そらのそこのくに せかいのおわり 〈Vol,04 / Chapter 08〉
翌朝、スフィアシティにおける浸水被害の被害状況がまとめられた。
浸水家屋五千棟、うち四百棟は倒壊及び流出。
意識不明八名、重傷五十二名、軽傷九百六名。
深夜の堤防決壊であったにもかかわらず死者が一人も出なかったことは奇跡であると、どのラジオ局も声高にニュースを読み上げている。
そう、奇跡だ。間違いなく奇跡なのだ。未だ意識が戻らない八名にはルキナとボナ・デアが付き、意地でも死なすものかと奮闘している。パークスは避難者らが身を寄せ合っている宿泊所を巡回し、集団生活の秩序を維持すべく、人々の心に知性や品性を植え付けまくっている。
人間たちは気付いていないが、ここには今、間違いなく『奇跡を起こす女神たち』が降臨しているのだ。
「おはようございます、隊長! あの、そちらの皆様は、どちら様でしょうか……?」
そう声を掛けてきたのは、朝になって合流したレインである。
ベイカーはあのまま現地で人命救助や被害状況の確認に当たっていた。徹夜で働き続けた彼は目の下に隈を作り、疲れ切った様子を見せている。
そんな薄汚れた隊長の後ろに、トップモデルも裸足で逃げ出す美女軍団がいるのだ。気にならないほうがおかしい。
「ん? ああ、紹介しよう。右から順にニケ、フォルトゥーナ、ユヴェントゥス……」
と、そこまで言って気が付いた。
「レイン……お前、彼女らが見えているのか……?」
すれ違う人間の誰もが、女神たちの存在に気が付かない。彼女らを目視できるのは、自身も『神の器』として選ばれた者たちだけなのだが――。
「え? あの、見えている……? 何のことですか? だって、普通にそこに……?」
ベイカーのみならず、これにはニケらも目を丸くした。
「どなたの器かしら⁉」
「神の気配は感じないが……?」
「まだ覚醒していないのでしょうか?」
「馬鹿な! 覚醒前の人間に、神の気配は感じられぬはずだろう⁉」
「おい、男! 答えよ! 貴様はいずこの神の器か!」
ニケに大剣を突き付けられ、レインは「ひいっ」と悲鳴を上げる。
その瞬間、ほんの一瞬だがレインの姿がブレた。肉体と、その内側にいる『何者か』とのリアクションに若干のズレが生じたのだ。
「やはり誰かついているな!」
「顔を見せろ!」
ニケとフォルトゥーナに襟首をつかまれ、レインの体から引っ張り出されたのは――。
「……ん?」
「あれ? こっちもレイン?」
「……本人?」
『中身』を引き出されたレインの体は、その場でばたりと倒れてしまった。
レイン本人は、何か起こっているのか分からず大混乱の様子だ。
「わーっ! 大変! 私が倒れてます! なんで⁉ 隊長! ちょっとこれ何がどうなってるんですか! あ! どうしよう! 体! 私の体早く起こさないと! 昨日顔が溶けちゃったから、作り直したばっかりなんです! まだちゃんと固まってないのに! うつぶせにしたら鼻潰れちゃいますよおおぉぉぉ~っ!」
本人が言うとおり、地面に接している部分が奇妙な潰れ方をしている。陸上生物の『肉』ではなく、深海魚のゼラチン質のような、ひどく軟らかな質感で――。
「……ニケ、フォルトゥーナ、本体に戻してやってくれ。どうやらレインは、そもそも『そういう生き物』らしい……」
不定形生物シーデビル。もともと深海に暮らす種族がどうやって陸上生活をしているのかと思ったら、何のことはない。彼らははじめから、実体を持たないエネルギー生命体だったのだ。レインにとって肉体とは、陸上で活動するための端末に過ぎないらしい。
レインは潰れた顔を粘土をこねるように成形し、改めてニケたちを見回す。
