キスだけの関係
「結婚して下さい」
「え?」
「僕と結婚して下さい」
「えと……本気?」
「うん」
桂天音は突然のプロポーズに驚愕した。
恋人の添田兼人とは付き合って3年になる。お互い27歳で、年齢的にも結婚してもおかしくはない。が……
「わかってると思うけど……私その……」
「うん」
「無理だからね」
「うん。大丈夫」
私はセックスができない。
できないと言うのは生物としてその機能が備わっていないということではなく、過去のトラウマで行為自体に恐怖を感じてしまうからだ。
「添田天音。悪くないんじゃない? あ、桂兼人でも良いけど」
「……添田くん、他の人と結婚したほうが……良くない?」
「なんで?」
「……子供、できないよ」
「いいよ。子供好きじゃない。天音といたい」
そんなわけで3年も付き合っている私達の間にはセックスはない。
「キスはしても良いだろ?」
「……うん」
キスも得意なわけではない。申し訳なくてそこは頑張っているのだ。
社内で男嫌いで通っていた私に「友だちになって」と彼が声を掛けてきたのは5年前。
そもそも彼氏どころか一緒に遊ぶ友達もいなかった私は最初、どうして良いか分からなかった。食事に行ったり、映画に行ったり、マンガや小説を貸し合ったりして少しずつ距離が近づいていった。
「桂さんと添田って付き合ってるの?」友達だと言っても信じてもらえなかった。彼は社内でも二人の時と変わらず親しげに私に話しかけたから当然といえば当然かも知れない。
「なんだ男嫌いじゃなかったんじゃん」と何度か食事の誘いを断ったことのある男性社員からはイヤミを言われた。
「面倒だから、俺たち付き合ってることにしよう」そう彼が言い出したのは3年前。
「そんなこと言って……添田くん彼女できなくなっちゃうよ」
「いいんだ。彼女とか面倒だし。専務からの見合いの勧めも断りやすいし」
我が社の専務の自慢は「月下氷人も大変だよ」で始まる。おかげで聞き慣れない言葉を知るきっかけにはなった。独身の社員には漏れなく見合いを勧めてくるし、天音も例外ではなかった。
「どんな男性が好みなのかな? 君は大人しいから周りが目配りしてあげないと一生独り身で終わりそうで心配だよ」
「だ……大丈夫です」
一生独り身でいるつもりだった。誰にも迷惑をかけず、静かに、ただ静かに生きていくつもりだった。
「私……あの……」
「ん?」
「……できないよ」
「え?」
「その……恋人同士がするようなこと……」
「……ああ……そうか……うん。わかった」
彼は何でもない事のように、やけにあっさりと納得した。
だから、もしかしたら彼はそういう事自体に興味のない人なのかもしれないと理解した。
そんなこんなで私たちは付き合って3年になる。これが恋人関係なのかどうかは多分に妖しいところだが、社内ではそういうことになっている。いや、彼は平気な顔で私の実家にも遊びに来るから、私の家族もそう思っている。
家と会社が私の生活の全てだから、つまり……二人は恋人同士なのだろう、多分。
「結婚とか……大変そうじゃない?」
「そう?」
「添田くんのご両親にも挨拶に行かなきゃだし……」
「ソレくらいじゃない?」
「ソレくらい……?」
「大変に思えることって。でも、言ってあるから大丈夫」
「何を?」
「可愛い彼女と結婚したいって」
時々添田くんはこうやって冗談を言う。反応に困るところだ。
「……結婚式とか……」
「ホテルが良い? 神前? それともハワイとか……」
「や……普通が……普通で良いんじゃない?」
おののいてしまう。南国の太陽光を浴びたら溶けてしまうに違いない。
「じゃ、結婚式場見に行こう。何件か物色してあるから」
「……うん」
鞄からパンフレットを出して私の前に広げると彼は「じゃ、結婚は決まりね」と小さくつぶやいた。
「なんで、結婚?」
「そろそろ家を出たいなと思って」
「は?」
「でも、一人だと寂しいだろ? だから」
「……寂しいなら……出なきゃ良いんじゃない?」
「でも、いつまでも実家暮らしってのも……ねえ?」
意味が分からない。が、彼にはこういうところがある。
