常州鹿島灘鹿島神宮前・源頼信軍、忠常の策略に嵌るの事
冬の冷たい潮風が吹き荒ぶ鹿島灘の沿岸に、常陸介源頼信率いる平忠常征討軍がひしめき合って待機している。「南無八幡大菩薩」と書かれた旗印が風に煽られてバタバタと音を立ててたなびく。
「して、どのような按配だ?」
大将である常陸介頼信が眼前に平伏する伝令使の言葉を促す。
「はっ、海岸線一帯隈なく調査いたしましたが、渡河用の船舶は一艘も停泊しておりませぬ」
伝令の言葉を聞いて頼信は顔をしかめる。仮設の陣幕は不穏な空気に包まれ沈黙した。
「平忠常討つべし」と宣言して常陸国軍を下総へ進軍させた頼信の第一の名分は、常陸の豪族である左衛門大夫平惟基に対して不当な戦さを仕掛け、これを弑し、常陸国の領内を略奪した罪に対する報復であっった。
忠常側は抜かりなく中央に対して「謀反の意思無し」という意思表明を示し、鼻薬を効かせて懐柔した朝廷重臣たちは何の後追い調査もせずにこれを追認した。忠常と惟基の間に起こった諍いはあくまでも当事者同士の問題であり、朝廷に弓を引くものではないとして忠常の常陸国侵略に対する公的な処罰は下されなかった。
忠常は惟基との戦さを起こすに当たって、被害以上の上貢物を山ほど献上していたため、中央からして見れば「入る実入りが減りさえしなければその出所などどのようにでも構わぬ」という姿勢だった。
煽りを受けたのは常陸国本国で、この合戦のために荒らされた結果は来年の税収の減少を余儀なくされる。主人を失い路頭に迷った家臣たちは常陸介に就任して間もない頼信に直訴し、窮状を訴えた。頼信はその声に答えるという形で下総に出兵する旨を宣言した。
忠常討伐といっても、これはあくまで「私闘」であり、事と次第によっては中央から厳しい処分が下される危険もあった。にも関わらず頼信が今回出兵を決意したのは、忠常の横暴による被害が常陸一国にとどまらず、武蔵、安房、相模など周辺諸国においてもひとかたならぬ規模に達しており、各国国府からも事態の収束を望む声が頼信の元に多く集まったことも要因していた。
今、坂東八州の勢力図は、上総・下総・上野を支配する平忠常勢と、常陸・武蔵・相模の三国連合勢との二大勢力が真っ二つに分かれて対峙するという形に収まっていた。今日のこの衣川(利根川)における頼信と忠常との一戦は、今後の坂東の支配者が誰になるのかを決する一大決戦の様相を呈してきていた。
下総出兵に先立って、頼信は忠常に対して事前にその旨を宣告する書状を送った。忠常から返って来た書状には
「当方戦ごと起こすに至れる所存無し。兵を穏便に退いていただけるように楫取(香取)神宮にて相見える事を願うものなり」
と書かれてあった。武力で惟基との諍いを収めたものの、自分が攻められる側に回って態度を軟化させたか、書状を見る分には忠常に迎え撃って戦さを起こす意思はないものと見えた。
だが現実を見ればこの有様である。鹿島神宮の建つ鹿島灘沿岸と、香取神宮のある香取郷との間は衣川を挟んで遠く隔てられている。川と言ってもまだ治水の行き届いていない時代である。河口は巨大な内海となって遠く霞ヶ浦、印旛浦まで広がっている。鹿島から香取まで直線距離では目と鼻の先であるが、陸地を徒歩で行くとなると七日以上の行程を要する遠回りとなってしまう。
そのために通常両岸一帯には渡河用の大船が常時駐留しているはずなのだが、いざ頼信たちが到着してみると、沿岸にあるはずの渡し船が一艘も残されていない。言うまでもない、忠常側によって全て廃棄されたか隠されたかしたのであろう。目的はもちろん、最短距離で進行してくるであろう事を予測して頼信軍の渡河侵攻を邪魔立てするためである。この様な態度でよくもまあぬけぬけと和平交渉だのと言ってくるものだと金平も呆れ顔になる。
だがこの一見地味な嫌がらせは頼信軍にとってなかなかに痛い一手となっていた。短期決戦を目論んでいた頼信は補給物資も必要最低限の支度しか揃えていない。兵とて専門職ではない、冬の農閑期とはいえあたら長く彼らを拘束すれば来年の収穫はさらに打撃を受けることになるだろう。そうなっては本末転倒である。
このまま川を渡ることも叶わず、かと言って陸路を迂回すれば確実に消耗に補給が追いつかなくなる。忠常側は一兵の損失も無く頼信軍を追い返す妙手を打って来たのだ。
「くそっ、どうすんだこりゃあ。このままじゃ二進も三進も行かねえぞ」
焦った金平が一人呟く。こうして迷っているうちにも時は進みますます進退窮する事態に陥ってしまう。重臣たちの視線を尻目に、大将である頼信は目の前を静かに滔々と流れる利根の大河を睨みながら頭の中で策を張り巡らせている。
そんな中、一人頼義は陣幕の外に出て何やら内海の音に聞き入っていた。
「何やってんだオメーはよう、こんな所で」
いつの間にか姿の見えなくなっていた頼義を探して金平も陣幕の外に出てきた。陣中にあっても金平の頼義に対する態度は変わらずざっくばらんである。一時期は一応家臣として礼を尽くして言葉使いなどにも気を使っていたものだったが、最近はもうそれもめんどくさくなったのか以前と変わらぬ悪態三昧の口の聞き方に戻っていた。頼義はそんな金平の態度を咎めることもしない。
「金平、ちょっとよく観察してみてくれませんか」
頼義が内海に向かって指差す。日の沈みかけた内陸の水辺には番いの海鳥が低空を飛んでは海に身を投げると言った行動を繰り返している。
「おう、どっかでみた鳥だと思ったら、ありゃあ鎌倉で見た『善知鳥』ってやつじゃあねえのか?あの『ちんちんかもかも』の」
大真面目な顔をしてそう言う金平の膝頭を蹴りつけながら頼義は再び金平に命ずる。
「阿呆なこと言ってないでしっかりとよく見てください。水辺に鳥は何羽いますか?」
「いってえ〜、くそっ、乱暴な女だなあお前はよう。えっと、あの善知鳥以外にも何羽か飛んでるぜ、内海は海鳥にとっちゃいい餌場だからな」」
金平は蹴られた脛を抑えながら報告する。頼義はその鳥の飛ぶ羽音をじっくりと耳を立てる様にして聞いている。
「あの鳥……善知鳥、でしたか。さっきから同じ場所へ何度も飛び込んでいませんか?」
頼義が金平に聞く。金平は改めて海鳥を見返してみると、確かにだいたい同じような所に身を投げて海中の餌を捉えているようだ。
「そうみてえだな。相変わらず良い耳してやがる。それがどうかしたのか?」
金平が欠伸をしながら聞き返す。頼義は金平に向かって
「あの善知鳥が潜る箇所、あそこだけが、他の海鳥たちの飛び込む場所と飛び込んだ時の水音が微妙に違います」
「へえ、そうかい。俺には全然違いが分からねえや。それがどうかしたのかよ?」
「……そうか、金平!」
急に大声で呼び出されて金平はもう一度欠伸をしかけた大口を慌てて閉じる。
「な、なんだよいきなり」
「至急、土地の古老なり在郷の者なり、この土地に詳しい人物を探して来てください。もしかしたらこの内海……渡れるかもしれない」