「うはーっ! いや、もう、びっくりしましたよーっ! カラダ素通りで中身に触れるなんて! 今のって何の魔法なんですか⁉ 全然見たことない技なんですが!」
見えているのに、相手が神と気付いていない。
これは女神たちにとっても衝撃的過ぎる展開である。
一斉に振り向いた女神たちが、目だけで「これは何だ⁉」と説明を求めてくる。
「あー、その、えーと……我が特務部隊が誇る水中戦最強戦力、シーデビルのレイン・クロフォードだ。その日の気温次第で伸びたり縮んだり溶けたり泡立ったり磯臭かったりするが、基本的にはいいやつだ。干からびていたら、水を足してやってくれ!」
自分でも何を言っているのか分からないが、そういう隊員なのだから仕方がない。
女神たちは揃いも揃って、まるでフナムシでも見るような目でレインを見ている。やはり、磯臭い珍生物は女性受けしないようだ。
そんなどうでもいいやり取りの最中に、他の隊員たちも次々と合流してきた。
自然災害も巨大生物も、本来は特務部隊の担当案件ではない。しかし別件でたまたまその場に居合わせ、その巨大生物を駆除してしまった。ここまで関わってしまった以上、適当な引き継ぎで現場を離れるわけにもいかない。今後はスフィアシティの治安維持部隊とともに、『謎の巨大生物』の正体や、それが出てきた穴について調査することになっている。
(だが……あれはカミサマの成れの果てです、なんて説明するわけにもいかないしなぁ……)
特務部隊の馬車も、空中で戦うベイカーも、人命救助に当たる王子と副隊長の姿も、何もかも市民に目撃されている。合理的な説明をでっちあげるには、相当苦労しそうだった。
結局、特務部隊が撤収できたのは翌週の事だった。
もちろん数名ずつ交代制で活動していたが、イレギュラーな活動が一週間も続いたのだ。誰もが肉体疲労以上に、精神的な疲労を感じていた。
久しぶりにオフィスに揃った隊員たちに、ベイカーは改めて、この一週間の労をねぎらう。
「皆のおかげで、ようやく事後処理を終えることができた。この一週間、よく頑張ってくれたな。巨大怪獣の正体はつかめなかったが、死者が一人も出なかったのは不幸中の幸いだ。特に、救助活動に尽力したグレナシン副隊長、マルコ、ロドニーの三人にはスフィア市長から感謝状が贈られることとなった。三人に拍手!」
オフィスに拍手の音が響く。
事情を知らない隊員は、この件を『謎の巨大生物』によって引き起こされた自然災害だと思っている。今もオフィス内をのこのこと歩き回るみんなのペット、『カメのゲンちゃん』の同族の仕業とは思ってもいない。
「えー、それで、実はみんなに、新たな仲間を紹介したい! あの現場でマルコが保護した希少生物だ。マルコ!」
「はい!」
マルコは、自分のデスクの下に隠しておいた水槽を持ち上げた。
中にいたのは、体長五センチにも満たない、金魚のような魚だった。
ただし、色は青い。
「なんだこれ? 見たことが無い魚だな」
「金魚の変種か?」
キールとハンクが興味津々でのぞき込むと、魚は水草の陰に隠れてしまった。
「あ、逃げた……」
「ハンクの顔が怖かったんだろうな」
「え、俺のせいか⁉」
いつも通り、キールはごく自然にすべての責任をハンクに押し付けた。そんな二人を微笑ましく見つめて、ベイカーは飼育上の注意を告げる。
「この魚は水槽内の藻などを食べて育つ。だから基本的にエサやりは不要だ。くれぐれも、パンくずやスナック菓子をやらないように! 水が汚れて死んでしまうからな! 特にレイン! 指を突っ込んだりするなよ! 魚が驚く!」
そう言われた瞬間には、すでに水槽に人差し指を近づけていた。これには誰もが吹き出さずにいられない。
