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そらのそこのくに せかいのおわり 〈Vol,04 / Chapter 07〉

 現実空間へと戻ったグレナシンは、ありえないモノを目撃していた。

「ちょっと……ちょっとちょっと、ちょっとぉ~ん! 何なのよあれ!」

 月よりも、星よりも、夜空に存在する何よりも明るく輝くマリンブルーの光。

 流星ではない。

 それはスフィアシティのはるか上空を、くるくると軽やかに飛び回っている。

 あまりの速度と眩しさに残像が尾を引き、まるで自由に跳ね回る彗星のようだ。

「え……副隊長、あれ、ひょっとして青龍なんじゃ……」

「嘘よ~! アタシ……というよりは、ツクヨミなんだけどさ。ずっと昔に会ったとき、もっとバカでかかったわよ? 青龍にしてはちっちゃすぎよぉ~!」

「でも青いし……あ! マルコ!」

 人気のない路地に止めた馬車に、マルコが駆け寄ってきた。

 その腕には、なぜか玄武が抱かれている。

「おいマルコ! お前どこにいたんだよ! 心配したんだぜ⁉」

「あ、ご、御心配頂きましてありがとうございます! あの、申し訳ありませんロドニーさん! 少し副隊長とお話しさせてください!」

「あら、なに? アタシをご指名?」

「はい! あの、副隊長! 玄武から、副隊長がツクヨミという名の神の器であると伺いました! 教えてください! 私はいったい、どうしたらよいのでしょう⁉ 神に名前を付けて、卵を孵化させてしまったのですが!」

「はあぁ~っ?」

 オカマ副隊長のどすの利いた「はぁ?」は、特務部隊の誰もがひるむ最強の威嚇である。しかし今のマルコは、ひるむどころではない精神状態にあった。ひどく焦燥した様子で続ける。

「卵の中にいたときは会話が成立していたのですが、生まれてみたら、本当にただの赤ん坊のようになっていて……急に泣き出したと思ったら、ああして飛び始めて……」

「え、あれ、ぐずってるの⁉ んも~、そういう時はちゃんと名前呼びながら抱っこしてあやしてあげなきゃ駄目よぉ~! ほら! 青龍ちゃ~ん! 下りてらっしゃ~い!」

「あ、いえ、副隊長! 彼女はもう青龍ではなく、『サラ』という名前で……」

「サラ? 彼女? やだ! ちょっとマルちゃん! アンタそれどういう意味でつけたのよ⁉」

「意味ですか? それは、これからは過去にとらわれず、真っ新な道を歩んでほしいと思い『サラ』と……」

「まっさら!」

 グレナシンは――グレナシンの中にいるツクヨミは、驚愕のあまり目と口を限界まで開けて絶叫した。

「いやあああぁぁぁーっ! アンタなんてことすんのよ! それって完全リセットじゃない! これまでの記憶消しちゃったの⁉ それに……彼女⁉ 彼女ですって⁉ 性別までリセットしちゃったの⁉」

「え? あの、でも、彼女は、卵の中でも女性の声でしたし……」

「ごく身近にいる性別不詳男子のこと忘れてんじゃないわよ! うちの隊長と同じよ! 青龍は、ものすごく線が細くて美少女顔の『男神』なのよ⁉」

「え……えええええぇぇぇぇぇーっ⁉ 男神って……あの声……あの声で、男性っ⁉」

 マルコとグレナシンは同時に空を見た。

 町中の人がサラに気付いて、建物の外に出てきているのだろう。表通りのほうから、なんだなんだと騒ぎ立てる人の声が聞こえてくる。

 おとなしく黙っていたロドニーが――ロドニーの中にいるオオカミナオシが、率直な意見を述べる。

「ただの人間の言霊では、そこに込められる魔力はたかがしれたものだ。神の性別を完全に書き換えることは不可能だろう。おそらく青龍……いや、サラは……」

 マルコの腕の中の玄武も、短いカメ足をばたつかせながら発言する。

「あのね! サラちゃん、両方だよ! 男の子で女の子なの! ボクとおんなじになったんだよ! 良かった! ボク、弟も妹も両方欲しかったんだぁ♪」

「え? あの、同じ……とは?」

「ボクね、もともと女の子なの。でもマルコ、ボクのこと男の子だと思って名前呼んだでしょ? だからね、ボク、実体化するときに性別が両方になっちゃったの!」

「え……わ、私が原因ですかっ⁉ そんな! だって! 玄武、ずっと自分のことを『ボク』って……」

「あらやだ、アタシも男の子だと思ってたわ……。ちょっとワンコ! アンタ知ってたの⁉」

「ワンコではない。我はオオカミだ」

「細かいこと気にしてんじゃないわよ! 知ってたんでしょ⁉ なんで言ってくれなかったのよーっ!」

「ただの性別である。気にするほどの問題ではなかろう」

「そこは気にしねえのかよ犬畜生! ああんっ! もう! これだからはじめから性別の無い神は……まあいいわ! フタナリちゃんが姉妹で揃うなんて美味しすぎる状況、望んだって手に入らない生活環境よ! 見てなさい! アタシがママとして、二人を立派なカミサマに育て上げて見せるわ!」

