東海道相州碓氷峠・頼義、亡き友を思うの事
「いんやまあ、俺もお山に入るようになって長いけどよう、素手で熊と相撲するアホは初めて見たべな」
そう言って炭焼きの老人はカラカラと笑う。褒められているのか小馬鹿にされているのか、どちらともいえないその評価に金平は渋い顔をして押し黙った。
「そのお人がよう、碓井の殿さんとこのお客人だっていうからよ、びっくりだわな。まあたまたま俺が通りがかってお前さんたちもよくよく運が良かったべえ。でなけりゃお前さんたちヘタすりゃ死んどったで、冬の箱根をなめちゃあいけねえ」
「返す返すも、ご厚意感謝申し上げます。いずれ折を見て家の方から正式に御礼申し上げます故、本日は形ばかりにてご容赦いただきたく……」
盲目の少女、源頼義が深々と頭を下げる。
「なあに気にすんなよう、困った時はお互い様だべ。碓井のお家にゃあ世話になってるしよう」
老人は皺くちゃの顔をいっそう皺だらけにして笑いながら去って行った。その姿が見えなくなるまで頼義は頭を下げ続ける。ようやく頼義が頭を上げたところで屋敷の女房たちが湯の入った盥と手拭いを持ってきてくれた。
「さ、まずは長旅でお疲れでございましょう、ひとまず旅の垢でもお拭い下さりませ」
「かたじけのうございます。急な訪問にてご迷惑をおかけいたしまする」
「いえいえ、若様のご遺品をわざわざこのような遠国までお届け下さりまして、大殿もたいそうお喜びでざいました故」
「……」
とたとたと音を立てて女房連が去って行く。頼義は屋敷を見上げ、感慨深げに深く息を吐いた。
「ここが、貞景どのの生まれ育った場所……」
あの日、坂田金平と二人で旅立つ際、頼義はただ「東へ!」とだけ言ったが、何も無目的にただ東を目指したわけではなかった。ひとまずは父源頼信が任国として赴いている上野国を目指し東海道を下って行く心算であったが、途中金平がどうしても寄りたいところがあると言うので訪れたのが、ここ相模国の西端に位置する箱根山であった。
当時すでに箱根峠には関が築かれ、東国に根を張る夷賊への守りとして発展を重ねてきた。この箱根峠の坂から東がいわゆる「坂東」と言うことになる。その東海道の要衝である箱根連山の一つに金平は用があると言う。
「そこの地名はな、『碓氷峠』と言うんだ」
金平は遠くに連なる山脈を眺めながら言った。
「碓氷……」
頼義はその名を繰り返し、唇を噛んだ。碓氷、碓井……その姓を名乗る若者を頼義は一人知っていた。碓井貞景、かつて頼義の叔父にあたる美濃守源頼光の「四天王」として使えた勇将、碓井貞光の息子であり、金平と同じ「鬼狩り紅蓮隊」の一員として頼義と共に鬼の軍勢と戦った薙刀の達人……彼の姿を思い出して、頼義は胸を痛めた。
貞景は先に都を襲った鬼の軍勢へ果敢に立ち向かい、その大将格の鬼と相打ちとなって炎の中で死んだ。その遺体は灰すら残らず焼き尽くされてしまったが、唯一彼が愛用していた小薙刀「岩切」の刀身だけが焼け残って頼義の元に戻ってきた。その遺品を金平が預かっていたものだが、今回東に旅するに当たって丁度良い折と見て、その遺品を貞景の実家である碓氷の地に届けようというのが金平の希望だった。
「無論、否やはありません。私も是非お父上様にご挨拶いたしとうございます」
行き先が決まり、二人は三島から山を登って碓氷峠を目指した。ところがどこをどう間違ってしまったものか、一行は当初の目的地である碓氷峠から外れて、その隣に位置する「足柄路」に迷い込んでしまった。
足柄路はかつてこそ東海道の本道として利用されていた街道だったが、二百年ほど前に起こった箱根山の大噴火の影響で道としての機能はほとんど失われてしまった。今では三島と小田原を結ぶ、急勾配ではあるが距離の短い「箱根路」が主道として使われており、足柄路を使う者は地元の猟師や樵ぐらいのものだった。
当然、道もろくに整備されておらず荒れ放題であった。普通ならそこで気付くべきところを、何事にも大雑把な金平は
「きったねえ街道だなあ」
ぐらいにしか気にもとめていなかった。いい加減金平が
(おかしい……)
と思い始めた頃には、すでに道は道の体をなしておらず、むき出しの岩肌と鬱蒼とした深い樹々の生い茂る秘境と化していた。あちこちに石が転がった荒れ道のため、目の不自由な頼義は何度も躓きそうになり、その度に金平に抱きかかえられる羽目になった。
やがて業を煮やした金平は頼義をひょいと背中に担ぎ上げ、そのまま全部の荷物を一人で抱え込んで足柄山のけもの道を進んで行った。
そして出くわしたのがあの熊だった。
辛うじて熊を撃退し疲労困憊していた二人を助けてくれたのは仕事を終えて山を降りてきた炭焼きの老人だった。老人は金平を介抱してくれ、二人が碓井の家の所縁の者だと聞くとご丁寧にわざわざ碓井峠まで案内してくれた。
「ここら辺じゃあ、あんなに頻繁に熊に出くわすモンなのかい」
金平が老人に尋ねた。
「とんでもねえ、普通なら熊が山を降りてくることなんてねえべさ。まして冬だあ、熊が出歩いてる事自体おかしなこったべ」
老人が言うには、最近はお山に無許可で出入りして山を荒らす山賊どもが跋扈しているらしく、あの熊もそういった不埒者に巣穴を荒らされて彷徨い出たものかも知れぬ、との事だった。
親切な老人に案内されて無事に碓氷峠の貞光邸にたどり着くことができた二人は、門を叩いて主人への面会を願い出た。先にあらかじめ文を送って訪問の意を報せてはあったのだが、折悪しく主人の碓井貞光は火急の要件とかで急ぎ「鎌倉」という地に向かって出払ってしまったところだとの事だった。
「はあ、なんでもあちらに住まわれていらっしゃるご一族の方と上総の方面との間でいざこざが起こっているようで」
女房たちも急な主人の出立に眉をひそめていた。頼義もそれを聞いて妙な心持ちがした。相模国と上総国は武蔵国を挟んで遠く離れている。その二国間でいざこざが起きるような事態になるものなのか。
「ああ、でもお二方様にはくれぐれもよしなにとの事でしたのでどうかご遠慮なさらずに……あ、そうそう」
一旦行きかけた女房がくるりと回ってまた戻って来た。
「もしよろしければ、お二方様もぜひ鎌倉までお足をお運びいただいて一つご助力願えまいか、との事です」
「貞光様が、ですか?」
「あい」
「わかりました。ではすぐにでも鎌倉に向けて我々も出発いたします」
頼義はそう言うとすっと立ち上がり、見えぬ目でテキパキと旅支度を始めようとする。
「あんれ、まあそのようにお急ぎになられんでも。今晩くらいは当家でごゆるりとお過ごしくださいましな。まずは熱い湯にでも浸かっておくつろぎくださいまし」
そう言って女房はにっこりと笑った。