「んも~、レインちゃんったら~」
「やると思ったぜ」
「隊長! この子名前あるんスか?」
「ああ、マルコが付けた。な?」
「はい。『サラ』といいます」
「へ~、サラちゃんッスか~。俺ゴヤッチだよ~! よろしくッス、サラちゃ~ん」
ゴヤが話しかけると、サラは水草から出てきてお辞儀するような動作を見せ、それからまた、水草の陰に戻ってしまった。
「なあハンク……今、この魚お辞儀してなかったか?」
「まさか。偶然だろ? キール、お前どんだけメルヘンなんだ?」
「いや、だって、今確かに……」
「気のせいじゃねえか? な、ゴヤ」
「そーッスね! たぶん気のせいッス!」
「えーっ! 嘘だろー? だって本当に……おいレイン、お前、見てたよな? な?」
「出たー! 困るとすぐにレインに同意求めるやーつ!」
「ああ? おいコラ犬っころ、それ言ったらお前だってすぐに『な、ゴヤ』とか言い出すじゃないか?」
「今のはたまたまだっつーの! 俺そんなに言ってねーって! な、ゴヤ!」
「いや先輩、今メッチャ言ってるッスよ⁉」
「え、ウッソマジでっ⁉ 俺言った?」
「無意識⁉」
ロドニーとゴヤのいつものやり取り。それを見て笑うことで、キールは、抱きかけたわずかな違和感から関心を逸らされた。
計算ずくか、無自覚か。マルコは心の内でロドニーに礼を言う。
その心の声を聞きつけて、玄武が話しかけてくる。
(ねえマルコ、どうしてサラは、ただのお魚さんになってるの? みんなには、カミサマだって内緒なの? ボクのことは、ちゃんと『カミサマ』って紹介してくれたじゃない)
この問いに、マルコは軽く肩をすくめた。
(サラ本人の希望です。彼女はしばらく、カミサマをお休みしたいそうなので……)
(なんで? ボクと一緒に、マルコにくっついてればいいのに!)
(あ、いえ、それは……)
マルコは口ごもる。
サラも、水槽の中で困ったように首を傾げていた。
(なに? どうしたの? なにかあったの?)
(ええ、その……私もサラも、そのつもりだったのですが、私には神を二柱、同時に受け入れるだけのキャパシティが無かったようで……)
(……え? じゃあ、もしかして……)
(はい。『神』として力を使う必要があるときは、ゲンちゃんと交替してもらうことになります。それ以外の時は、カミサマはお休みです。こうして『普通の魚』として、水槽の中で……)
(えーっ! そんなぁ! やだよそんなの! ねえマルコ! ボク、サラと遊びたい! マルコ頑張って! 頑張ってパワーアップしてよぉ~っ!)
(そ、そう言われましても、一体どうしたら良いものか……)
(筋トレ! 走り込み! あとはそうだなぁ~……お肉いっぱい食べて!)
(ぶ……物理強化で良いのですか⁉)
その程度の努力ならばいくらでもやってみせると、マルコは玄武に約束した。
決意とやる気に満ち溢れた顔のマルコに、玄武はそっと寄り添う。
玄武は確信していた。
マルコは必ず、『何か』に化ける。
マルコはただの人間だ。神の器として創られた存在ではない。それなのに彼は神の姿を見て、神の声を聞いている。そして自身が発した『言霊』で、玄武とサラ、二柱の神を実体化させているのだ。
確かに今はこの程度。玄武もサラも、ただの動物同然である。だが、こんなものでは無い。この青年にはもっと強大な――他の『器』たちなど比較にならない、恐るべき能力が眠っているに違いない。
玄武は、その力を引き出したいと思っていた。その力さえあれば、玄武は親友を――オオカミナオシを、悪夢のような『運命』から救い出せると信じているのだ。
(ねえねえ、マ~ルコ! 頑張ってね! ボクはいつだって、マルコの味方だよ!)
