総州香取神宮前平忠常本陣・両軍、激突するの事
「亀甲山」と呼ばれるなだらかな丘陵に沿ってそびえる香取神宮の大社はその創建が神武帝十八年まで遡ると社伝に記されているように、本朝において最も古く、格式の高い社として人々に深く崇敬されている。また鹿島神宮と並んで東の蝦夷から朝廷を守護する鎮護国家の霊的要衝として、さらには藤原氏の氏神として朝廷より大いなる保護を受けている、国内全社の内でも最も不可侵な「聖域」であった。全国広しといえども「神宮」の称号を賜った社殿は「伊勢」「鹿島」そしてこの「香取」のたった三社しか存在しない。
その香取神宮の境内に、敵将平忠常は堂々と陣を敷き、神宮そのものを盾がわりにして頼信軍を威圧する形で待ち構えている。
最初に川岸に強襲上陸してきた頼義率いる先行部隊との小競り合いの後は両軍とも互いに睨み合ったまま動く気配は見せていない。忠常軍からしてみればまさか河口を船無しで渡ってくるとは想定外の事態であったろう。逆に頼信軍からしてみればまさか敵陣が香取神宮を盾にして陣を構えるとは思っても見なかった事態だった。さしもの頼信も藤原氏に所縁の深いこの大社を戦火の巻き添えにするのは躊躇われる所があった。
さらに時が過ぎても忠常軍は依然動く気配を見せない。忠常軍からしてみれば何もせずにじっと待ち構えているだけで攻め手は勝手に消耗してくれる。焦る必要など微塵もなかった。このまま静かに絶え抜けば、いずれ兵糧の尽きた頼信軍は撤退せざるを得なくなる。
それにしても、ここ香取郡は「郡」として律令体制下に置かれているとはいえ、神社自身にその自治を任されている「神領」である。その独立自治領が良く忠常に対して協力的な姿勢を見せたものだと頼義は疑問に思っていた。あるいは神宮側も忠常の持つ莫大な資金力に懐柔されたか、それとも……
「父上、意見具申いたします。このままでは埒があきませぬ。ここはこの頼義に……」
頼義は大将である父親の前に出て一つの提案を申し出た。
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長く続く睨み合いに、待ち構える側である忠常軍の兵士たちの間にも次第に飽きが来た様子で、所々に緊張の緩む所が出始めた。早朝よりの布陣であったため欠伸をこらえる守備兵たちの前に、敵本陣の中から一騎の騎馬がゆっくりとこちらに近づいてくるのが見て取れた。
すわ和議の申し出に使者を寄越してきたかと斥候の兵が目を凝らしてその騎馬を見据える。しかしその騎馬は供回りの者らしき大男に轡を取らせ、鎧を着込み武装を解かぬまま堂々と香取神宮の表参道前にまで進み出て、高らかに名乗った。
「前上総介の兵士どもよ聞くが良い。我こそは常陸介頼信朝臣が一子頼義である。下総の人間は畏れ多くも神の社に土足で踏みにじり、その神威を蔑ろにする無分別者の集まりであると見える。その卑怯卑劣は万代までもの恥辱といえよう。誇りあるならばここに一人躍り出て我が太刀と一献刃を合わせてみるが良い。さあいざ、いざ!」
馬上の頼義は朗々たる美声で神宮の中に布陣する忠常軍に向かって名乗りを上げ、一騎打ちの申し出を声高に叫んだ。その名乗りの主が盲目の、しかも年端もいかぬ美少女であった事から兵士たちは物珍しげにその口上を眺めていた。しかし当然の事ながら一騎打ちに応ずる者は一人もいない。
「参らぬか、参らぬと申すか。さては下総の男どもは盲の女子供一人打ち取ることもできぬ口先だけの軟弱者であるか。その無様、末代まで嗤ってやろうぞ。はーっはっはっ!!」
頼義が大口を開けて忠常軍を挑発する。その態度に守備陣の兵士たちは顔をしかめてお互いを見合わせる。
「おい、笑え」
「は?」
自陣の最前列で事の成り行きを見守っていた碓井貞光は、隣にいた兵士たちを小突いて促した。