「恐いけど観たいからついてきて」と二人で初めて行ったのはホラー映画だった。
「つまんないかもだけど行ってみたい」と初めて飲みに行ったのは忍者居酒屋だった。
恐いなら行かなきゃ良い、つまらなさそうなら行かなきゃ良い。天音には謎だった。
けれどもそうやって兼人に振り回されるのは楽しかった。彼は天音の嫌なことはしなかったし、色んなところに連れて行ってくれた。
「恋人同士なんだからコレくらいはしないと」
珍しく酔った兼人が天音の肩をそっと抱いて、キスをしたのはつい最近のことだ。キスされたと気付いた時には兼人の唇は離れていた。
「……だからこういうことは……苦手なんだってば……」
「そう? 平気そうな顔に見えるけど?」
「……そう?」
「うん。手を握るほうがエロいだろ? キスなんてちょっと触れるだけじゃん。どってことないよ」
「手?」
「こうやって絡めてさ……」
兼人が天音の手に指を絡めた。
「なにがエロいの?」
いつもやってるじゃないか。天音はそう思った。「付き合ってることにしよう」そう言った日から「ちょっとは恋人らしくしないと専務に怪しまれちゃう」と兼人は天音と歩く時、手を繋いできた。
「いや……俺がそう思うだけかも」
「?」
「だから、このくらいのキスは許してよ。男同士でも芸人が仲直りのしるしにしたりするだろ?」
「……芸人じゃ……・ないし……男同士でも……ないし……」
「外人だったら挨拶みたいなもんだろ?」
「……そうかな?」
何でもない事のように言う兼人を見て、自分は意識しすぎなのかもしれないと思った。確かにキスくらいどうってこと無いのかもしれない。
そんなこんなで時々、兼人は気まぐれに天音にキスをしてくるようになった。気恥ずかしくもあるし、やっぱりドキドキはするが、子犬がじゃれあうような感じで、ちっとも嫌な気はしない。彼は本当に、不思議な人だ。
そんな彼が言い出した結婚話に驚きはしたが、いかにも兼人が言い出しそうなことだとも思った。
「実は新居、もう目星は付けてあるんだ」
「は……あ?」
何もかも彼の頭のなかでは話が出来上がっているらしい。
「よっちゃんは和装と洋装両方見たいってさ」
「え?」
よっちゃんは天音の母親だ。兼人は親しげにそう呼ぶ。
「お母さんといつそんな話したの?」
「付き合い始めた頃かなあ」
「は?」
「よっちゃんの時はドレスだけにしたんだって、ウエディングドレスはその時だけだけど、他のドレスなら人の結婚式でも着る機会あるだろ? 白無垢着とけば良かったって言ってた」
「あ、結婚しますって話をしたわけじゃないのね」
「ないよ。そんなの天音のOKもらってからの話だから」
やけに仲がいいからすっかり話が終わってるのかと思った。
「ウチの親にはプロポーズするって言ったよ」
「……なんて?」
「頑張れ!って」
結婚てこんなものだろうか? いや、そもそも私が結婚などしても良いものだろうか? 上手く行かなかったらどうしよう? でも兼人ほど私を分かってくれる人間が他にいるとは思えない。冷静に考えれば、結婚するなら彼しかいない。大したことはできないけれど、彼を幸せにすることだけ考えよう。
その考えに辿り着くと、天音はやっと落ち着くことができた。
兼人が挨拶に来ると、両親と弟は一も二もなく喜んだ。
「天音をよろしくお願いします」
お母さんは泣いていた。
お父さんは安心した顔で、弟の和音は兼人に「ありがとう」と抱きついた。
そんな家族を見ていると、良かったと思った。家族を笑顔にできる何かが私に残ってたんだと嬉しかった。私は幸せになっちゃいけないけど、兼人の幸せのために生きていこう。私の家族に笑顔をくれる兼人の。
***
数ヶ月後、小さな結婚式場で私たちは結婚した。私は友達がいないので、親戚と会社の上司や同僚に参列してもらってこじんまりと式や披露宴を執り行った。
その晩は式場近くのホテルに泊まった。
明日は新婚旅行でベニスに行く。
「映画で観て、一度行ってみたかったんだ」と兼人は言った。
シャワーを浴びて出てくると、彼は窓辺に立って月を眺めていた。
「満月だね」
「うん。狼に変身しそう」
「ふふ、牙とか生えてくる?」
「そう、毛むくじゃらになって天音を食べちゃう」