「ふ、副隊長がママ⁉ ママの定義とは、一体……? というか、私が孵化させたのだから、もしや私がパパということに……? パパもママも男性の場合、法的に……いや、そもそもそれで、養子登録申請は受理されるのだろうか……?」

 自身も実の母以外に養育された身である。マルコの心中は複雑すぎて、自分でも何について悩めばよいのか、頭の整理が追い付かなかった。

「おい、それよりあれ、早く何とかしねえとヤベエんじゃねえか⁉」

 体の制御権がロドニーに戻ったらしい。彼はいつも通りの口調と動作で、狼耳をピコピコとそばだてている。

 グレナシンは馬車の通信装置を操作しながら、ロドニーに声を掛けた。

「ロドニーちゃ~ん? 表通りの様子、どんな感じか聞こえるかしら? この無線調子悪いみたいで、全然音声拾えないのよ~。おっかしいわね~。最寄り支部の交通情報くらい入るはずなのに……」

「え~と……あー、表通りのほう、もう相当な騒ぎになってます。個人端末で新聞社とかに連絡してるやつもいますね……」

「うっわ、最悪。ド田舎と違って、けっこうみんな携帯端末持ってんのよね~……」

「あっ! ヤバい! 副隊長! すぐに移動しましょう! 『そこの裏路地に騎士団の馬車がいる』って話してるやつがいます!」

「いやん! バレちゃった⁉ マルちゃん乗って! ずらかるわよ!」

「え、あの、ですがサラが……」

「別の場所に移動してから呼べばいいでしょ! ほら早く……きゃあっ⁉」

 地面が揺れた。

 マルコは反射的に《防御結界》を張る。

 この地震のような不気味な振動は、玄武が丘の下から現れたときとそっくりだった。

「副隊長! 大丈夫ですか⁉」

「ん、大丈夫! ちょっとよろけただけよ! ってゆーかもー、いきなり何よー?」

「この揺れ、かなり遠いところで揺れてる感じだよな……?」

「ええ、近くではありませんね」

「あらやだこの気配……白虎じゃない?」

「白虎⁉ それじゃ、まさか隊長がやられたなんてことは……」

「いいえ。そっちの白虎じゃないわ。だって、あれは精神体だけだもの。こんな地震が発生するくらいだから……」

 グレナシンが言いかけたとき、無線機から緊急指令が流れてきた。


〈非常事態発生! 非常事態発生!

 こちらはリバーフロント支部、総合指令室!

 リバーフロントエリア内の全騎士団員に告ぐ!

 トリム川競艇場付近に巨大なモンスターが出現した!

 総員、直ちに住民の避難誘導に当たれ!

 現在安全が確認されている避難場所はウェスト駅北口広場。

 イーストグラウンド。

 リバーフロント高校。

 以上三か所のみである!

 繰り返す!

 非常事態発生! 非常事態発生――〉


 トリム川競艇場と聞いた瞬間に、グレナシンは馬車を発進させていた。

 以前発見した、廃人状態の白虎の体。それはリバーフロント区とピジョンズキャニオン区の境を流れるトリム川の直下に埋まっていたのだ。

 マルコとロドニーも、場所を聞いただけで顔を強張らせていた。

 朝から一度も弱まることなく、ずっと降り続いた豪雨。雨そのものは、サラの孵化と同時に綺麗さっぱり上がってしまった。だがこれまでに降った雨は、すべてトリム川に流れ込んでいるはずだ。

 グレナシンはツクヨミの『視力』で、人のいない小道を的確に選んで馬車を進める。恐ろしい速度で狭い路地を暴走しているが、さすがに今は、マルコも交通法を口にすることはなかった。

 三人の予想が正しければ、競艇場付近は今、それどころではない大惨事に見舞われているはずである。




 そこにあるのは、轟音と濁流だった。何が破壊されているのかもわからない、何かの崩れ落ちる音。月明りだけでは照らしきれない、圧倒的な混沌。

 憎悪に染まった漆黒の獣は、トリム川の川底を突き破り、地上に姿を現した。

 その衝撃で地が震えた。

 白虎が抜け出た巨大な穴へと水が流れ込み、押し寄せた水がぶつかり合う。反動で津波のような返し波が発生し、堤防に直撃。

 元々、雨季の長雨でこのあたりの地盤も緩んでいた。そこへ瞬間的に、想定外の巨大な圧力が加えられたのだ。堤防は決壊し、危険水位まで上昇していた川の水は一気に氾濫。付近の住宅を一瞬で呑み込み、あらゆる構造物を薙ぎ払う。

 現在の時刻、深夜零時。ウェスト地区のような駅前繁華街とは異なり、トリム川周辺は閑静な住宅街。もうどの家の住人も、明かりを消して就寝している時刻である。

 浸水水位、少なくとも三メートル以上。

 住民の生存は絶望的だった。

「……何よ、これ……」

 決壊箇所の付近、まだ無事な堤防の上で、グレナシンはつぶやく。

「なんなのよ……なんで、こんな……」

 視線の先にあるのは、濁流にのまれて明かりの消えた、広大な『闇』の水面である。その下に何百人が沈んでいるのか、想像もつかない。

 マルコも、ロドニーも、あまりの光景に言葉が出ない。

 眠れる神が目を覚まし、地上に這い出し身震いした。それだけでこの有り様だ。たったそれだけの行動で、街が一つ消えてしまった。

 その白虎は今、空中で何かと戦っている。憎悪に染まった体は一点の曇りもない漆黒。夜空の闇に同化して、その姿を視認することすら難しい。

 しかしその白虎の付近で、時折、紫電の光が奔る。それを見て三人は気付いた。

 戦っているのはベイカーだ。

「ロドニー! アンタはオオカミこき使って、堤防とかその辺を修復しときなさい! マルちゃん! アンタたしか、《緊縛》の鎖を自在に操れたわよね⁉ アタシの『視力』なら、水底に沈んだ人間の場所も正確に分かるわ! まだ助かる人もいるかもしれない! 全員引っ張り上げるわよ!」

