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そらのそこのくに せかいのおわり 〈Vol,04 / Chapter 05〉

 午後八時、特務部隊宿舎・二階リビングルームでのこと。

 出先で別れたきり顔を見ていない同僚を心配して、ロドニーは落ち着きなく歩き回っていた。

「マルコのやつ、大丈夫かな~。なんかすっげー嫌な予感するんだよ~。やっぱ俺も行ったほうが……」

 ソファーの周りをうろつく狼に、読書していた後輩が声を掛ける。

「ロドニー先輩が行ってどうするっていうんですか? 御父上の御容態が悪化したんでしょう? このままお別れって可能性もあるんですから、最後くらい親子水入らずで過ごさせてあげましょうよ」

「ん~、そうなんだけどよぉ~……」

 今のロドニーは四つ足の獣の姿。情緒不安定のペットの如く、無駄に視線をさ迷わせていた。

 マルコは別の現場への応援に出た後、そのまま父親の見舞いに向かったことになっている。先代子爵は以前から意識不明の状態。マルコが忽然と消えてしまったことへの説明として、これ以上はない『もっともらしい理由』だった。

 ロドニーの様子を見て、後輩は読みかけの本を閉じ、ソファーに横たわる。

「先輩。ちょっと落ち着きましょう。ウロウロしてても何にもなりませんよ」

「え、ちょ、おい! レイン⁉」

 レインと呼ばれたその後輩は、狼をひょいと持ち上げ、掛け布団代わりに自分の上に乗せてしまった。

 ソファーに仰向けに横たわったまま、両手は頭の下。それでどうやって狼を抱け上げたのかと言えば、彼は腕より器用に動く『触手』を使ったのだ。

 レインはシーデビルと呼ばれる不定形生命体。主にタコやイカなどの頭足類に変化するが、人間の姿でいるときも頭髪は自在に動かせる。

 タコの足のようにスルスルと絡みつく髪の毛に押さえつけられ、ロドニーは身動きが取れない。

「おいレイン、放せって。怒るぞ」

「その前に、とりあえず深呼吸しましょう? マルコさんは御父上のお見舞い。それでどうして、先輩がそんなになっちゃってるんです?」

「そりゃあ、だって……」

 友達だからだと言おうとして、はたと気付いた。


 何が心配なのか分からない。


 普通は『友達が気落ちしてしまうのでは』とか、『自分は支えてやれるだろうか』とか、具体的に、何が不安か自覚できるものなのだが――。

「……あれ? おかしいな。俺、なんでこんなに焦ってんだ……?」

 自分から湧き出る感情の、その原因が分からない。

 こういうことははじめてではない。任務で謎の精霊だとか、超古代の呪いだとか、そういうものに触れた瞬間、似たような状態に陥ったことがある。しかし、今は違う。自分は安全な宿舎にいて、マルコは父親の見舞いに行っていて――それだけだ。怪しいものは何もない。

「ね? 落ち着けば、たいしたことないでしょう?」

「お、おう……悪かったな。なんか、読書の邪魔しちまって……」

「いえいえ、全然。丁度マーメイドの姫君が人狼族の彼氏をハグしてるシーンだったので」

「あ?」

「本当に……人狼のカラダって、温かいんですね……♡ あぁっ♡ 禁断の恋って響き、本当に好き……♡ このまま溶けちゃいそう……♡」

「ちょっ! まっ……待てレイン! 溶けるな! やめろ! 原形を保て! お前陸地で溶けると元に戻るの難しいんじゃねえのか⁉」

「なんとかなりますよぉ~♡ えへ……ふぇふぇ……デュヘベデゲデベゲ……」

「ぎゃあああぁぁぁーっ! お前! か、顔! 顔溶けてきてる! ダメ! やめて! マジでやめてそういうの! この絵面完全にホラーだからっ!」

 レインは海棲種族の中でも、特に体温の低い深海性の種族である。人間だったら約五十度から火傷を発症するが、シーデビルの場合は四十度で細胞が壊れ始める。

 人狼族の平均体温は三十九度。興奮状態では四十度を超える。

 ロドニーとのハグは、レインにとってデッドラインギリギリの温度なのだ。

 今、レインの顔面は浜辺に打ち上げられたクラゲの如く、どろどろに崩壊しつつあった。

「だ、誰かーっ! 誰か助けてーっ! レインが溶けたーっ!」

 ロドニーの叫びに、他の隊員らが私室から飛び出してきた。

 特務部隊の力仕事担当、キールとハンクが、力ずくでレインの触手を引き剥がす。

「馬鹿! レイン! お前またティーンズノベル読み過ぎて頭おかしくなってるのか⁉」

「禁断の恋ごっこは三日以上の連続した有給休暇を取得した場合に限ると言っただろう⁉ 顔面修復するまで人前に出られなくなるぞ!」

 体が溶けても死亡することはないのだが、修復するまでに数時間から数日の時間を要する。その間はホラー映画のゾンビか怪人のような見た目となるため、任務に支障が出てしまうのだ。

