上州多胡郡甘楽川(鏑川)・頼義、羊太夫と会見するの事
大宅光圀の案内によって利根川を遡る事二日、頼義たちは上野国多胡郡に入った。南北を高い丘陵に挟まれた谷川に沿って一面の草原が広がっている。冬枯れして薄茶に色あせた草地の中を放し飼いにされた馬がのんびりと草を食んだり川面に顔をつけたりしているのが見える。
国府のある群馬郡はまだ少し先にあるが、この辺りは官馬を育てるための放牧場として利用されているのだろう。詳しくは知らないが、ここらもいわゆる「勅旨牧」と呼ばれる官制の牧場なのかも知れない。
光圀が馬を止めて周囲をキョロキョロと見回す。彼にとってもこの地域は初めて足を踏み入れる所らしく、目的の場所の見当をつけているのだろう。金平も馬に水をやるために頼義を馬から降ろした。丁度小さな東屋らしき小屋があったのでそこに頼義を座らせて金平は川辺に馬を引いていく。
簡素な作りながら良く手入れのされた清潔な小屋の中は、何かの作業をするにはいささか狭過ぎる気がする。どうやら何かを祀った祠のようだった。
金平が頼義のために竹筒に新しい水を汲んで持って来た。見ると、頼義は小屋の中に向かって中に何があるのか手で探ろうとしている。
「あんまり墓にベタベタ触ってるとバチが当たるぜ」
「ひゃっ」
不意に声をかけられたので頼義は反射的に声を上げてしまった。その声がらしくなく年頃の少女らしいものだったので、金平も思わず声を上げて笑ってしまった。
「もう、急に声をかけないでください。あと笑うなっ」
顔を真っ赤にして頼義が金平に文句を言う。
「がははは。が、墓と言ったけどそういうわけでもねえらしいな。なんだこりゃ?石碑なんだが、一面にずらっと何か書いてあるぜ」
金平は祠の奥に建てられている石碑に目をやった。子供の背丈ほどのその石碑は細長い立石の上に笠を被るように平石が積まれた質素なものだった。その立石の前側一面にびっしりと楷書で文が刻み込まれていた。
「なんと書いてあるのですか?」
頼義が聞いてみる。一応貴族の子弟である金平は意外にも読み書きは達者である。金平は石に刻まれた碑文を読み上げる。
「なになに……『弁官符す、上野國片罡郡緑野郡甘良郡并三郡の内三百戸群を〈羊〉に給う成り……』なんだこりゃ?」
碑文を読み上げながら金平は首をかしげる。
「羊ってアレだろ、白くてヒゲが生えててメーって鳴くヤツだろ?ここらじゃあ家畜に所領を与えるのかい?」
この時代、日本でいわゆる「羊」が飼育されていた記録はない。ただし遣唐使などを通じて大陸の生き物としてその姿形は知られていたものらしい。金平も聞いた話から特徴をなぞって言っているだけで実際に「羊」を目にしたことは無かった。
碑文にはその「羊」に上野国のうち「片罡」「緑野」「甘良」という三つの郡、三百世帯を所領として与えたと説明している。
「日付もあるぞ。えーっと『和銅四年三月九日甲寅』だとよ。『和銅』ってえと……げっ、三百年も前の話じゃねえか、そんな昔からここに建ってるのかこいつは?」
金平が大袈裟に驚いてみせる。思わぬ歴史的遺産に遭遇して、頼義は少し心が躍っている。
「他には?何か書いてありますか?」
「なんだよそんなに楽しそうに。こういうの好きなのかお前?」
「いいから!」
「もう他には大したこたあ書いてねえぞ。ズラズラと人の名前が並んでるだけだ。『太政官二品穂積親王』……皇族っぽい名前だからコイツがお偉いさんかな?後は『左太臣正二位石上尊、右太臣正二位藤原尊』だとよ」
頼義は驚きの声を上げる。
「和銅年間の右大臣といえば、それは『藤原不比等』公を指すのではありませんか?あの『藤原四家』の始祖であられる……」
藤原不比等と言えば、あの「大化の改新」の中心人物として知られる中臣鎌足(藤原鎌足)の子で、今につながる藤原家の家祖ともいうべき歴史上の巨人である。その不比等によってこの碑が建てられたという事実に、頼義は図らずも知的興奮を抑えきれずに顔を紅潮させた。
「へー、そうなんかあ。よく知ってんなあお前」
「どうやら、ここは我々が想像している以上に古くて由緒のある土地だったようですね」
「なーにご大層に感心してやがんだよ。ケモノに領地をあげるようなアホなとこだぞ、由緒もクソもあるかよ」
金平が心底「アホらし」と言った顔で頼義に冷ややかな視線を送る。頼義は頼義で金平に向かって呆れたような顔をした。
「もう、金平はこれだから……。金平、我々がここに何をしにきたのか覚えていないのですか?」
「そんなの決まってるだろ、忠常の野郎をぶっ殺すためにその手がかりである『羊太夫』とかいうヤツを探しに……ん、羊太夫?」
「やっと気が付いたの?もう……」
頼義が子供をあやすように笑う。金平もさすがに「羊」と「羊太夫」を結びつけて考えなかったのは迂闊にすぎると少し反省した。「考え事」は得手では無い、にしてももう少しこの短絡な所をどうにかしないとこの先が思いやられる。
「この碑文にある『羊』がその『羊太夫』その人を指すのかはわかりませんが、少なくとも何かしらの関係があるのは間違いないでしょう」
「左様、その『羊』こそがこの多胡郡を治める『羊太夫』その人であるよ、お若いの」
不意に後ろから声をかけられて金平も頼義も反射的に身構えて振り返った。
「そのお年でよう勉強しておられる。歴史から学ぶ事の大切さをよう分かっておいでじゃ。感心感心」
そこに立って(?)いたのは碑と同じくらいの背丈の、即身仏のように干からびた小さな老人だった。浅黒く焼けた肌には幾重にも皺が重なり、その目も口もどこにあるのか所在さえつかめない。
「頼信様からお話は聞き及んでおる。儂が今現在の『羊太夫』であるよご惣領どの」
男か女かもわからないような老人は歯のない口を開けてホッホッホと息が抜けるような笑いをした。