マルコは笑って玄武を抱き上げる。
(ありがとうございます)
ふわりと微笑むマルコ。神のみが感じる『心の温度』は、今日も最高に心地好い『春の日だまり』。
玄武は目を細めて、その身をマルコに委ねた。
それから数時間後のこと。ベイカーは一人、本部庁舎の六階にいた。
ここは隊長室の真上の部屋。空き室の壁には、たったひとつだけ、ポツンと設置された内線が。
ベイカーは受話器を手に取り、押し慣れた番号を呼び出した。
待つこと一分二十秒。
相手は通信に出るなり、忌々しげな声でこう言った。
「……よくも逃がしたな……」
いつもの相手、いつもの声である。しかし、その声を発する『器』の制御権は、どうやら今は神にあるらしい。
「タケミカヅチ……俺のものにならないばかりか、他の神まで逃がすとは……許さん……許さんぞ……」
この言葉に、ベイカーも制御権を神に譲った。
タケミカヅチは、嘲笑うような声で言い返す。
「悪いな。俺はお前と違って、力ずくで女を抱く趣味は無い。正々堂々と口説いて、全員まとめて寝取らせてもらった。おかげでこのところ睡眠不足だ。安眠できるお前がうらやましいな」
美少女のような顔で、こういうセリフを平然と言い放つ。元より口が達者な神ではあるが、口喧嘩はベイカーの得意分野である。器の性格がすこぶる良いので、タケミカヅチの『クソ野郎ぶり』にも年々磨きがかかっている。
「で? どうする? これまでお前が偉そうにしていられたのは、彼女らから吸い上げた力のおかげだろう? 夢に監禁されていただけにしては、随分と弱っていたからな。あの空間には神から力を奪い、それをお前に送り届ける仕掛けがあった。違うか?」
相手は内線越しにも分かるほどの歯軋りを立て、呪詛の如き唸りを上げた。
「タケミカヅチ……俺を舐めるなよ。あんな連中の力などなくとも、俺はお前くらい、ひと捻りにできるのだぞ……」
「あっれー? おっかしいなー? それならお前、どうして俺を手籠めにできなかったのかなー? 俺にキンタマ蹴り上げられたからって、腹いせに同じ顔の『器』のほうをイジメてただろー? お前、本当はたいしたことないんじゃないかー?」
「舐めるな! 我はオリュンポス十二神が一柱、ヘファイストスなるぞ! 貴様が如き『新参者』に、我の力が劣ると言うか!」
「はっ! 古株ってだけで偉そうにするなよ? 事実、俺が一回勝っている! 決まり手は『キンタマ潰し』でな!」
「よかろう! どちらが強いか、その身をもって思い知るがいい!」
「その言葉、そっくりそちらにお返ししよう!」
雷と炎と剣の神、タケミカヅチ。
炎と雷と刀鍛冶の神、ヘファイストス。
司る能力ゆえか、はたまた本人の性癖の問題か。ヘファイストスは刀剣の神であるタケミカヅチを手元において、自分の好きなように『手入れ』したくてたまらないらしい。
自分の体からタケミカヅチが抜け出る反動で、ベイカーは受話器を持ったまま、軽くよろけた。
内線の向こうからも、転んで何かにぶつかったような物音が聞こえてくる。
「アル=マハ隊長? 大丈夫ですか?」
ガチャガチャと何かを掻き分ける音の後、ため息交じりの返事があった。
「全然大丈夫じゃない。コーヒーぶちまけた……」
「あー……それはお気の毒に……」
「そっちは大丈夫だったか?」
「ええ、どうにか踏ん張れました。ご心配ありがとうございます」
「で? これからどうする? 当初の予定と、かなり違う方向に行ったようだが……」
「申し訳ありません。ツクヨミが、勝手にロドニーを覚醒させまして……」
「だが、完全覚醒ではないのだろう?」
「はい。オオヤソマガツヒの出現までは、まだ時間があります。それに、青龍を『戦力』として味方につけることは出来ませんでしたが、代わりにニケやフォルトゥーナらを味方につけることができました。状況としては、当初の想定より幾分か有利なのではないかと……」
「だといいんだがな。うちのカミサマがあのブチ切れ方では……」
