総州香取神宮前平忠常本陣・大宅光圀、頼義を斬るの事
「生きて、おられたのですか……光圀どの!」
頼義が驚きの声で眼前の男に向かって叫ぶ。男は彼女の言葉が届いていないのか、なんの反応も示さずに焦点の合わぬ目で虚空を見つめている。
あの時、上野国多胡郡で羊太夫と八束小脛のだまし討ちに会った頼義たちは絶体絶命の危機をこの大宅光圀の決死の奮闘によって脱することができた。目の前にいる仇敵千葉小次郎を道連れにできるものならここで果てても本望、と言って彼は並み居る小脛たちの群れに飛び込み、頼義たちを逃がすための血路を切り開いてくれた。あの時の光圀の「犠牲」が無かったら頼義も金平も今この場に生きて立ってはいられなかっただろう。
光圀の主人である父頼信は「小次郎を討ち果たしたか否かに関わらず、彼の人生はそこで目的を終えるだろう」とその死を予見して覚悟を決めていたが、幸運にも彼は無事に生きていたようである。その命の恩人の息づかいを、歩く歩幅の音を、頼義は忘れようも無かった。彼女は思わぬ再会を果たせた事に喜びを隠せなかった。
いや、果たしてそうであったのだろうか?
光圀はいまだに目の前の頼義に無反応なままだ。それに何より、なぜ彼は仇であるはずの千葉小次郎の隣に立っているのだ?
「光圀、光圀よ。わかるか?俺の声が聞こえるか?」
光圀の耳元に平忠常が甘く誘惑するかのように囁く。
「そら、見るがいい。あそこにいる……お前の仇を!」
初めて光圀の目の焦点があった。その先に頼義の姿を認めると
「た……ただつ、ね……忠常えええええええええ!!!!!!!」
突然光圀が猛然と疾走し、抜き打ちに頼義に一刀を放った。
「おおっ!!」
遠くから見守っていた頼信・忠常両軍の陣営から驚きのどよめきが起こる。一騎打ちの開始の合図も無しに忠常軍側の男が不意打ちに頼信軍の代表である頼義に斬りかかったのである。両陣営の目にはそう映った。
頼義にとってもそれはまさかの一撃だった。急速に膨らむ殺気を感じて反射的に身をそらしたものの、百戦錬磨の光圀の渾身の一撃である、その剣は頼義の鎧をいとも容易く斬り裂き、彼女の肩口から胸元まで袈裟懸けにその肉を裂いた。
色鮮やかな鮮血が飛沫となって宙に踊る。
頼義は閉じていた目を大きく見開いたまま、虚空に向かって何かを掴むようにして仰向けのまま地面に倒れた。
その間、金平は身動き一つとることすらできずに、ただ頼義が斬られるままにされるのを呆然と眺めていることしかできなかった。
「てめええええええええ!!!!!!!」
本能的に金平が剣鉾を振り回す。だが時すでに遅し。斬り終えた光圀はこれまた本能的に後ろに飛びすさり、距離を取って再び納刀し、次の一撃のための姿勢に戻った。
不覚、不覚、不覚……!!光圀の生存に気を取られ、その裏に対して全く備えをしていなかった己の無思慮を呪った。なぜ油断した!?あの一瞬、なぜ自分は何も考えなかったのだ!?金平は今ほど自分の頭の回らなさを呪ったことは無かった。
金平が頼義に駆け寄る。幸い重傷ではあったが致命傷では無かった。鎖骨は砕け激しく出血はしているものの内臓も大動脈も損傷は無いようだ。荒い息をしながら頼義が何かを言おうとする。
「ふ、ふか、く……きき、きんぴ……ら……」
「しゃべるな!!くそっ、待ってろ今血を止めてやる。大丈夫だこれくらいの傷で……」
金平が応急手当てをしている背中を、光圀が再び襲った。金平はかろうじてその一撃を剣鉾で受け止めると、力任せに押し返した。金平の馬鹿力に圧倒されて光圀が遠く後ろに吹き飛ばされる。
「おっさん、てめえ裏切りやがったか!?親の仇に頭を下げて手下に成り下がるとは見損なったぞこの◯◯野郎!!」
言葉で書き記せないような罵詈雑言を立て続けに光圀に浴びせる。光圀はそんな金平の言葉など耳にも届いていないようだった。
「よかったなあ光圀。ほら、また忠常が現れたぞ」
その言葉に反応して光圀がまた獣のように吠えながら今度は金平に向かって一直線に向かってくる。金平は応戦して剣鉾を横薙ぎに払って牽制する。
その剣鉾の長い柄を、光圀の抜き打ちが両断した。
キラキラと光の航跡を描いて剣鉾の刀身が地面に突き刺さる。金平は迷わず手に残っていた柄の切れ端を光圀の喉元に向かって投じた。その即席の飛び道具も光圀の電光石火の剣さばきによってあえなくはたき落とされる。
「忠常……忠常……ただつねええええ!!!」
光圀が金平に向かって吠える。流石に金平も光圀の「異常」に気がつき眉をひそめる。
「おっさん何言ってやがる……俺が分からねえのか?」
「黙れ忠常!もはや貴様の言なぞ聞く耳持たぬ。父の仇、我が妻の恨み、ここで果たす!」
「おっさん!!」
「何を言っても無駄だ。今のその男には誰に相対しても同じ人間の顔にしか見えておらぬよ」
千葉小次郎が嘲笑するように説明する。
「テメエ、おっさんに何しやがったんだ!?」
「なに、仇憎しのあまりに酒色を絶って切磋琢磨し、己の剣術を鍛え続けてきたこの男に敬意を評してな。折角の技だ。本懐を果たして仕舞えばその後技を振るう機会にも恵まれまい。だからな、出会う人間全てが『平忠常』に見えるように施してやったのよ」
「な……なんだとお!?」
「さも至福よなあ。何度本懐を遂げてもまた目の前に仇の顔が現れる。殺して殺して……地上の人間全てを殺し尽くすまでこやつは仇討ちを止めることができぬ。はっはっは、まこと幸せなヤツよ」
「なんと……いう事を……」
仰向けのまま動けない頼義が絶句する。小次郎はそんな彼女を冷ややかに見据えながら言葉を続ける。
「さて、かくなる上はその方の『負け』をお認めになるかな頼義どの。御身は重傷、頼みの綱のそこの木偶の坊も得物一つ持たぬザマ。今ここで兵を引くなら御身の命は保障しよう。屈辱と嘲笑に塗れながら無様に生き恥を晒して敗走するが良い」
平忠常……否、新皇将門の怨霊を宿した千葉小次郎が嘲るように笑いながら最後通牒を頼義に突きつける。遠くで見守る父頼信は微動だにせず「跡取り息子」の返答を黙って待っているだけだった。
頼義は傷口を手で押さえる事もせず、泥と血潮と脂汗に塗れた身体を必死になって起こす。立ち上がることはできなかったが、それでも忠常と正対できるだけの姿勢にはなれた。
「ほう、痛みを押してのその気概、その根性だけは褒めてやろう。それとも今この場で介錯を望むか?」
忠常が冷ややかな視線を送る。その言葉に対して、頼義は意外にも唇を釣り上げて不敵な笑みを浮かべた。
「し、笑止な事を……我が軍の負けだと?戯けが、どこに我が軍の負けの兆候があると言う?私か?私は……この頼義はまだ、負けてなどおらぬぞ……!!」
最後の気力を振り絞って頼義は震える足を叱咤するように手で何度も叩きながら少しずつ、少しずつその身を起こす。そして
立ち上がった頼義は見えぬ両目でなお、相対する忠常を睨みつけた。