「美味しくないよ」
「天音は美味しいよ」
いつになく甘い兼人の声音に体が硬直する。
「食べたこと……無いじゃん」
「キスしたことあるからわかる」
「適当なこと言って」
「緊張しなくても大丈夫。セックスはしない」
「……何も言ってないでしょ?」
「でも、初夜だし……キスは許してよ」
「……」
「いいよ。抱き合って眠るだけにしよう」
「いいよ。キスくらい」
いいよと言ったのに兼人はキスをしなかった。
「しないの?」
「貯めとく」
「え?」
「ベニスに行ってから使おうかな」
体をピタリと密着させて、兼人は天音のうなじの匂いを深く吸い込んだ。
「これからは一緒の匂いになれるな」
「え?」
「一緒の石鹸、一緒のシャンプー」
「……洗濯の洗剤も……」
「嬉しい?」
「うーん……嬉しい」
よく分からなくて適当に答えた。兼人は笑って「嘘つき」と言った。
時々分からなくなった。彼が何を望んでいるのか。
「嘘じゃないよ」
ただ嬉しいという感情をどこに置いておいて良いのか分からなかった。
旅行中も兼人はキスをしなかった。ただ毎晩、互いを抱きしめて眠った。私より温度の高い兼人の体にくっついていると子供に戻った気がした。
「添田くんは、性欲とか……大丈夫なの?」
明日、日本に帰るという夜。今までの疑問がつい口から漏れてしまった。
「大丈夫って?」
「性欲とかない人?」
「……」
「添田くん?」
「添田さんは?」
「え?」
「添田さんはない人?」
ああ、そうか私も添田になったんだ。
「……私は……そうだね。ない人」
「じゃ、俺もない人」
「じゃ、って何?」
「あるって言ったらどうする?」
「え?」
「恐いだろ?」
恐い。恐い理由をずっと言わなくちゃと思っていた。同時に一生言っちゃダメだとも思っていた。
「恐い……理由を言わなくちゃね」
「ん?」
今言わなければ一生言えない気がした。私以外の誰かから聞くよりは裏切りは薄い気がして、大したことじゃないみたいに軽い感じを装って口を開いた。
「結婚する前に言うべきだったけど……ゴメンね」
それでも唇が震えた。
*****
高校2年の夏だった。社会の先生に恋をした。所属していた文芸部の顧問で、部長になった私は先生と頻繁に言葉を交わすようになった。
家には部活だと言って、夏休み中、外で先生と会った。先生も私を好きだと言ってくれて、会う度ホテルに行くようになった。
『卒業までは二人の関係は秘密だよ』
先生との未来が当たり前にあるのだとその頃は思っていた。
夏休みが明けて、文化祭や体育祭の準備に明け暮れる中、私は学校で倒れた。妊娠していた。
親が学校に呼ばれ、相手を問い詰められた。黙っていたが、同じ部の友人が校長室に飛び込んできて先生の名を告げた。
彼女には先生との関係を話していた。『やめた方が良い』と忠告されてもいた。
「それで……堕ろすことになって……嫌がったんだけど」
母は言った『先生、奥さんも子供さんもいるのよ。知ってたの?』
知らなかった。
絶望的な気持ちで手術を受けた。
「産んでたら、9歳になる」
「……うん」
「その時はもう、いいやと思ったけど……」
「……」
「後から冷静に考えたら……私は自分の子を殺したんだ、って……」
恐ろしかった。裏切られた思いで私は我が子を簡単に切り捨てたのだ。何の罪もないのに。
「自分が怖くて……毎日……」
毎日吐いていた。いつ死んだら良いのかとそればかり考えてた。点滴に繋がれた私の手を、母がずっと側で握っていた。
『赤ちゃんを殺したのはあんたじゃないから、お母さんだから』
正気を失った私に母は語りかけた。
『あんたは嫌がったのに、お母さんが……。あの男とのことも……色々……もっと早く気がついてあげれば良かったのに……』
胸が潰れそうだった。自分の浅はかな行動で、いったいどれだけの人を不幸にすれば良いのか。父も母もおそらく弟も。悔しそうにうつむいた担任の先生も。友人たちも。
校長室で先生の名を告げた友人を私は多分、鬼の形相で睨みつけた。『天音、やめたほうが良いよ』何度もそう言ってくれたのに。
季節が変わる頃、お父さんが見つけてくれた高校に転入した。