「大丈夫か、犬っころ」

「おう、ありがとな。キール」

「あー……お前、よくわからん汁でベトベトだな。あとは俺たちで何とかするから、ひとまず風呂入ってこい」

「いや、でも……」

 とろけかけた深海生物を庭の池に放り込むのなら、自分も手伝ったほうが良いのではないか。そう思ったロドニーだが、ハンクが止める。

「いいから。お前、夕食の時から様子がおかしかったぞ。何があったのか知らないが、熱いシャワーでも浴びてさっぱりしてこい」

「お、おう……それじゃ、お言葉に甘えて……」

 年上の二人にこう言われたら、従うしかない。ロドニーは狼の姿のまま、トコトコと浴室へ向かう。

 浴場は宿舎の一階、廊下の一番奥にある。最大三十名収容のこの宿舎には、二十四時間入浴可能な大浴場が一つあるだけで各個室にはシャワーがない。洗面所や便所などの水回りも、一か所に集められている。朝から晩まで、風呂やトイレの際にも、隊の仲間と必ず顔を合わせる構造だ。集団生活に何の苦もなくなじめるタイプでなければ、絶対に生活できない環境である。

(この時間だと、たぶん……)

 案の定、浴場には先客がいた。

「あら、どうしたのよアンタ! なんかすっごく汚い! 洗ってあげる! おいで!」

 手招きするグレナシンは、頭にタオルを巻き、その上からピンクのヘアキャップをかぶっている。おそらく髪の保湿パック中なのだろう。浴室全体に、甘ったるいバニラ&ストロベリーの香りが充満していた。

 言われるがままおとなしく歩み寄り、女主人に洗われる犬――もとい、オカマ副隊長に洗われる狼は、泡だらけにされながら事情を説明した。

 一通り聞き終わったグレナシンは、深い溜息を吐く。

「も~、これだから夢系腐男子は……」

「夢系……なんですか、それ?」

「夢系腐男子。ティーンズラブコミックとか読んで、どっちかっていうと女子キャラのほうに感情移入しちゃうタイプの子よ」

「えっ⁉ 男キャラじゃなくて⁉」

「ボーイズラブって知ってるでしょ? 前にマンガ貸してあげた、男の子同士で恋愛するアレ。ああいう本読んでも、攻めより受けに感情移入するのよ」

「それって、あの、副隊長みたいなニューハーフの人とどう違うんですか?」

「アタシは男の体で、心は乙女なの。腐男子は、心も体も男の子なの。で、別に本物のゲイってわけでもないから、出会いさえあれば女の子にも恋するのよ」

「女にも……って、それ、バイセクシャルじゃないんですか?」

「大まかに言えばそうなんだけど、夢系は『ロマンチックな恋愛がしたい』って願望がやたら強いのよ~。セックスそのものよりも、そこに至るまでの過程にこだわるタイプかしら?」

「……互いにその気だったら、すぐホテル行けばいいのに……」

「そうなのよねー。人狼族みたいに嗅覚と生殖本能が直結してれば、面倒臭いことにならずに済むのに。……ね、ロドニーちゃん? レインちゃんはね、別に同性愛者でも、異常性癖でもないの。恋愛小説にのめりこみ過ぎた、文学オタクみたいなモンなのよ。だからあの子のこと、嫌わないであげてね?」

「え? あ、はい。それはなんとなくわかるんで、別に……っていうか、もしあいつがゲイでも、俺が恋愛対象ってワケじゃないなら全然気にしませんけど」

「あら、そう? それなら良かった。ほら、ゲイとかニューハーフじゃなくても、仕草がちょっとそれっぽいってだけでも、やたら嫌悪感持つ人っているでしょう? あの子に、アタシみたいになってほしくなくて……」

 グレナシンはどこか遠い目をして、語尾を濁した。

 彼はベイカーが隊長に就任する以前から、ずっと『副隊長』のまま。先代特務部隊長時代の同期たちが他の部署に異動になったときも、彼だけは特務に残されたのだ。それがセクシャリティの問題だったことは周知の事実なのだが、本人がそれを気にしているような素振りは見せていなかった。

 今も、すぐにいつもの笑顔を作って隠してしまったが――。

(……やっぱり、気にしてないわけじゃなかったんだ……?)

