第三話:無音で近付く危機と塞がれた霜巨人の口
『庭園の花』の花売り娘がいる六叉路の広場は、要塞都市の中心に近い。砦の機能と神殿など公共施設、及び貴族が住む旧市街と、庶民街である新市街との境目だった。
白い石畳の道は狭く曲がりくねっている。大通りも、馬車がすれ違うのがやっとの広さだった。白黒の石材と古い木材で形作られた街並みは、瀟洒や豪華とは言い難い。しかし人々は古めかしい『貧相』こそ尊び、自慢にしていた。
その白い敷石を、靴音高く踏んで行く騎士がいる。
そして路傍の花売り娘が息を詰める、という光景がしばしばあった。
遠くに青い外套を見かけると、ビゼルは真面目顔をつくり花を整えはじめる。やがて深緋色の髪をした背の高い人が過ぎ去ると、ほっと呼吸を取り戻した。青年騎士が花を買わないことを、騎士団の人的被害が少ない証左の如く思っている。露天の花売り娘の気の持ちようと、前線の状況は関係無い。ともあれ、若い騎士は忙しく過ごしているようではあった。
ギタブ伯爵の采配の下、騎兵たちは走り回っている。夏の間に霧人鬼の雪崩の原因を突き止め、解決する必要があった。訓練や、急な出撃に備えた支度もあるのだろう。揺れる青葉の下で、赤髪の青年が馬上の人となっている姿もビゼルは幾度か見かけた。乗っていた馬はここへ派遣されて支給されたか、もしくは私費で購入したのかもしれない。
ソフォイ周辺の馬は特殊で、身体が小さく足は太くて短かった。優美さこそないが、性質は従順で気位も高くない。蹄も置けない崖の道を軽々と跳び、毛深くて頑健。寒さに強く、粗食に耐える。小型で敏捷なことから、馬なのに『ウサギ』と呼ばれた。この『ウサギ』の足でなければ、山岳地帯で霧人鬼と戦えない。
霧人鬼との戦いは、猛獣相手と似ていた。
魔術のほか、槍や剣、弓矢などがあれば単騎の戦士や狩人も戦える。鉈で追い返した農夫の話しもある。ただしそれらは、“霧人鬼が腹を減らしていない”という前提条件がなければ、成立しなかった。
ビゼルは霧人鬼を近距離で目撃した経験はある。でも戦いを直接見たことはなかった。初めて霧人鬼と人間の戦闘を見たのは、台車をひいていたとき。花売り娘は、賑わいと異なるざわめきを聞いた。
「霧人鬼だ」
人々が言い合い、北門の方へ走っていく。要塞から見えるほどの所に、とうとう霧人鬼が現れた。見えたからどうするのだと、呆れる人や声もあった。だが北門へ向かう野次馬は増えていく。スカートを翻らせるビゼルも、そこにまざっていた。
北門付近では、興奮して騒ぐ若者達を衛兵が追い払っている。花売り娘は刺繍が施された裾をからげて人混みをすり抜け、黒い城壁に手をつき身を乗り出した。風の吹き上がる壁下に、霧人鬼がいた。巨大な水色の眼が見え、上半身をうろうろ揺らし、馬か何かの足を握って引き摺っていた。
騎士が三騎、霧人鬼を囲んで駆けている。中に深緋色の髪をしたあの若い騎士がいて、ビゼルは血管という血管が収縮した気がした。霧人鬼を取り囲んでいた騎士達は、同じ速度で馬を走らせていたが何か合図があったのだろう。
一人が魔術の炎弾を放ち、それが戦端となった。
霧人鬼は巨体から考えられない高さに跳躍して炎弾を避け、長い腕の先にある爪が、囮役の青年騎士と馬を掠めた。背後へ回り込んだもう一人が、再び炎の塊を放つ。
霧人鬼の注意が一瞬逸れると、横から別の騎士が甲羅の隙間を狙い、槍で脇腹へ斬りつけた。霧人鬼の甲羅は硬く、多少の刃では歯が立たない。赤い血ではなく黒い油状の体液が噴出し、もう一度霧人鬼へ放たれた炎弾が油へ引火した。炎に巻かれた霧人鬼は声とも呼び難い声でなき、地面で転げまわる。
起き上がりかけたところへ、深緋色の髪の騎士が馬を走らせた。一太刀で蜻蛉に似た首を切り落とすと、霧人鬼は崩れて動かなくなる。地面には黒い染みが広がっていた。死んだ霧人鬼は中身が溶け、外骨格の白い甲羅だけを残す。
要塞の上の見物人達は喝采した。ビゼルも感激し、心臓は震えるようでしばらく動けなかった。
時を同じくして、国境付近の山郷で、男が一人保護される。
男は三年前、ソフォイから消えた魔術師だった。
男は、かつて『霜巨人の口』を魔術の氷壁で塞ぐという、壮大な計画を立てたのである。計画は却下された。その後、彼は誰にも何も告げずに要塞都市を去った。諦めたものと思われていた。それが二年前、ひそかに百五十名の隊を編成し、氷壁作戦を決行していたのである。
つくられた氷の壁が、風の弱まる原因だった。
男は保護されたものの、間もなく死んだ。
「騎士団が、『霜巨人の口』へ行くそうだ」
後日、父からそんな話しを聞いたビゼルの驚きは痛みを伴うほどだった。
氷で塞がれかけている『霜巨人の口』と、その開放。霧人鬼たちが昼夜の別なく歩き回る極月山脈、最高峰。気が遠くなる行程。
ビゼルには荒唐無稽とさえ思えた。