抜け殻のように通い、卒業して親戚のコネで今の会社に就職した。
家族のために生きようと思った。私が自殺したらきっと家族が壊れてしまう。
そもそも我が子を殺しておいて、楽に死ぬなんて許されないとも思った。生きてるのが地獄なら、それこそ本望だと自分に架した罪を死ぬまで償おうと思った。
「だから、私は人殺しなの」
「……そうか」
兼人は否定しなかった。
「離婚して良いよ」
「結婚する前に話さなかったのは、俺と結婚したいって思ってくれてたから?」
「え?」
「俺との時間を少しは大切に思ってくれてたから?」
そうかも知れない。変な女だと思ってくれて構わなかったけど、そこまで酷い奴だとは思われたくなかった。けれど結局、こんな風に言わずにいられなくなったのは彼を騙し続けることが辛いからだ。
「ずっと言わないつもりだった」
「……うん」
「添田くんと付き合ってるって言った時に、お母さんが久しぶりに心から笑った」
「そう」
「結婚するって言ったら、家族みんなが涙を流して喜んでくれて……」
「うん」
「だから言わないでいることも皆の為だって……」
「……なんで今?」
ずっと視線を合わせなかった天音が、兼人の方へ顔を向けた。
「添田くん……騙されていい人じゃなかった」
「ん?」
「結婚したら、添田くんを幸せにすることだけ考えよう。そう思ったんだけど」
「俺を?」
「自分に嘘ついてた。添田くんといたら幸せなのは私だった。添田くんが幸せになるためにはもっと他の人じゃなくちゃ」
「天音」
「ちゃんとセックスして子供も産んでくれて美人で明るくて冗談とか上手くてお金持ちで添田くんの役に立ついろんなものを持っていて」
抑揚のない天音の声が、徐々に震えを帯びてきた。
「天音」
兼人はたまらなくなって彼女を抱きしめた。
「大丈夫。大丈夫だから」
天音は彼にしがみついて泣いた。
彼女が兼人の前で、自分の感情をこれ程露わにするのは初めてのことだった。
「そのままで良いから聞いて」
天音の髪を撫でながら、兼人は昔を思い出していた。
「俺も天音を騙してたんだ」
「……?」
「俺、2年2組だったんだ」
「え?」
「おんなじ高校の隣のクラス」
天音を悲しませた腐れ教師が担任だった。あの馬鹿男と彼女がどうにかなる前から天音に恋をしていた。
1年生の時、文化祭で展示されていた文芸部の作った詩集を見て。
『たった一つの空』
たった一つの空を、誰もが見上げている
たったひとつの心で、たった一対のまなこで
たった一度の今、たったひとりの人を思って
恥ずかしいな。こんなの書いて印刷して、みんなに読まれるのとか恥ずかしくないのかよ。
そう思いつつも、短いその詩と作者の名前をこっそり手帳に書いて胸にしまった。『天音』とだけ書かれたその名の持ち主を突き止めた時には胸が高鳴った。はつらつとした瞳、肩で切りそろえられた黒髪、スラリとした手足。何より、印象的なその笑顔……。
10年前の入社式の日、一人ひとり名前を呼ばれて辞令を渡された。
『桂天音』
はい、と小さく返事をした彼女の後ろ姿を弾かれたように凝視した。
変わり果てた彼女に、暫く本人かどうか確信が持てなかった。高校2年の時、思いも告げられず転校していった彼女のことは、ずっと胸にわだかまったままだった。
お互い別の部署に配属されて、慣れない仕事に四苦八苦しつつも、すれ違う度彼女のかつての面影を探してしまう自分が切なかった。
人を寄せ付けない態度、曖昧にいつもうっすらと微笑んでいるような口元。
あの馬鹿教師が奪った多くのものを目の当たりにして、怒りが収まらなかった。
けれど、自分が彼女の前に出ていくことで塞がった傷を暴くことになりかねないとずっと声を掛けられなかった。
忘れるべきだと思って、友人や先輩に紹介してもらった女の子と付き合った。どれも長くは続かなかったが……。
色を無くした彼女の瞳が、会社のエントランスで空を見上げていた。
あの雨の日「駅まで行きましょうか?」と自分の口から飛び出した声に正直驚いた。
「いえ……すぐ止むと思うので……」
「俺、同期入社の添田です。認識してました?」
「……いえ……ゴメンナサイ」