「監禁してエネルギーを吸い上げているよりは、現状のほうがよほど『戦力』になると思いますが?」
「それは同意見だが……せっせと集めた美女軍団が、丸ごと寝取られたわけだからなぁ。この分だと、このまま同盟解消という事にも……」
「それは仕方がないと思いますよ? 何と言ってもそちらのカミサマは、タケミカヅチの兄二人までハーレムの女扱いしていたのですから。てっきり死んだものと思っていた兄弟が、実は同盟を組んだ相手に玩具にされていたとなれば……」
「普通はぶっ殺したくなるな」
「そちらも、こちらも、相手を殺害するに足る動機があります。同盟の維持は諦めて、今後は衝突を回避する方向で動きましょう」
「異議なし。しかし、ツクヨミの監視だけは怠るなよ。あれは危険だ。何をするかわからない」
「ええ……ですが、今はそれ以上の懸念事項が……」
「なんだ?」
「マルコの事です。もしかしたら、マルコは『予言』を覆したかもしれません」
「なに? どういうことだ?」
「今、そちらに写しはありますか? あの日、六月十三日の記述をご確認ください」
「待て、今調べる。えーと……ああ、確認したぞ。六月十三日は……」
〈六月十三日、金曜日。
今日は朝からひどい雨。
足を滑らせて王子が怪我をした。
玄武の加護は、こういうことには適用されないらしい。
もっと大怪我しそうなら、助けてくれるのだろうか?〉
同じページのコピーを見ながら、ベイカーははっきりと断言する。
「マルコは、足を滑らせていません。あれだけの混乱の中でも、怪我一つ負っていません」
「なに? では……」
「はい。おそらくあの日、初めて、予言と現実の間に『相違』が生じたものと思われます。十四日以降のページを見てください。玄武のことは書かれているのに、ニケも、フォルトゥーナも、ボナ・デアも……この一週間でマルコと面通しを済ませた他の神々のことは、何も書かれていないのです。おそらく今、我々は予言されていた未来とは『異なる時間軸』に存在しています……」
「サイト! そのまま待て! 今、オリジナルを持ってくる!」
慌ただしく席を立つ音、離れていく足音。聞き慣れた、旧本部庁舎の石壁の反響音。それが消えて三十秒後、再び近づく足音に、ベイカーは何とも言えない違和感を持った。
通話の相手――先代特務部隊長アーク・アル=マハは、上背も厚みもある筋肉質な大男だ。足音にも、言葉では表現しきれないどっしりとした重量感がある。
しかし、この足音は軽い。
せいぜい六十キロにも満たない、細身の人物の足音のように聞こえる。
(旧本部にいる中で、そんな体の軽い人間は……エリック先輩か? いや、しかしあの人は、今日は中央にいないはず……ほかにこんな足音の人間がいたかな……?)
足音の主は内線端末の前で立ち止まり、動かない。
本体から外れた受話器を見れば、何らかの通信が保留状態にされていることは分かるだろうが――。
(……誰だ? この番号はアル=マハ隊長への直通だぞ? あの部屋に、『偶然通りかかる人間』なんか存在しないはずなのに……)
その人物は受話器を手に取ることなく、そこで何かをしている。
『ザラザラ』と『ガリガリ』が混ざったような、何かが小刻みに引っ掛かるノイズ。
しばらく聞いていると、『ペラリ』という、紙をめくる音が聞こえた。
(何かをメモしている? いや、それにしてはノイズが途切れない。なんだ? なにかを筆記しているにしては、ペン先の動きがあまりにも早すぎるし……?)
絵や図面を描写する音とは根本的に異なる。やはり、文字を書く音には違いない。
ベイカーはここで、思い切って声を出した。
「お前は誰だ?」
内線端末の前の人物は、ピタリと手を停めた。
相手の出方を待つつもりで耳を澄ませていると、しばらくして、何かの筆記が再開される。
受話器を耳に当てたまま、ベイカーは首を傾げた。
(先ほどまでと、音が違うような……?)