「はい!」

 三人はそれぞれ、持てる力を最大限活かせる形で対応に当たった。




 一方ベイカーは、地上の人間の命など気にかけていなかった。はじめからそのつもりはないし、あったとしても、そんな余裕はない。

 彼の中にいるのは軍神タケミカヅチ。戦う者を守護する神だ。戦士でなく、自分の信者でもない人間の命など、懸念事項に含まれない。つまりこの街の住民を守ろうと思ったら、ベイカーは自分一人の力で、人間としての力が及ぶ範囲内でしか活動できないことになる。

 そんな状態で、白虎と戦闘しつつ人命を救うことは出来ない。今彼に可能なことは、可及的速やかに白虎を無力化させ、これ以上の被害の拡大を食い止めることのみである。

 ベイカーは獣人化し、蝙蝠のような翼で空を飛んでいる。

 四方八方に撃ち出される白虎の閃光。精神世界では純白だったそれが、今は暗黒の波動として発射される。その攻撃をひらりひらりと躱し、ベイカーも、隙を見ては雷撃を放っているのだが――。

「……クソ。最期の最期で、闇堕ちするとはな……」

 白虎が闇堕ちする前に消滅させてやろうと思っていたのに、最期の一瞬で『負の感情』に心と体を支配されてしまったらしい。

 生きる目的を見失い、思い悩む。それは人間にとってはよくあることで、気の持ちよう次第でいくらでも立ち直れることでもある。しかし、神にとっては違う。神とはこの世のシステムそのもの。神が神であり続けるためには、特定の『役割』が必要なのだ。

 例えばオオカミナオシは、世界の不具合を修正・削除している。

 デカラビアは神のいない土地に住み着き、そこを守護する者となった。

 玄武はマルコにつき、彼個人に加護を与えると決めた。

 ならば白虎には何ができるか。

 答えは一つ。何もできないのだ。

 白虎は世界を創造した神の一人。まだ何も存在しない原始の海に生命を生み出した、『命を司る神』である。その能力はあまりに原始的過ぎて、今更、何に応用することも出来ない。玄武のように誰か一人を守ろうにも、白虎の力は大きすぎる。守護対象の人間を守るつもりで、逆に、己の強大な魔力で押しつぶしてしまうかもしれない。

 自分には何もできないと自覚していたからこそ、彼はああして、青龍の卵を守護し続けていたのだ。

 だがついに、その役割すら失う日が来た。

 彼は途方に暮れていた。

 あの状態の神はもう手遅れだ。タケミカヅチはこれまでに、何度もその光景を見てきた。

 守護すると決めた人々が、事故で、災害で、戦争で、あっけなく死んでしまったとき。

 神同士の争いで、仲間たちが次々と食われていったとき。

 何もできない無力感から、神々は深い闇へと堕ちていった。

 そして闇に堕ちた神がいるところに、オオカミナオシは現れる。

 神が神を殺す、最も忌むべき大罪。その大罪を、創造された瞬間から背負わされた者――それがオオカミナオシだ。タケミカヅチのように、己の意思で『同族食い』を始めた者とは違う。オオカミナオシは与えられた役割に従い、『闇堕ち』ばかりを食らってきた。

 腐肉を与えられた哀れな犬。だがその犬は、己が哀れであることを知らない。他の獲物を食らったことが無ければ、それがどんなに不味いものであっても、不味いということにすら気付けないのだから。

 自覚することなく溜め込まれていく『闇堕ち』の毒。それが限界に達したときが、オオカミナオシの最期である。

(……自覚させるものか。絶対に、それだけはさせない。ロドニーが……自分の体を使ったオオカミナオシが、これまでに何を食らってきたか……自分の力の源が何か、それを知ったら、あいつは確実に……)

 親友の心が闇に堕ち、負の感情に支配されていく。そんな姿は、想像しただけで涙が溢れる。それだけは、絶対に阻止せねばならなかった。

「魔剣《麒麟》、《燭陰》、発動!」

 右手に紫電の雷剣、左手にオーロラの鞭を持ち、ベイカーは真正面から白虎に挑む。

 白虎が放つ暗黒の波動。避けることなく受け止めたそれは、一撃で《燭陰》を闇に押し包んだ。

「く……っ!」

 左手を振るい、まとわりつく闇を祓う。そのままオーロラの鞭をしならせて白虎に叩きつけるが、手ごたえはイマイチだ。

 間合いを詰めて雷剣を突き出すも、突き刺した瞬間の感触がおかしい。『ズブリ』という、肉に刺さる感触ではないのだ。肉よりもっと柔らかい、ペースト状の何かに『ねっとり』と包まれてしまうような――気色の悪い感覚に、ベイカーは大きく飛びのく。

