東海道相州足柄峠・坂田金平、相撲を取るの事
坂田金平はおおいに困り果てていた。
まだ師走を迎える前とはいえ山道を吹き下ろす乾いた風は冷たく肌に刺さり、体温を容赦なく奪っていく。長い事使われる事もなく荒れ放題の石段は所々根石も崩れ落ちただの「けもの道」に成り下がってしまっている。
それでも体力自慢の金平にとってはこの程度の難所などさして苦にするほどのものでもなかった。その油断がいけなかった。いかに旅慣れた金平と言えどもまさか道端で
(熊に出くわすとは思いもしなかった……)
突如として木陰から姿を現した大熊は、出会い頭に思わぬ「獲物」に出くわした事に驚きつつも、せっかくありついたその幸運を逃すまいと熊視眈々と眼前にいる人間の様子を伺っている。
(おいおいおい、今は冬だぜ。普通熊ってヤツは冬になったら穴にこもって冬眠するもんじゃねえのかよ……)
頭の中で金平は毒づいた。熊は用心深い。人が頻繁に行き来するような街道沿いにはよほどの事がなければ姿を現さない。それだけ、この「足柄路」は久しく使われていなかったという事か。熊の方も気が立ってしきりに荒い息を吐いている。
(「穴持たず」ってヤツか……何らかの事情でこもっていた巣穴から出ていく事を余儀なくされて迷い出ちまったってか?)
金平と熊はしばし睨み合う。熊は一向に立ち去る様子もなく、金平に殺気立った視線を送る。いざともなれば熊と一騎打ちするのもやぶさかではない。しかし
(その前にはまず、この「お荷物」をどうにかせんとな……)
金平はその背に背負った「お荷物」をチラと伺った。金平の背には少女が一人背負われていた。小柄な色白のその少女は金平の肩をその手で確と掴まえ、静かに目を閉じて全身の肌で周囲の気配を感じ取っているかのようである。
少女は盲目であった。
「殿、悪いがいったん降ろしますぜ。俺が合図するまでここの木陰で控えててくんな」
そう言って金平は少女を降ろす。
「狼ですか、金平?」
少女は動ずる事もなく大樹の根元の草むらに気配を殺して膝をつける。
「なに、ちょいとばかし寒くなってきたんで、ここらでひと暴れして体を温めようかってところでさあ」
金平はそう軽口を叩きながら手にしていた長物の鞘袋を外す。中からは一間ほどの長さの柄に鋼の穂先をきらめかせた槍だった。切っ先は確かに槍だったが、その刀身に垂直に交わるように大振りの鉞と「く」の字のように曲がった鉤爪が添えられている。この一見使い勝手の悪そうな武器を一度この大男が振るえば、突いて良し薙いで良し、加えてその鉤爪で相手の足や獲物を絡み取るといった変幻自在の恐るべき凶器に変わる。この「剣鉾」を手にした金平に敵う者はこの世に数える程もいまい。
剣鉾を手にした瞬間、金平の身体の奥から燃え上がるような闘志が湧き上がってきた。久方ぶりの実戦だ、金平は思う存分槍を振るえる歓喜に満ち……
と思った瞬間、恐るべき速さで打ち込まれた熊の一撃で金平が手にしていた剣鉾はあっさりと打ち払われ、弧を描いて街道脇の切り立った谷底へ落ちていく。
「……へ?」
金平は一瞬呆気に取られて目が点になってしまった。全くの油断だった。普段から鬼だの魔物だのとおよそこの世のモノならざる連中を相手にしてきた自分がよもや熊ごときに遅れは取るまいと握りを甘くしていた隙を容赦なく付け入られ、この地上で最も獰猛な獣を前に全くの丸裸で立ち会う羽目になってしまった。
(マジかああああああああああああああああああ!!)
