ、四年目でそれは大地に根を張った。
そして五年目は芽が成長し、今もなお希望は成長を続けている。
最初の頃に比べて人類の生存範囲が広がったのは事実だ。そして現在の地獄からの脱却を目指し、何処の国家も対等な関係を築き技術提供を惜しまない。
もっと人類が安定化すれば争い事が起きる可能性が生まれるが、まだまだ遠い話だろう。
余程順調に進んだとして十年後。悪くて三十年も後の話と思って良い。今の俺達には一年後ですら解らないのだから、そんな未来の事を想像する必要は無いのである。
「――っと、こんな時間か」
壁に釘で止められたボロの時計を見る。電波時計ではないので多少の狂いはあるものの、それでも罅の入った長針は俺の期待を裏切る事無く時刻を刻み続けていた。
現在時刻は朝の五時。今この時間に起きて活動する者は少ない。
世界中から娯楽らしい娯楽を生む時間が無くなった所為か、昔のようにゲームを深夜までやり込む若者は消えた。
今は仕事をして、そして寝る。この寝るという行為に皆は比重を置き、それ故に睡眠事情は五年前よりも改善している。
電気の節約、水道の節約、食料の節約。節約だらけの状況も睡眠に比重を置く要素になっているのだろう。
節約だらけの状況というのは本来不満が溜まるものだが、今はそれを言う者は少ない。
こうして生きている。ただそれだけで奇跡だと皆が感じているのだから、節約程度何でもないのだ。
別にその節約というのも極端なものでもない。三食分はあるし、飲み物もある。魚や肉の量は少ないもののスーパーには存在するのだから、この節約という部分は余程大食いであったり水を大量に使う者等に対する措置なのだろう。
ワンルームの部屋には新品の畳の匂いが漂っていた。
此処に引っ越してからまだ一週間なのだからそれも当然だ。仕事の出張で此処に住むことが決まって、戻れるのは一年も先。
前の場所が恋しいとは言わないが、それでも慣れ親しんだ街の方が色々気負いが少ない。
寝転がっていた身体を起こし、鼠色の寝間着から常の私服へと着替えていく。
紺のジーンズに、白のTシャツ。今の季節は夏なので薄い黒の半袖ジャケットを着て、仕事着の入ったバッグを手に持った。
別に今この時間に向かう必要は無い。俺自身もこのまま直接向かうつもりはなく、朝食を買いに向かうのだ。
今時珍しい事に、この家の直ぐ近くに二十四時間開いているコンビニがある。現在の情勢で決して品揃えが豊富ということもないが、それでも深夜に買い物が行えるという事実は強い。
此処に引っ越してからはほぼほぼ朝食はコンビニで済ませるようになってしまった。まったくもってお手軽という魔力は強力なものだ。
内鍵を開き、そのまま外に向かう。軽快に鍵を締めて懐に仕舞い――――そこで俺は有り得ない物体を発見した。
「え……人、間?」
俺の家はアパートの二階だ。それだから自然と階段を降りる必要がある。
エレベーターなんて高級な代物は付いていない。そもそも二階建てである時点で必要でもない。
そして俺の視線は、紛れもなく階段の下にあった。
流れる黒の髪。身体の線は細く、上はノースリーブスに覆われている。下は短パンを穿き、されど足は鋼の装甲のような物に包まれていた。
手には指ぬきグローブが装着され、その姿だけならば正に兵士である。
色が砂漠の如きベージュであったのもその要素を引き立てていた。まさか行き倒れかと近付き、その顔が見える。
瞼は閉じたままだが、その顔は正に美少女そのもの。規則的な胸の上下によって息をしているのは確かだが、見た目があまりに良過ぎる所為で暴漢に襲われるとも限らない。
朝から面倒な事になった。内心でそう零し、見捨てるのも後味が悪く過ぎて横抱きに持ち上げるのだった。
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