「腐っているのか……? クソ! 堕ちる以前に、体はもうとっくに……!」

 あまりに長い『目的なき生存』。その間に、彼の肉体は神としてのあるべき姿を失い、醜く腐った肉塊となり果てていた。

 光が足りない。

 ここまで大きな闇と死、虚無の存在と化した神を祓うには、雷とオーロラだけでは全く足りない。もっと大きな、全天を照らす圧倒的な光の力が必要なのだが――。

「誰か……誰か他にいないのか⁉ ペケレチュプ以外の、使い物になる太陽神は……」

 勢力争いに敗れた太陽神たちは、誰もが見せしめのように首を落とされ、その血は新たな神々の糧とされた。ラー、アモン、アポローン、ソル、ミトラス、スーリヤ、ヘーリオス、インティ、アトゥム、シャマシュ――彼らは皆、守護する人間の死、国家の滅亡、文明の消失とともに非業の死を迎えた。存命中の太陽神は、もう数えるほどしかいない。

 しかし地球の東端、アマテラスが覇権を握る大和の国だけは事情が異なる。狭い国土に三柱の太陽神が仲良く同居し、気が向いたときに交代する『ゆるふわタイムシフト』なるものが組まれている。

 なぜそのような事態に陥ったかと言えば、ペケレチュプ、ティーダ、アマテラスの三柱が揃いも揃って『行動力のある天然系パーティーピープル』だったのだ。

 初対面で意気投合し、翌日からルームシェアを開始。他の神の意見などまったく聞かず、勝手に交代制にしてしまった。

 現在はアマテラスとティーダが地球に残り、ペケレチュプはこちらの世界でバカンス中。

 そう、バカンス中なのだ。今頃どこを観光中かも分からないし、もし居場所が分かったとしても、あの天真爛漫すぎる神にこの危機を理解させ、協力させる手段があるとも思えなかった。

 圧倒的な『闇』の塊を雷でチマチマと切り崩しながら、タケミカヅチは心の底から嘆き、喚き散らす。

「神って連中は、どうしてどいつもこいつも頭の中身がゆるふわなんだ! 一般常識と生活力が無さすぎる! こんなんだから文明が滅ぶんじゃないか! おいコラ! このクソ白虎! 再就職先くらい自力で見つけたらどうなんだ⁉ ああっ⁉」

 ブチ切れながらの超高出力電気ショック。既に腐敗しているとはいえ、肉とは有機物の集合体である。通電により分子レベルで結合が破壊され、ボロボロと崩れ落ちていく。

 だが、それも体表部分のみ。決定的なダメージを与えるには至らない。

 お返しとばかりに撃ち込まれる暗黒の波動を、麒麟の雷剣で叩き落とすのだが――。

「うっ……」

 一発捌きそこなった。

 左翼に被弾、衝撃で骨折。ベイカーはバランスを崩す。

 そこに撃ち込まれる波動。片翼だけでは避けることも出来ない。

「しま……っ!」

 重力に身を任せたフリーフォール状態。咄嗟に防御魔法を使おうとしたが、間に合わなかった。

 全身に浴びる闇。

 その瞬間、ベイカーの意識は、得体の知れない混沌の底に引き込まれていた。




 ほんの一瞬のブラックアウト。ハッとして目を開けたときには、ベイカーは『いつもの夢』に落ちていた。

 高いアーチ天井、白大理石の床。薔薇窓から差し込む、色とりどりの光。

 自分が小人にでもなったかのように錯覚する、広大すぎる屋内空間。

 神殿のように荘厳で、教会のように静謐で、それなのにどこにも、なんの偶像もモニュメントもない。

 これは青龍の精神世界と同種のもの。ただし、創り出しているのは神ではない。ここはベイカー自身のイメージの世界なのだ。


 いつもとまったく同じ夢。

 だからこそわかる。自分はここから逃げねばならない。

 全力で駆けだし、出口を目指す。

 しかし、やはりいつも通りだ。

 足音もなく、それは自分の背後に迫る。


「創造主に、見捨てられたんだろう?」


 いつもと同じ問い。

 自分はそれに答えない。

 何と答えたところで、相手の反応は変わらない。


「可愛がってやるよ。これからは、俺がお前のご主人様だ」


 大きな腕に頭を鷲掴みにされる。

 強引に引き倒され、背中から床に叩きつけられ――抵抗する間もなく、衣服が剥ぎ取られていく。

 自分に馬乗りになる、醜悪な顔の大男。恐ろしさに声すら上げられず、ただ、されるがままに犯される。

 視界に映る自分の手足は、今よりずっとか細い少年のもの。抵抗したところで、こんな大男にはかなわない。どんなにひどいことをされても、自分の身を守る力なんてない。誰も助けてくれないし、何も守ってくれない。

