相州鎌倉平直方邸・紅蓮隊、出立するの事
上もなく、下もない。
前もなく、後もない。
時の進みさえ存在しない「彼方」に、ワタシの意識はたゆとうていた。
光も音もない世界をワタシの「意識」だけが進んで行く。ここが「何処か」はワタシは知らない。だがここが「何か」は、ワタシには理解っていた。
「何か」がワタシの意識に触れる。それが「何」であるかも、ワタシはとうに知っていた。それでもワタシはあえてソレに語りかけてみた。
「其は何者なるや」
虚空が答える。
「我は『記録』なり。人間が知性を獲得してより今日に至るまでに体験した全ての『記憶』と『記録』の集大成なり」
「記憶とは」
「人生なり」
「記録とは」
「歴史なり」
問答は淡々と続く。
「いま一度問う、其は何者なるや」
「我は全ての人生、全ての体験を記録せしモノなり。我はいずれ生まれ、いずれ羽ばたく者なり。『その時』に至るまで記憶と記録の収集を続けるモノなり」
「重ねて問う。汝に名はありや」
「人は我を『梵天』と呼ぶ。或いは『YHVH』と記され、或いは『黒い卵』と呼ばれる者なり。遠き未来においては『微積分の究極体』とも『魂の座』とも呼ばれる者なり」
とうに知っている、当然の答えが返ってくる。
「最後に問う。ワタシは何だ」
「オマエはワタシだ。いずれワタシに至り、ワタシを構成する『記録』の一部となる者だ」
「ワタシは、オマエ……?」
「そう、この1f8b08000000000000ff7bdcb8fe71e3c2c78dfb1e374d7edc381d4802000c070dd312000000……」
最後に「アレ」が何と名乗ったのか、ワタシには……
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
坂田金平が御簾を潜って部屋の中に入ってくる。頼義は依然目覚めぬまま褥に横たわっている。その彼女をまだ少女に過ぎない穂多流の君が甲斐甲斐しく汗を拭いたり扇で風を送ったりと世話をしている。
「まだ起きねえのか、コイツは」
つっけんどんにそう言う金平に対して穂多流はキッと目を向ける。
「頼義様をこのようなお姿にさせるなど、家人として失態です。お側についておりながら、何という体たらくですか!」
穂多流が金平に厳しい言葉を浴びせる。
「全くその通りだ。面目ない」
あまりに率直に金平が頭を下げるので、逆に怒りの矛先を失ってしまった穂多流は戸惑ってしまう。
「あ……いえ、その、差し出がましいことを申しました。ご無礼ご容赦を……」
穂多流も自らの暴言を謝罪する。金平には風当たりの強い穂多流だが、根は素直で優しい子なのだろう。甘やかされてわがまま放題に育った悪童かと思いきや、その実貴族の子弟らしくちゃんとした礼儀作法もわきまえているところなどを見るに、あんな父親でも案外父として立派に教育をしているものなのかと、あの善良で頼りなげな直方卿のことを少し見直していた。
口では互いに悪口雑言を繰り広げる二人ではあるが、存外この少女の事が嫌いではないのも、そういった部分なのかもしれない。
「それにしても参ったな。すぐにでも出立したい所なんだが、この様子じゃあしばらくは動けねえかな」
「!?もう、お立ちになられるのですか……?」
穂多流が悲しげに聞く。頼義の側にいられる時間が限られていることに気づき、少女は目を伏せる。
「ああ、上野の大殿がすでに平忠常征討に向けて下総国に向かっているらしい。俺たちも早いとこそちらに合流したい所なんだが……」
「心配には及びません。すぐにでも立ちましょう」
話をする金平たちの背後から、伏せったままの頼義が口を開いた。
「おう、ようやっと起きたかい殿さまよ。どうだ、動けるか」
「はい、心配をかけました。私はどのくらい眠っておりましたか」
「三日だ。流石に少し心配したぜ。まあ起きてくれて何よりだが……原因はやはり『アレ』か?」
金平は優しい口調ながら少し咎めるように頼義に問い質す。
「はい……おそらくは八幡さまの神威が強力すぎるゆえ、私の身体の方が耐えきれなくなって自発的に『道』を閉じてしまったのでしょう。私が未熟者であるばかりに……」
「お前さんが気にすることじゃあねえだろ、調子に乗ってはしゃいだあのクソ神が悪いんだろうが」
金平は相変わらずあの「八幡神」に向かって文字通り神をも恐れぬ言動でもって対する。どうにも金平はあの神様に対して妙な「対抗心」を燃やしていた。
「いえ、そうではないのです。八幡さまはあくまでも私に『力』と『知識』をお分け下さっているにすぎません。別人のように振舞っていますが、あの『私』も『私』であることに変わりはないのです」
「…………」
「力に溺れてはしゃいでしまったのは『私』自身。私が精神的に未熟だったせい……もっと精進して、己を律するようになれなければ、金平、あなたの懸念するようにあの力に『私』自身が取り込まれて、いずれ自我すら失ってしまうことでしょう。私には、この力はまだ重すぎる……」
金平は思わず口を固く結んだ。自分が心の底で無意識に恐れていた事をこの少女は見抜いていたのだ。
(そうだ、俺は「コイツ」が「コイツ」でなくなってしまう事を……)
金平は思わず彼女から視線を逸らした。
「……ともかく、動けるのならば一刻も早くここを立とう。大殿の方からも書状が届いている。下総の『相馬御厨』という地で忠常と会見を行う予定らしい」
「忠常どのと?」
「ああ、あっちの言い分によれば、今回の騒動は常陸国の豪族である左衛門大夫惟基との長年にわたる所領争いによる『私闘』であり、朝廷に弓引くつもりでは無いとの事だ。その証立てとして頼信の大殿に上総、下総、そして常陸の三国の『印鑰』を引き渡すと言ってきているらしい」
「印鑰を……?忠常どのがそれを持っているという事は、逆に言えば彼はすでにその三国を手中に収めていたということになるのでは?」
「そうなるな。それをみすみす手渡すのも妙な話といえば妙だが、とりあえず中央の意思としては無用にコトを荒立てずに済むならそれに越したことはないということなんだろうよ」
「印鑰」とは、律令体制下において公文書に押印される国守の印璽と、国家予算とも言える租税を備蓄する倉庫の鍵の事である。これらを所持するという事はすなわちその者が国の最高責任者であるという証になる。それを引き渡すという事は、朝廷に恭順し反乱の意思はないという表明と解釈できる。
「良かった。ではひとまずは戦になる事はないのですね。民草のためにもそれが一番の良策でしょう」
頼義は安堵したように息を吐く。それでも一抹の不安は隠せない。本当に忠常に反抗の意思がないのならば、あの「八束小脛」たちの襲撃はいかに説明するものか……
「それを確かめるためにもまずは下総まで出向かにゃあなるめえ。と、いう事だ」
金平がニヤリと笑う。
「と、いう事ですね」
まだやつれて血の気も引いている頼義の顔に、ようやく力無いながらも笑顔が戻った。