そのときベイカーは、何気なく受話器を持ち替えた。ずっと右耳で聞いていたせいで、聞こえ方がおかしくなったのかと思ったのだが――。
「…………⁉」
聞こえている。
受話器は今、自分の左手の中。まだ、左耳に当ててはいない。
それでも音は聞こえている。
筆記音はこの部屋の中――自分の真後ろから聞こえてくる。
ごくりと唾を飲み、必死に呼吸を押さえる。噴出する冷や汗で、受話器を握る手が濡れていくのが分かった。内側から激しくノックする心臓は、このまま胸を突き破って飛び出して行ってしまいそうだった。
筆記音は止まらない。うなじに吐息を感じるほどの距離で、それは何かを書いている。そして時折、「うん、うん」と頷くような気配がある。
なぜかベイカーは、振り向くことも声を上げることも出来なくなっていた。
振り向いたら、なにか、とんでもないものを目撃してしまうような――そんな得体の知れない恐怖に身がすくみ、動けなくなっていた。
不気味な沈黙に囚われること、約一分。その沈黙を打ち破ったのはアル=マハだった。
「……イト? サイト? もしもーし! おい、サイト?」
受話器の向こうのアル=マハの声に、ベイカーは弾かれたように顔を上げる。
「は、はい! あの! アル=マハ隊長! い、今、ここに何かが……っ!」
「何か? いったいなんだ?」
「あ、いえ、その……なんだと聞かれると……えーと……」
アル=マハの声が聞こえたと同時に、背後に感じていた気配は消えている。
振り向いて確認しても、何もいない。
「またゴキブリでも出たのか? お前、虫一匹でえらく大騒ぎするからな。それよりサイト、お前の読み、当たったみたいだぞ。記述が変わっている」
「え?」
「六月十三日から先が、これまでとは明らかに異なる内容に書き換えられている」
「どのような内容ですか?」
「それが……」
アル=マハは、ためらいがちにその日記を読み上げる。
〈六月十三日、金曜日。
月の禊は邪気祓い。
洗い清めて心を濯ぐ。
月は姿を変えれども、月であるには変わりなし。
信じてその身を任せれば、どんな悪夢も祓われる。〉
まさかと思った。
あの強制シャワータイムは、オカマ副隊長のセクハラではなかったのか。
いろいろと強引に触られまくっていたのだが――。
「副隊長は、本当に考えがあって……」
「ああ……ツクヨミは敵対勢力になると思っていたが、この記述が正しければ、むしろこちら側の最重要戦力ということに……」
「え? あ、はい、そうですね。ハハハ……」
「ん? どうした? やっぱりその部屋、ゴキブリいるのか? お前、ゴキブリ出るとガチで発狂するからな。今から殺虫剤持ってってやろうか、お嬢ちゃん?」
「いえ結構です! 大丈夫! こっちにも『ゴキ殺しジェット・ハイパーデストロイEX』がありますから! グロスで!」
「百四十四本も買ったのか!」
「だって一匹で一缶終わるでしょう⁉」
「撒き過ぎだ! お前の反射神経なら叩いて潰せるだろうに!」
「無理です! 無理無理! それ絶対、ぜえええぇぇぇ……ったいに! 無理ですから!」
「ったく、たかが虫一匹で……『今夜は一緒に寝てください』とか言われたときには、本気でそっちの趣味かと思ったぞ……」
「奴が出現した部屋で寝るくらいなら、アル=マハ隊長に抱かれるほうが百倍マシです」
「いくら女顔でも、キンタマついてるのは要らん!」
「だから安心して逃げ込めるんです!」
ヘファイストスの『器』は完全なノンケなのに、どうして『中身』は無節操なド変態なのか。ベイカーとアル=マハは揃って溜息を吐き、いくつかのことを打ち合わせてから通話を切った。
ベイカーは受話器を戻すと、改めて室内を見回してみた。
誰もいない。
しかし先ほどまで、確かに誰かがいて、何かを書き記していた。
(……まさかとは思うが……あれが、『二階堂階二』なのか……?)