 自分を守護するはずのタケミカヅチは、この夢の中には登場しない。

 そう、この夢は、自分がまだタケミカヅチと出会う前の記憶。タケミカヅチの『器』として覚醒することになった、きっかけの出来事。

 夜ごと振るわれる、理不尽な暴力。それは誰に相談することも憚られる、『夢の中でのレイプ被害』である。


 精神疾患と思われるだろうか。

 それとも、欲求不満で妙な妄想を始めたと言われるだろうか。

 男が男に犯されたなんて、変態扱いされるのではないだろうか。


 思春期の自分は、誰にも、何も相談できないまま一人で苦しんだ。

 しかし、それも初めのうちだけだ。同じ夢ばかり見るうちに、色々と冷静になってきた。度胸がついたのか、心が擦れてしまったのか。恐怖は次第に薄れていって、心を占める感情は、嫌悪や軽蔑に挿げ変わっていった。

 そしてついに吹っ切れた。

 細かい問題はどうでもよくなり、ただ、文句を言ってやりたくなった。

 あるとき夢の中で、思い切って、これまで感じていたことをぶちまけてみた。

「おい貴様、もういい加減飽きたから言ってやる。セリフがワンパターンすぎて芸が無い。前戯がマンネリ化していてつまらん。揺れる腹肉が無様。ヤッてる最中の顔がキモい。汗臭い風呂入れ。体格のわりに細いし短い。早い。下手糞。アヘ顔笑える。鼻毛出てる。というかそもそも、腕力で子供を押し倒して偉そうにしてるなんて、大人として恥ずかしくないのか?」

 そのときの動揺しきった男の顔は、今もよく覚えている。

 子供に意見されるとは思ってもなかったらしい。男は情けなくしおれた一物を隠しながら、片足を引きずるように走り去っていった。

「……そうだ……そう……それから、俺は出口を探して……」

 ここはベイカーの記憶の世界。

 あの日見た光景のままに、片足を引きずった男が逃げていく。

 自分は男とは反対側、どこまでも続く廊下を、トボトボと歩いて行って――。

「……やっぱりいた……」

 柱の陰に、自分と同じような身なりの青年が倒れていた。

 引きちぎられた衣服で身を覆い、力なく横たわったまま、肩を震わせている。

 自分はそのとき、青年に声を掛けようとして、できなかった。

 彼が何をされたか、分かっていたから。

 そのときの自分は、彼に気付かなかったふりをして、先へ先へと歩き続けた。そしてこの建物の出口で、自分に瓜二つのタケミカヅチと出会ったのだ。そこでタケミカヅチから、あれは刀鍛冶の神で、地球からこちら側に送られたばかりの神を夢に連れ込んでは、己に従うよう『恐怖』を植え付けるのだと聞かされて――。

「……ああ、そうか……」

 白虎の『闇』を浴びて、自分は今、自身の心の最も触れたくない部分を見ているのだろう。

 つまりこれは、自分の心の傷だ。

「……しかし……いや、まさか……?」

 ベイカーはこの世界のことを理解している。すべては夢の中で行われたこと。肉体的には何もされていないし、どんな辱めも受けていない。この世界で起こった何もかもは、ただの幻覚のようなものなのだ。

 ベイカーは自分の意思の力で、あの変態刀鍛冶を追い払った。

 男に手籠めにされた事実はなく、そういう幻影を見せられただけ。

 それが理解できていて、それでもなお、この夢が『心の傷』になるのだとしたら――。

「……貴方は誰ですか?」

 声すらかけずに素通りした、彼のこと。

 それだけが、今でも気がかりということなのだろう。

「……ここがあの『夢の世界』であるとしたら……少なくとも、今俺が見ているこの景色は、俺自身が作り出した記憶の世界であるはずです。でも……」

 ベイカーは、床に伏して泣き続ける青年に問いかける。

「貴方からは、今、確かにそこにいる気配と魔力を感じます。貴方は、誰ですか? なぜ、俺の夢の中にいるのです?」

 青年は答えない。代わりに聞こえてきたのは嗚咽だ。それまで声を殺して泣いていた彼は、堰を切ったように、声をあげて泣き始めた。

 何を尋ねようにも、彼は泣いているばかり。

 それで気づく。

 白虎の放った『闇』に同調したのは自分ではない。自分の夢の中にいる、この青年なのだ。

「……貴方の名前は……?」

 ベイカーの問いに、青年は『心の声』で答える。

「……ミカハヤヒ? ……そうか。貴方は……」

 刀神ミカハヤヒ。タケミカヅチと同じく、異国の神との争いに敗北した神だ。亡骸が見つからなかったため、他の神に食われたものと思われていたが――。

「……俺より先に、こちらに送られていたのか……?」

 異界に送られ、右も左も分からぬうちに夢の世界に囚われ――以来ずっと、抜け出せずにいた。だがベイカーが同じ夢に囚われ、その呪縛を解いたことで状況が変わった。ベイカーに細い短い早いキモいだのと罵られ、あの刀鍛冶の神は、夢の世界に現れなくなったのだ。

 けれどもミカハヤヒは、心も体も、すっかり弱り切っていた。この世界からの自力脱出は不可能。それにこんな無様な格好では、どこに出て行くことも出来ない。引き裂かれたボロボロの衣一枚を握り締めて、誰かが助けにきてくれるまで、じっと待ち続けるしかなく――そのような内容を、ミカハヤヒは心の声で伝えてきた。