 ほんの一瞬見せた、繕いきれない心の傷。彼が負った傷がどれだけ深いものかは分からないが、これだけは分かった。

 彼は、自分が誰からも守られなかった分まで、レインを守ろうとしている。

(……あ、そっか。だからこの人の傍は……)

 オカマ言葉で言いたい放題、いつでもギャアギャア喚き散らしている。ひどくやかましくて、お節介で、ボディータッチがかなり過剰で――それなのに、不思議と居心地が良い。この人の傍にいると、どういうわけだかホッとするのだ。

 これまでずっと疑問に思っていたことへの解答が、意外な形で提示された。

(なるほどなぁ~……『優しい人』っつっても、色んな種類があるんだ……)

 熱めのシャワーで石鹸の泡を洗い流され、ロドニーはぶるりと身震いする。心に引っ掛かっていた靄のようなものが、体の汚れと一緒に、排水口に流れていくようだった。

 しかし、タイルに残った泡のように、まだ何か、流しきれないものがある。

「あの……副隊長?」

「ん? なぁに?」

「マルコって……今、本当に親父さんのお見舞いですか?」

「そのはずだけど? どうしたの?」

「いえ……なんか、うまく説明できないんですけど……マルコの奴、もっとヤバいところに行ってるような気がして……」

「あらやだバカねー、考え過ぎよー? ……って、言っても誤魔化されてくれないわよね、アンタは」

 グレナシンは、不意に気配を変えた。

 バニラ&ストロベリーの甘い香りに、得体の知れない空気が混ざる。

「副……隊長……?」

 はじめて嗅ぐのに、なぜか懐かしいこの香り。その香りを纏う者の名前を思い出した瞬間、ロドニーの意識は、遠い世界に飛んでいた。




 時間も空間も超えた遠い世界――はるか古代の、地球の片隅に。




 それがいつの時代のどこであったか、詳しいことは分からない。この記憶は、唐突に会話の途中から始まった。

「ツクヨミ、其方、なぜウカを……」

 足元に転がる斬首死体。しかし、そこにあるのは体だけ。首はどこにも見当たらない。

 死体の首から血は流れていない。これは人でなく、『神の亡骸』なのだ。

「オオカミナオシ、すまない。何も訊かないでおくれ。これは必要なことなのだ」

「必要? なにを馬鹿な。我以外の神が同族を討つなど……」

 もう一度死体を見て、オオカミは言葉を止める。

 神的存在には違いない。だが、これは――。

「……これは誰だ? ウカは、どこに行った……?」

 ツクヨミは答えない。

 静かに身を屈め、首なし死体の衣服を剥ぎ取る。

「言っただろう? 何も訊かないででおくれ。私はただ、『全員』に、望み通りの姿を与えてやりたいだけなのだ……」

 ツクヨミは、死体の背を優しくさする。するとその肌は色を変え、透けるような白から、やや黄色みがかった色になった。

 次にホクロに指を置くと、ホクロは温めた氷のように、スウッと溶けて消えてゆく。体中何か所もあるホクロを、一つずつ、丁寧に消してゆく。

 『神的存在』から、『本物の神』へ。体に存在するありとあらゆる特徴を、一つ一つ、念入りに書き換えてゆく。

 オオカミはそれを、何も言わずにじっと見守る。

「……よし、できた。さあ、オオカミナオシ。私が……月詠の尊が、宇迦の御霊の神を殺めたと、天地のすべてに触れ回っておくれ。できるだけ速く頼むよ。私の力が及ぶのは、この夜が明けぬうちだけだ。夜のうちに、このことをアマテラスに……」