金平の手持ちの得物をはたき落した熊はそのまま上半身を起こして前足を高く掲げた。六尺五寸(約195センチ)を超える大男である金平をさらに上回る巨体である。その血走った目はいささかの容赦もなく目の前の人間を屠るつもりであることを伺わせている。
「金平!!」
遠くで少女が叫ぶ。その声を金平は手で制した。先ほどまで窮地に歯ぎしりしていた口元が開き直ったかのようにニヤリと笑う。
「上等じゃねえか……なら一丁、かかって来いや!!」
覚悟を決めた金平はその場で足をどっしりと開き、背を屈めて熊と対峙する。その姿勢に反応して熊は威嚇に振り上げていた前足をどしんと音を立てて降ろすと、金平に向かって突進して来た。
「うおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!」
渾身の気合を込めて金平が吼える。金平は逃げる事もかわす事もせずに、熊の突進に対抗するように自ら躍り出て、そのままの勢いで熊の鼻っ柱に己の額をぶちかました。
岩が砕けるような鈍い音が響き、金平の上半身が大きくのけぞった。熊は勢いを落とす事なくそのまま金平を押し続ける。流石に剛力自慢の金平でも野生の熊の一撃をまともに食らっては平気ではいられない。辛うじて両腕を熊の前足に絡みつかせ浮き上がった上半身を押し返そうと抵抗するが、熊の勢いは衰えず二歩、三歩とズルズル後退していく。金平の後ろには先程叩き落とされた愛用の剣鉾が落ちていった谷底が切り立った大口を開けて待ち構えている。このまま押され続ければ……
「金平!!」
少女が再び叫ぶ。ズルズルと押され続けた金平の足元は履いていた鹿皮の沓も破れ、血まみれになった素足のかかとで必死に踏ん張る。七歩、八歩とさらに後退し、もはや崖下に叩き落とされるのも時間の問題であった。
「金平!!」
たまらず少女は立ち上がる。その瞬間
「こ……のおおおおおおおおおおおお!!!!!!」
すんでのところで辛うじて踏み止まった金平は、大きく一息吸いこんだ後、熊にも負けぬ大音声で吠えた。
金平の太腿が、肩が、両腕が、そして背中までもが一瞬にして隆とした筋肉で盛り上がり、その皮膚の上を蛇のように太い血管が浮かび上がる。寒空の中、金平の全身から湯のように湯気が湧き上がる。一瞬に賭けた金平は全身の力を込めて熊に最後の勝負をかけた。
金平は右足を軸にして体を捻り、右腕一本に全身全霊の力を込めて熊を投げ飛ばした。浮き出た血管が、筋肉がブチブチと音を立てて千切れていくのがわかる。全身を襲う激痛にもお構いなく、金平はさらに力を込める。軸にした右足が地面にめり込む。
最後の絶叫と共に、金平は残された全ての力を解放した。
熊はものの見事に崖を転げ落ちて行き、谷底を流れる小川にその巨体を沈めて大きな水柱を立てた。熊はまさかの反撃に怯みはしたものの、身体自体にはほとんど損傷は無かった。全身の力を使い果たした金平は崖の上でうつ伏せになったまま動けないでいる。このまま熊が崖の斜面を登って再び金平たちを襲えば二人ともひとたまりもなく餌食となっていただろう。
だが、熊は登ってくることはぜず、くるりと背を向けてそのまま川に沿って立ち去って行ってしまった。金平はぐったりとしたまま乱れた呼吸をなんとか整えようとゼエゼエ声を上げている。
「悪いな……『うっちゃり』とは俺らしくもねえ手だが、今日のところはあいこってところで勘弁してくれ」
全身の筋肉を一気にフル活動させたために、所々筋や血管の切れた痛みが金平を襲う。金平はまだ自分の身体を起こせないでいる。
「金平……」
奥に隠れていた少女がおぼつかない足取りで金平の姿を求めて近づいて来る。金剛杖で地面を探りながら少女はようやく金平の元まで辿り着いた。
「あぶねえなあ、すぐそばに崖があるんだから無闇に一人で歩くんじゃねえよ」
動けぬ身体で金平は悪態を吐く。少女は膝を折って金平にその顔を近づける。
「怪我はありませんか、金平?どこか痛みますか?」
少女は金平の身を案じて顔を曇らせる。金平は無理に声高に笑って見せ
「なに、ちいっとばかし本気を出したもんだから身体の方がついて行けなかっただけでさあ。しばらくしたらすぐ歩けるようになる」
そう言って金平は無理をして半身を起こした。まだ全身の痛みは引いておらず、できればもう少し横になっていたい所だったが、これ以上彼女に無駄な心配をかけさせるわけにもいかず、金平は空元気を振り絞って平静を装った。
「それは重畳。それでこそ金平、この頼義の一番の配下です」
盲目の少女……源頼義はそう言うと金平に向かって優しく微笑みかけた。