「実は……ええと、相談があって……」
「え?」
「駅まででいいので、聞いてもらえませんか?」
どうでも良い職場の愚痴を聞いてもらいながら駅へ向かった。同じ傘に入りながらも、大きく距離を置こうとする彼女に、一生懸命傘を差し掛けた。
「違う職場の同期だからって愚痴ってスイマセン」
「いえ……」
「良かったらこれを期に友達になって下さい」
「え?」
「じゃ、明日!」
傘を強引に手渡して改札に飛び込んだ。彼女が遅れて追いかけてきて、同じ方向だった事がわかると、自分の間抜けさに呆れた。
よくよく考えれば彼女は俺のことなんて覚えてないだろうし、下心無く本当に友達になりたかった。友達なら彼女を見守ることが出来ると思った。
「俺、うざかった?」
「添田くん、知ってて?」
「知ってたの黙っててゴメン」
「……同情で結婚までしちゃダメだよ」
「同情なんて最初だけだよ。後悔のほうが大きくて」
「後悔?」
「俺が勇気を出して天音の彼氏に収まってたら、起きなかった事件だろ?」
もちろんそんな勇気はなかった。
「あんなことになると分かっていたなら、過去に戻って何としてでも俺に惚れさせるけどさ」
おどけたように兼人が言うと、天音の瞳からまた涙が溢れた。
「泣け泣け。俺の前で泣けるようになったなんて大きな進歩だ」
「添田くん……」
「なんだよ添田さん」
「……バカだなあ」
「そうかな? 初恋を成就させてご満悦なんだけど?」
「バカ……だなあ……」
「夫がバカで悲しいのか? もっと泣いていいぞ」
ぐしょぐしょの頬を撫でて、彼女に口付けた。
「いいか? 桂天音が幸せになることを、お前は許せなかっただろ? でも添田天音は幸せにしてやってくれ、俺の可愛い奥さんには幸せでいて欲しい。俺のためでもお父さんやお母さんや弟のためでも良い。それから赤ちゃんの為。罰みたいな人生はもう終わりだ。俺の奥さんは生きるに値する、幸せに値するんだ。そんでな、沢山の幸せを持って俺たち人生を終えよう。そしたら天国で待ってる産んであげられなかった赤ちゃんに溢れるほどの幸せを持ってってやれるだろ? お前の幸せはお前の赤ちゃんの為にもなる。天音、お前が好きだ」
ついでのように告白したのは、やっぱり重いかなと思ったからだ。もっと天音に相応しい奴がいると思いつつ、湧き上がってくる恋情を抑えられなかった。社内の噂を良いことに恋人に持ち込んだのは力技だった。
「添田くん……添田……」
「ゴメンな。性欲はなんとかしとくから気にすんな」
「なんとかって……」
天音は不安になった。
そういう職業の人に処理してもらうと言うことだろうか? 今までもそうしていたということ? それとも……。
「……添田くん」
「ん?」
「私に……出来ることないかな?」
「え?」
「えと……手でとか……」
「何考えてるの?」
「愛人とかいる?」
「は?」
「そういうことする相手が……」
「セフレが居るかってこと? いないよ。自分で処理するって言ってんの」
「……」
「そんな顔しない」
まただ、なんでもない事のように装うその笑顔。私はこの笑顔に助けられてきた。
「口で……」
「ダメ」
「え?」
「天音にそんなことさせられない」
「でも……」
「じゃ……俺の邪な願望を叶えさせてくれる?」
「よこしま?」
「うん」
「キスさせて」
「キスは何度もしたことあるでしょ?」
「いっぱい。キスだけしかしないから。いっぱいさせて」
天音はコクコクと真剣に何度もうなずいた。
兼人はジッと彼女を見つめた後に、静かに唇を合わせそっと吸った。離してまた視線をからませた後、また唇を合わせる。確認するように何度もそれを繰り返した後
「舌入れて良い?」
ドクンと胸が鳴る。
「いいよ」
兼人の舌を受け入れるため、少し口を開けた。
「ありがとう。いただきます」
笑ってしまった。
その顔を見た兼人が嬉しそうにクシャッと笑うとぎゅっと天音を抱きしめた。そのまま顔をスライドさせると、さっきとは違う熱っぽい表情で彼女を見た。
「っ!」
忍び入る兼人の舌に一瞬体が硬直する。兼人はすぐに舌を引き抜いた。
「大丈夫……です」
「ホント?」