「良いのか、ツクヨミ。其方はこれから裁きを受け、永劫の罪を負うこととなる。名が穢れれば、其方は力を失い……」

「構うものか。名が穢れた程度がなんだ。その程度のことで、私は堕ちんよ」

「覚悟あってのことなのだな?」

「ああ……私以上に、『彼女ら』がな……」

「……相分かった。其方らの覚悟、確かに受け取った……」

 オオカミは、それ以上は言わなかった。

 ツクヨミに背を向け、空気に溶けるように姿を消す。

 世界に風が吹き荒れる。

 人間や動物には、ただの風としか感じられない。しかし神々の耳には、確かに声が届いていた。




 月詠の尊は神殺し。

 宇迦の御霊は殺された。

 月は穢れて光を欠いた。




 ハッとして、頭を振る。

 ロドニーは目の前のその人を――グレナシンの顔をまじまじと見つめ、その名を問う。

「……月詠の尊……?」

「あら、思い出してくれたみたいね。アタシにしたら超いまさらなんだけど、おひさしぶり。どのくらい自覚できてるかしら?」

「……俺は……『神の器』として……?」

「そ。アタシたちは、ママのお腹の中にいる間にカミサマに改造されちゃったのよ。神様が、自分の依り代として使うためにね」

「じゃあ……もしかして、俺の意識がぶっ飛んでた時って……」

「あら? オオカミナオシの意識とリンクできてないの? 自分の中にいるカミサマの声、聞こえてない?」

「……聞こえてますけど……声っていうか、唸ってるような……」

「ちょっとやだ! オオカミナオシってば、怒んないでよ! ロドニーちゃんに隠してたって、どうせいつかバレちゃうのよ? 話がこじれる前に話しておいたほうがいいでしょ? 待ってて、今ヘアパック流しちゃうから。話はそれから、ゆっくりしましょ」

 神を待たせて、とりあえずヘアケアを優先するオカマ副隊長。この図太い精神はツクヨミを宿しているからなのか、オカマだからなのか、グレナシン個人の性格によるものなのか、ロドニーには区別がつかなかった。




 リビングに戻ったロドニーを出迎えたのは、出先から戻ったベイカーだった。

 ソファーに腰を下ろし、ロドニーを睨みつける。それはロドニーの知る、十年来の親友の目ではなかった。

 今ならわかる。

 この目、この顔、この気配は――。

「……タケミカヅチ……?」

 軍神タケミカヅチ。自らの力を神器に変え、人間に授けた。そのため力を失い、結果、異界に流された神なのだが――。

「その力は、一体……?」

 失ったはずの力が戻っている。それどころか、元のタケミカヅチ以上の力を得ているようだ。

 華奢で小柄な体から感じる、圧倒的存在感。その迫力に、ロドニーは本能的に後ずさってしまう。

「……あの、隊長? 俺、ぶっちゃけ、何が何だか全然理解できてないんですけど……」

「だろうな。オオカミナオシは、我々とは異なる存在だ。器と記憶領域のすべてを共有することはない」

「その……とりあえず、そんなおっかない目で見ないでほしいんですけど……」

「申し訳ないが、そういうわけにもいかない。オオカミナオシ、答えろ。貴様はどちらだ? また、我々の挑戦を阻む気か?」

 喋っているのはベイカーだが、ロドニーには、これが別人の意識であると分かった。ベイカーの体を使って、中にいる別人――タケミカヅチが喋っている。

 それに気付いた瞬間、ロドニーは自分でも驚くような行動に出ていた。

 瞬時に距離を詰め、ベイカーの顎にアッパーカットを食らわす。

 ソファーに座っていた体が、一瞬浮き上がるほどの衝撃。

 ロドニーのあまりに衝動的な挙動に、タケミカヅチは反応しきれなかったらしい。

「う……き、貴様……」

 ダメージから立ち直れない状態のベイカーに、さらに激しく拳を叩き込む。

 彼の背後にはソファーがある。どこにも避けようがない。

「ウウウウウゥゥゥゥゥラアアアァァァーッ!」

 左右交互に、途切れることなく打ち込まれる拳。

 人狼に顔と上体を数十発殴打されているのだ。常人であれば死亡してもおかしくない。ところがベイカーは、それほどのダメージを負っているようには見えなかった。

 『神の器』として強化された体に、この程度の攻撃は効かないのだ。

 それが分かっていてロドニーが――オオカミナオシがベイカーを殴ったのは、この体の『制御権』を本来の持ち主に戻すためだ。

「隊長! しっかりしてください! 隊長の体、勝手に使われてるんですよ⁉ 隊長、それでいいんですか⁉」

 強烈な自意識と自己肯定感の持ち主、サイト・ベイカー。彼が、自分の体を好き勝手にされることを良しとするはずがない。

 拳を叩きつけながら呼びかけるロドニーの声は、ベイカーの体内――タケミカヅチによって支配された意識の底にも、しっかり届いていた。

「……クソ……タケミカヅチめ……」

 口の中で小さく呟かれた言葉。

 それか聞こえた瞬間、ロドニーは、デカラビアに聞いた話を思い出していた。


 名前は呪文。

 魔法と同じ。

 唱えてはじめて効力を発する。


 呼ぶ者が意味を知らなければ、何も起こらない。


 ベイカーの名前、『サイト』の意味なら知っている。ネーディルランドの古語で、『神聖なる言葉』。そこから転じて、一族の誰からも祝福されて生まれてきた子供、とくに『待望の男子』に付けられるようになった。あまりに素晴らしい意味を持つことから、三百年前に士族以下の使用が禁じられ、貴族に独占された名前である。