「……え? いや、だって、神だろう? レイプされた幻覚を見せられたくらいで、そんな大げさな……」

 と言っている最中に、タケミカヅチから若干の訂正が入る。


 お前は精神体だが、ミカハヤヒは生身だぞ、と。


 ベイカーは、それはそれは面倒臭そうな表情になった。

「あー……えーと……犯罪被害者支援プログラムに、メンタルセラピーもあるが……神も、そういうので社会復帰できるのかな?」

 心の中で、「それはどうだろう?」というタケミカヅチの声が聞こえる。

「ならば一体どうしろというのだ⁉ 外に連れ出すくらいなら喜んで引き受けるが、それ以上は知らんぞ!」

 投げやりに言ったその言葉に、ミカハヤヒは「それでいい」と答えた。

 そしてそれと同時に、あちこちの柱の陰から声が上がった。

「お願いします、どうか、私も……」

「外に……外に、もう一度出られるの……?」

「助けて……お願い、私も助けて……」

 ベイカーは、油の切れた機械のようにギギギと振り向く。

 延々と続く柱の陰から、恐る恐る顔をのぞかせる神々。美しい女神も、目を見張るような美男神も、半神半獣の神的存在もいた。誰もが性的暴行を受けたその姿のまま、すがるような目でこちらを見ている。

 その数、パッと見ただけで十人以上。この時ばかりは、ベイカーは副隊長の口癖を真似せざるを得なかった。

「はぁ?」

 リアクションがキレ気味になってしまった最大の理由は、被害者たちの顔立ちである。誰一人として、並み以下がいない。超が付くほどの美男美女ばかりが被害に遭っていたらしい。

「……ミカハヤヒ? いまさらだが、ちょっと、顔を見せてもらえないか?」

 ずっと顔を隠し続けていたミカハヤヒは、そう言われておどおどと顔を上げた。

 イケメンである。

 泣きはらした後でコンディションが最悪な状態であるにもかかわらず、はっきりと「イケメンである」と断言できる顔だった。

「うん! なるほど! よくわかった! よし! 全員外に連れて行こう! ただし、一つ条件がある! 今、外では闇落ちした白虎が大暴れしている。俺はそれと戦わねばならない。全員、俺に協力してくれ!」

 『役割』が無ければ神は堕ちてしまう。それは彼ら自身も理解していたのだろう。彼らは一も二もなく快諾した。




 一瞬のブラックアウトの後、ハッとしたように目を覚ます。

 精神世界での会話は、実世界ではわずか一秒足らずの出来事である。ベイカーは左翼をやられ、真っ逆さまに落ちてゆく途中だった。

「魔剣ニケ、魔剣フォルトゥーナ発動!」

 翼の代わりに、勝利の女神の緋色の羽根を。

 足場の代わりに、運命の女神の歯車を。

 たった今得たばかりの能力を用いて、ベイカーは空中で体勢を立て直す。そして無数に出現した歯車を駆け上がり、白虎に迫る。

「魔剣カリスト!」

 ベイカーの手に純白の剣が現れる。

 光でできたその剣は、誰の心も容易く奪う、世界で最も美しい精霊の化身である。

「はっ!」

 光の剣を振り抜くと、白虎は唐突に動きを止めた。

 カリストは心を奪う。彼女の能力は『誘惑』などという生易しいものではなく、文字通り『体から心を奪い取る』ものなのだ。

 今の白虎は肉体のみ。精神体は既にない。しかし、その精神体が最後に掛けた呪い、『タケミカヅチを殺す』という、強烈な殺意によって突き動かされている。

 その原動力を奪い取られた白虎は、もはや自らの意思で動くことはできなかった。

 墜落してゆく白虎の体。

 全長数十メートルにも及ぶ巨大な『腐乱死体』は、落下の衝撃で砕けた。

 辺り一面に飛び散る大量の肉片、腐汁、どす黒い闇の断片。その間をすり抜けるように、ニケの翼が航跡を描く。

「魔剣ルキナ発動!」

 コールしたのは出生と祝福の女神の名前だった。ベイカーが通ったあとには、柔らかな黄金色の光が振り撒かれていく。

 蛍のように舞う大量の光は、「それっ!」とばかりに闇へと取りつく。死と堕天の象徴である『闇』を、生と祝福の『光』で中和しているのだ。

 闇の断片は次々と消滅していく。だが、すべてを消すにはまだ足らない。ルキナらはこれまで、長期に及ぶ監禁生活を強いられていた。ニケも、フォルトゥーナも、カリストも、それぞれ神としての『光』を放ってはいる。しかし、いかんせん弱りきった状態。十全な状態での能力発動には遠く及ばなかった。

「光が足りない! 他に『光』を放てる者は⁉」

 内に取り込んだ神々に尋ねるが、答える者はいない。ニケとフォルトゥーナ以外、もともと戦いに不向きな神ばかりだったようだ。

 飛び散った肉片から噴水のように湧き出る闇。それをヒラヒラと躱しながら、ベイカーは紫電の閃光を放ち続ける。

「おい! 本当に誰も戦えないのか⁉」

 ルキナの光は残り少ない。ニケの翼も、徐々に羽根先から壊れ始めている。足場にしているフォルトゥーナの歯車も、あちこち欠けて崩れていた。

 闇はなおも、無尽蔵に湧き出てくる。

 神々の目には、闇に触れた地面が――そこに在る草や小さな生き物たちが、次々と死んでいくのが見えていた。早くこの闇を消さなければ、このあたり一帯が草一本生えない不毛の大地になってしまう。