全身に鳥肌を立てながら、ベイカーはその部屋を後にする。
内線を切った瞬間、アル=マハは目の前の壁を殴りつけていた。
壁には、日記帳と同じ筆跡でこう書かれていた。
〈どうして君は、日本語が読めるのかな?
今、君は翻訳されていない原文を、そのまま読んでいるだろう?
つい七十年前まで日本軍にいたタケミカヅチならともかく……なぜ君が?
君は本当に、こちらの世界の人間か?〉
食いしばった歯の隙間から、呪いのようなつぶやきが漏れる。
「……人間? 人間だと? それを貴様が聞くのか……?」
まるでその声に答えるように、壁に書かれた文字は音もなく消えてゆく。
そして日記帳も、いつの間にか、アル=マハの手の中から消えていた。
「……クソ野郎が。貴様は何がしたいんだ、二階堂階二……」
書き換えられた日記の記述。先ほど読んだそれは、今日、この瞬間までで終わっていた。
最後の日記は、神も人間も、世界の今後も関係ない。『ニカイドウカイジ』という人物の個人的な気持ちと、アル=マハたちへのメッセージが綴られていた。
〈六月二十日、金曜日。
快晴。なんて見事な日本晴れ、と言いたいところだけれど、ここは遠い異国の地。ここでの僕は、ただの異邦人だ。この国の言葉で、この空を何と言い表すのかを知らない。
ずいぶん長居をしたけれど、そろそろ日本が恋しくなった。
あの頃買ったレコードは、まだ聴けるだろうか。
僕は、吉田拓郎の『親切』という曲が大好きなんだ。
アーク君、もしも地球に来たときには、ぜひあの曲を聴いてくれ。
気に入ってもらえるかは分からないけれど、なかなか面白い歌詞なんだよ。
サイト君、どうもありがとう。
君を見ていたら、僕にもできる気がしてきたよ。
あの頃変えられなかった世界は、まだ、変えられるのかもしれない。
本当にありがとう。
そしてさようなら。
僕も、僕の戦場で、僕の為すべきことをしよう。
もしもう一度会うことがあれば、その日の僕は予言者なんかじゃない。
革命戦士かテロリスト、もしくはただの大馬鹿者だ。
そして最後に、マルコ君。
君の未来は、僕の『眼』には映らない。
それがどういう意味を持つことなのか、僕にはわからないよ。
けれどもきっと、悪いことではないと思うんだ。
だから君は、君の、一番進みたい道を進めばいいと思う。
僕なんかが祈らなくたって、君にはカミサマが二人もついているけれど。
それでも祈らせてほしい。
君の往く先に、幸多からんことを。〉
消えてしまった日記帳の文面を、何度も何度も思い返す。
アル=マハ、ベイカー、マルコ。この三人だけが名指しで記されている。
それも最後の、マルコへのメッセージは――。
「……二階堂にも読めない未来、か……。とすると、まさか……」
マルコ・ファレルには、何か特別な『能力』が存在するのではないか。アル=マハがそう考えるのは、自然な流れであった。
「……直接、確かめてみるか……」
呟きながら部屋を出て行くアル=マハ。
彼は気が付かなかった。自分が部屋を出て行く瞬間、先ほどの壁に、新たなメッセージが浮かび上がっていたことに。
〈そうそう、まだ思い出したことがありました。
お別れの前に、最後の親切としてお知らせしておきます。
ゴキブリが発生しているのはこの部屋のほうです。
一昨日から今朝にかけて、本棚の裏で卵三個、八十七匹が孵化してしまいました。
嗚呼、なんて尊い命なんだろう! 感動しすぎて鳥肌が止まらない!
その辺の事情も踏まえて、僕は実家に帰らせていただきます!
ゴキブリの皆さん、お誕生日、おめでとうございます!〉
数時間後、アル=マハがそのメッセージを発見し、絶叫しながら殺虫剤を撒いたことは言うまでもない。