「ビビりすぎです。ちょっと……その……ドキドキしただけ……」
「あんまり可愛いこと言わないで、狼になっちゃうから」
「美味しくないのに?」
「確認させて……」
唇を兼人の舌がなぞった。そのまま唇を割って中に入ってくる。
「……ん……」
「やっぱり……おいしい……です……」
うそ、さっき使った歯磨き粉の味しかしない。
「は……」
「舌」
「ん?」
「天音の……舐めたい……」
舌を差し出すとぬるりと兼人のが絡められた。
「んん!」
頭がクラクラした。舐められ吸われ、兼人の舌が別の生き物のように蠢いた。
「んはっ……」
「おいしい」
頬を撫でながら兼人が顔を離した。
「天音。おいしい」
「も……わかりました」
「なんでこんなことしたいと思うのかな?」
「え?」
「人間の他にもこんなことする動物いる?」
「……いない……のかな?」
ちゅ、ちゅ、と角度を変えて兼人の唇が降ってくる。
「変な生き物だな。人間て」
「うん……」
「あー、好き」
吹き出して笑ってしまった。
「そんなに好きなの? キス」
だったら沢山してあげたい。
「天音のことです」
「え?」
「好きな人と好きなだけキスできるなんて、俺前世でかなりのことしたんじゃない?」
「かなりのこと?」
「世界を救ったとか?」
「凄い!」
「バカにしたな」
ベロンと唇を舐められた。何度も、時折唇の中に侵入して中をかき回す。私も舌で応えて、兼人の舌を強く吸った。
「んん!」
「あ……痛かった? あ!」
強く押し付けられた唇が開いてまた、兼人の舌が私の舌に絡められた。お互いの唾液を交換し合って吸いあった。
長い時間そうやってキスを交わしていると、苦い思い出が顔を出した。目を逸してはいけないと思った。今私に触れているのは兼人だ。私の好意に付け入ってただ欲望を満たしたあの男ではない。妻も子供も裏切って、生徒に手を出した男ではない。淫行罪で警官に連れて行かれた男ではない。
好きだった。初恋だった。身も心も捧げる価値があると思っていた。
『誘惑されて仕方なく行為に及んだって向こうは言ってるけど?』警察官に言われて目の前が真っ暗になった。
『好きだからしたいんだ』躊躇する私に言ったのと同じ口でそんなことを言ったのか。痛がっても『すぐに良くなる』と言った口で。
思えば快感を感じたことなどなかった。そんなものだと思っていた。それでも好きなのだからと。
「天音? 今のはいやだった?」
一つ一つ、確認しながら私をいたわってくれる兼人とは違う。
「ちゃんと言って、嫌だったら嫌だって」
「添田くん。添田くん添田くん添田くん!」
「よしよし。もっと泣いてもっと吐き出そう」
背中を撫でる手が優しい。
「いい子いい子。天音はいい子」
「……そんなに甘やかしたら……ダメだよ」
「一杯甘やかしたい。そんで俺なしではいられなくしたい。あ、陰謀が漏れちゃった」
「添田くんの陰謀……スケールがちっちゃいよ」
「そう? 結構壮大だと思ってるんだけど」
絶望なんて簡単だった。先生を悪者にして憎んで、自分を犯罪者にして嫌悪して。親を悲しませない程度に生きてるつもり、誰にも迷惑をかけないように生きてるつもり、つもり、つもり。
「添田くん」
「大丈夫。天音は大丈夫。俺達は大丈夫」
「添田……」
「だから、もう許してやって。天音の中で高校2年のままうずくまってる桂天音を」
許したらいけないと思っていた。誰が許しても自分だけは。自分だけは、あの恋に浮かれていい気になっていた女を許せなかった。
「過去は変えられない。それで良いんだ。そんなことできたら世界は大混乱だ」
「大混乱……」
「だから、世界のためにここは一つ堪えてくれ、許してやってくれ」
笑った。泣きながら笑った。涙でグチョグチョの顔で兼人にキスをした。
「こら、幸せすぎるだろ」
いっぱい、いっぱい。照れて赤くなる彼の顔にキスをした。
「それはコッチの……セリフです」
恐い、世界は恐い。でも顔を上げよう。醜いなら醜いままでこの顔を上げて生きていこう。怯えていても虚しくても、こうやって美しい何かに触れられる瞬間を見逃さないように。生きたくても生きられなかった、あの子のためにも。
Fin.