「クソ! 誰でもいい! 戦えなくても何でもいいから、まだ出てきていないヤツ! ダメ元でもいいから、とりあえず出てこい! 何もないよりはマシだ!」

 捨て鉢な発言だが、一応はその通りである。ゼロよりはイチのほうがマシに決まっている。

 おずおずと名乗り出た神々の名を、ベイカーはまとめてコールする。

「ボナ・デア! サマナス! ユヴェントゥス! リベルタス! コンコルディア! パークス! 魔剣発動!」

 はじめから順に、豊穣と癒しの女神、静電気の精霊、青春の女神、自由の女神、婚姻の女神、平和と秩序の女神である。誰一人としてまともに戦える能力を持ち合わせていない。

 神らしく神聖な光は出現したが、やはり、たいした浄化作用は持ち合わせていなかったようだ。すぐに闇に呑まれて消えてしまった。

「おい! あと三人いるだろう⁉ ミカハヤヒと、二枚目男と、半神半獣! お前らも手伝え!」

 名指しされてようやく重い腰を上げた三人だが、ベイカーは、この三人を魔剣として実体化させて気付いた。


 これはもともと、タケミカヅチと同じ国にいた神である。


「ミカ! ヒハヤ! トリノ! お前らどうして最初から出てこなかった⁉」

 ミカハヤヒとヒハヤヒは、タケミカヅチと同時に生まれた三つ子の兄弟。完全に同一の属性を持つ神々である。両手に一振りずつ構えた剣は、タケミカヅチと同調して、ベイカーの能力を数倍に高めている。

 そしてトリノと呼ばれた半神半獣。鳥と四つ足の獣を足して割らずに、さらに人間の上半身をくっつけてしまったような謎の生き物。この神の正式な名は鳥之石楠船(トリノイワクスブネ)。あちらの世界にいたころ、日常的にタケミカヅチらの送迎役を務めていた神である。

「タケミカヅチ! なぜ先にこいつらを呼ばない!」

 激怒しながら雷撃を放ちまくるベイカーに、頭の中のタケミカヅチが言い訳する。

「いや、その、だって……三つ子のお兄ちゃん二人がオカマ掘られてマジ泣きしてるのに、お前らも戦えとか……言える? 言えないよね? さすがにお前でも、その辺は察してくれるよね……?」

「神のケツ穴の事情など俺が知るかこのヘボ兄弟! あんな短小捻じ込まれたくらいでいちいちグダグダぬかすな! いいから戦え! 戦って死ね! 貴様らそれでも軍神か! 極太ディルド突っ込んで記念撮影してやろうかっ⁉」

「鬼! 悪魔! この人でなしっ!」

「ふんっ! 神だか何だかしらんが、人間の本気を舐めるなよ! 来い! トリノ!」

 トリノイワクスブネが牽く空飛ぶ戦車、『天鳥船』にひらりと飛び乗り、ベイカーは天高く駆け上る。飛び散った肉片が一望できる高度に到達すると、自身の持つ最強の攻撃魔法、《雷陣・死式》を放った。


 直径百メートルの紫電の円陣。

 その内部は超高圧電流の流れる、極彩色の地獄である。


 両手のミカハヤヒ、ヒハヤヒによって増幅されたエネルギーは、『神聖な光』と呼ぶには強烈すぎた。毒々しい紫電の刃は、肉片から湧き出る闇を消し去り、夜の闇すらも切り裂いていく。

 小さな断片を一通り消し去ったところで、ベイカーは天鳥船の向きを変えた。

 駆け出す戦車は真下へ――未だ原形を留める、白虎の心臓へと向かう。

「ニケ! フォルトゥーナ! みんなも、あと少しだけ力を貸してくれ!」

 勝利の女神の緋色の翼は、ジェットエンジンの如く戦車を加速させた。

 運命の女神の歯車は他の神々の能力を結び付け、一つの大きな『光』に変える。

 巨大な光の塊となったベイカーは、彗星の如く一直線に、白虎の心臓へと特攻し――。




 世界は一瞬、真昼のような明るさに包まれた。




 光が収束したそのあとには、巨大なクレーターが出来上がっていた。

 クレーターの中心で仰向けにひっくり返っているのは半裸の特務部隊長ただ一人。その他の神々は、実体のない状態で、心配そうにベイカーを覗き込んでいる。

「……大丈夫かしら。可能な限りは、盾を張ってあげたのだけれど……」

 正しき行いの青年を守るという、青春の女神ユヴェントゥス。その隣で必死に手をかざしているのは豊穣と癒しの女神ボナ・デアである。

「体の怪我は治してあげられるけど……人間の体で十四柱もの神を受け入れるなんて、いくら何でも無茶しすぎだわ。普通の人間だったら神経が焼き切れているところよ……」

 それに続いてリベルタス、コンコルディア、パークスらも涙目で言う。

「うぅ……私、自由の女神失格かも……。自由の女神のくせに監禁されるし、人間に助けてもらっちゃったし、その人間が倒れてるのに何もしてあげられないし……」

「でしたら、わたくしもですわ……。神ですのに、何をして差し上げたら良いのか、何もわかりませんもの……」

「コンコルディアは婚姻の女神ですもの。仕方がありませんわ。私なんて、平和と秩序の女神ですのに……」

 パークスが目をやる先には、氾濫した川に流された街がある。堤防自体はオオカミナオシによって修復されつつあるが、既に浸水したエリアの被害は甚大だ。グレナシンらに救い出せる人数は、せいぜい数十人と言ったところだろう。