「はははははは。さても総国の者どもは上も下も揃って軟弱な事よ。鼠一匹騒ぐのを見て大山鳴動するが如きに震え上がるというのは真の事であるらしい」
貞光が頼義の挑発に被せるように率先して雑言を吐く。その言葉に合わせて貞光配下の兵士たちが一斉に笑い声を派手に立てる。
「さもありなん。下総の魚獲りとくれば小魚一匹に欣喜雀躍、海下の大鯨に気づきもせぬマヌケ揃いよ。そんな事だから我ら『船橋衆』にこの内海一帯を仕切られておるのよ。わはははは」
眞髪高文も調子に乗って悪口を並び立てる。その言葉には随分ときつい毒が含まれている所を聞くに、どうやら平素も下総漁民たちと漁業権を巡っていざこざが絶えないものであったらしい。
「これは愉快、太政官に上梓する国解(朝廷に提出する正式な報告書)には入念に総国の者どもの勇猛ぶりを書き留めておいてしんぜよう。わはははははは」
普段ほとんど表情を崩さぬ鉄面皮の頼信までもが大口を開けて徴発の笑い声を上げる。しかし普段笑い慣れていないせいかその表情は固く、側から見ていて実に珍妙に映る所が可笑しい。貞光は滅多に見られない旧友の笑い顔が、遠く最前線で同じように笑う頼義と瓜二つであること気づく。その場違いな発見に貞光は妙な安堵感を覚えた。
頼信軍は調子付いて四方八方から罵詈雑言を浴びせ、笑い声を響かせる。千五百からの大人数での音声である。その音は社殿の柱を震わせ、屋根瓦をガタガタと振動させるほどだった。その社殿の正面参道から、何者かが一人徒歩にて近づいてくる姿が見えた。頼信軍はその姿を視認するとピタリと声を鎮める。
「これはこれは、さてもかほどに恥辱を受けては参らぬわけにも行くまいなあ」
千葉小次郎こと平忠常が悠々とした態度で頼義の前に進み出る。「恥辱」と口にしているものの、本人はそのような言に対して毫ほどの痛痒も感じていないようだった。
「前上総介忠常朝臣、呼び立てに応じて参上いたした。頼義どのにおかれては相馬御厨以来にての邂逅。いや鎌倉だったかな、それとも上野であったか。まあ良い、いずれにせよ再びお目にかかれて光栄であるぞ。次その姿を見た時は如何様にしてその肢体をひん剥いてねぶり尽くしてやろうかと股座をイラつかせていた所よ。おっとこれは失言、失敬失敬」
「そなたの戯言など聞く耳持たぬ。忠常どのよ、相対する前に一つ聞こう。神の坐します香取の社殿に無礼にも武具馬具でもって蹂躙せし事の申し開き、いかがいたす」
「申し開きも何も、俺は望むがままに行き、欲するがままに食らうが常よ。そこに他の道理など微塵も無い」
「香取の神職の方々はいかがいたした?金で釣ったか、刃で脅したか?」
「さて、中に入って本人たちに聞いてみるが良い。もっとも首と胴が離れていては一言話すのも億劫であろうがな」
忠常が笑う。
「貴様、神殿を血で穢したか!?」
「神?神だと?笑止、俺は『新皇』、平将門たる俺こそが『神』よ!俺にひれ伏せぬ者はことごとく灰燼に帰するが我が道理!!」
「宜しい。さればこれ以上の詮議は不要。平忠常いやさ千葉小次郎、大人しく我が弓の的となるが良い」
頼義が大弓を構える。見えていないはずのその目は寸分違わず小次郎の喉元を捉えていた。
「おっと、そなたも申した通り、俺は臆病な軟弱者でなあ。勇ましい女武者どののお相手など恐れ多くて腰が引けるわ。そちらの申し出に乗って一騎打ちには応じよう。ただしこちらは名代を立てる」
「名代?」
「然り、その者を見事討ち果たせば我らは神宮の社から身を引こう。いざ、勝負!」
そう言って忠常はその身を引いていつの間にか後ろにいた何者かに道を譲る。その人物ががゆらりと前へ進み出て、その姿を晒した。
「!?あなたは……!」
濁った目を虚空に見据えながら、その男……大宅光圀が太刀に手をかけて腰を沈めた。