 けれども、女神たちは行動を起こさない。

 いや、起こせないと言ったほうが正しいのかもしれない。

 神々がそれぞれに役割を持ち、協力し合って平和を守る。それは全員が万全の状態で能力を使い、はじめて維持できるシステムである。なんらかの要因によって仲間を失った神族は、徐々に力の均衡を欠き、システムを維持できなくなっていく。

 いくら祈っても一向に幸せになれなければ、人は信じることをやめる。

 信仰とは、神の力を強める最高のエネルギー源である。それが断たれてしまえば、その神族はさらに弱く、個々の役割すら果たせなくなる。

 そうなった時、創造主から『不要』と判断され、こちら側に送られるのだ。

 誰もが一度捨てられた神。そのうえ、永く囚われ、辱めを受けていた身。彼女らは己の力も、存在価値も、信じることができずにいた。


 自分にはまだ、『神』を名乗り、手を差し伸べる資格があるのだろうか。

 こちらの世界の人間は、『神』の名を呼び、共に歩んでくれるのだろうか。


 彼女らは、答えを見いだせずにいた。

 何をすることも出来ず、まごつく女神たち。その足元で、ベイカーが意識を取り戻した。

「……て…い、る……?」

 その声は小さすぎて、何を言っているのか聞き取れない。それでも目を覚ましたことを素直に喜ぼうとした女神たちだが、彼の目を見てひるむ。

 ベイカーの目の奥にあるのは、まるで地獄の火焔のような、真っ赤な怒りの炎である。

「何をしている……? 早く、彼らを救いに行け……」

「でも……私は……」

「わたくしたちは、力を失って『捨てられた神』ですのよ……?」

「いまさら、人を守護する資格など……」

「ええ、もう、私たちには……」

「……黙れ」

 冷たい声だった。

 炎のような眼差しとは正反対の、凍てついた声音。

 俯き、口ごもる女神らに、ベイカーは氷のような言葉を浴びせる。

「何の役にも立たぬなら、死ね。今すぐ己の幕を引け」

 ベイカーは仰向けで倒れている。確かに地面に寝そべっているのに――。

「何もしない貴様らに、神としての価値などない」

 この瞬間、誰もが彼に『睥睨されている』と感じていた。

 絶対的な王者のように、遥か高みから、万人を見下ろす瞳。それは心の内まで見透かしているような、抗いがたい支配者の眼光である。

 この小さな人間の、何がそれを感じさせるのか。

 女神たちの怯えた顔を見て、ベイカーはふっと表情を緩めてみせる。

 そして信じられないほど柔らかな口調で、こう言う。

「しかし、ただ一人でも救う力があるのなら、貴女は神だ。救われたその者にとって、貴女は、他のどんな神よりも信仰し甲斐のある、『本物の神』となるのだ。だから、救え。一人でも救い、守護せよ。たった一人でも信者がいれば、貴女は『無用な者』ではない。貴女たちにはまだ、『神』を名乗るだけの資格がある」

 雷に打たれたようだった。

 そこにいるのはただの人間。小柄で華奢な、少女のようにか細い男。しかし女神らの目には、確かに『光』が見えていた。

 タケミカヅチではない。その器、サイト・ベイカーという、ただの人間が放つ光である。彼の心の光は誰に与えられたものでもなかった。彼自身が自分で磨いて、ここまで気高く、美しく輝かせた光だ。

 女神らは頷き合い、全員で手をつなぐ。

 たった一人でも救う力があるのなら――その言葉で彼女らの、目には見えない心の枷が外される。

「救いましょう」

「ええ。一人だなんて言いませんわ」

「何人でも、何十人でも救ってみせましょう」

「できる! 私たちなら、できるんだから!」

「生と祝福の女神の底力、見せてくれよう!」

「おい、人間よ。サイトといったな? 我、勝利の女神ニケは其方を守護する者となろう。だから望め。どんな無茶な望みでも、『困難に打ち勝つ』ことで叶えて見せようぞ」

「私も其方を守護しよう! 運命の女神フォルトゥーナに祈れ! 其方の運命は私が回す!」

 ベイカーはニヤリと笑って、ありったけの声で叫ぶ。

「俺は! 濁流に呑まれたすべての人々を救いたい! 女神らよ! どうか彼らを救ってくれ! 誰一人、残された者を悲しませずに済むように!」

 信仰が薄れて力が弱まるのなら、強くするのは簡単だ。

 信じればいい。

 ベイカーの声を受けて、ボロボロだった女神らの姿が変化していく。


 ニケとフォルトゥーナには勇ましい鎧と盾、剣と弓矢が。

 ルキナ、ボナ・デア、パークスにはローブとヴェール、錫杖、薬瓶、天秤が。

 ユヴェントゥス、リベルタス、コンコルディアには華やかなドレスと花冠、色鮮やかな花々が。

 カリストには新雪のような純白のドレスと、ガラスのように透明な蝶の翅が。


 本来の姿と力を取り戻した女神らは、厳かに宣言する。

「さあ、始めましょう! 新たな時代を!」


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