 ロドニーは、ありったけの大声でその名を呼ぶ。

「サイトォォォーッ! 出てこい! 俺の親友のサイト・ベイカーは、この程度のヘボ神に好きにされるような男じゃねえぇぇぇーっ!」

 直後に奔る、ドンという、音とも衝撃ともつかない振動。

 ロドニーの体は、まるで木の葉のように吹き飛ばされる。

「あだっ⁉」

 壁に叩きつけられて、痛みに目をつむる。

 数秒後、その目を開いた瞬間、ロドニーには分かった。


 ギラギラとした生命力に満ちた、強い眼差し。

 そこには確かに、ベイカーの意思がある。


 ベイカーは勢い良く立ち上がり、両手で自分の頬をパァンと叩いた。

「すまないな、ロドニー。世話を掛けた」

「いいえ! おかえりなさいませ、隊長!」

「ところで、お前、覚醒してしまったようだな?」

「はい! っつーか、何のことだかワケわかりませんけど!」

「そうか。それなら是非、そのままでいてほしい」

「へっ?」

「お前の中にいる『大神直日』とやらが完全体になると、対となる『大八十禍津日』が目覚めてしまうらしい」

「オオヤソマガツヒ……? そいつが出ると、なんかあるんですか?」

「怪獣映画に登場するありとあらゆる巨大怪獣が同時に八十体くらい出現するような事態になる。あと、ゾンビ映画以上にゾンビが湧いて、台風とか地震とか津波も発生する。大惨事だ」

「それは……困りますね!」

「だろう? ものすごく困るのだ。だからこれ以上は覚醒するな」

「って言われても、どうしたらいいか……?」

「お前の頭の中で、オオカミは何か言っているか?」

「いえ、何も」

「それが答えだ。お前に覚醒のきっかけを与えまいと、必死に黙っている。それなのに……おい! ツクヨミ! なぜ余計なことを吹き込んだ⁉」

 ベイカーが視線を向けた先、リビングの入り口にはグレナシンがいる。

 ピンクのレースで装飾した愛らしいルームウェアを着用した彼は、唇を尖らせて反論した。

「だ~か~らぁ~っ! 隠してたって、どうせいつかバレちゃうのよ? あとになってグダグダ揉めるより、今のうちに関係者一同に根回し済ませておいたほうがいいでしょ?」

「順序というものがある! オオカミナオシを覚醒させるより、青龍と白虎を味方につけるほうが先だ!」

「無理! だってあの子たち、もうとっくにぶっ壊れちゃってんのよ? 精神病患者を戦場に連れてって何になるの? 自暴自棄になって自爆されたんじゃたまんないわよ!」

「玄武は堕ちていなかっただろう⁉」

「例外! アンタね、アタシが何年前から覚醒状態だったと思ってんの? 生まれたときからずっとよ? 青龍と白虎の現状なんて、もうとっくに見学済みなの!」

「なに? ……彼らの居場所を知っているのか?」

「当たり前でしょ? 青龍はリバーフロント、白虎はその隣のピジョンズキャニオン。どっちも長いこと放置され過ぎて、心が壊れちゃってるの。玄武みたいに闇堕ちできるのは、まだまともな自我が残っている証拠よ。あの子だけはオオカミに封じられていたおかげで、時間経過を感じずに眠っていられたのね。ものすごくラッキーな偶然よ」

「……だが、その『心が壊れる』というのは、本当にどうにもできない状態なのか? 具体的にはどうなる?」

「真っ新になるの」

「まっさら?」

「そう。辛い現実から目を背けるために、考えることをやめて、無の世界に閉じこもるのよ。だから誰を恨むことも、責めることもなく、堕ちずにいられる。でも、何も考えない状態をずっと続けたらどうなるかしら? 言葉も何も、み~んな忘れちゃうわよ? 他人との接し方も、常識も、自分がどれだけの影響力を持っているかも……」

「……そんなにひどいのか?」

「少なくとも、白虎はね。何を話しかけても、何の反応も無くて……廃人みたいになってたわ」

「青龍は?」

「もう少し厄介。言葉は忘れていない。でも、話の内容は通じていない」

「それは……痴呆症のようなものか?」

「ちょっと違うけど……ま、似ていなくもないわ。あの子、自分の名前を竜族にあげちゃったの。そのとき、名前と一緒に知性や記憶も手放しちゃったみたいで……」

「とすると、軽度の知的障害に近い状態か?」

「はいビンゴ。まさにそんな感じ。ある程度は通じているのよ? でも、肝心なところが通じないの。簡単な日常会話は出来ても、難しい会話は分からないし、飽きたら会話の途中でもふらりといなくなっちゃうし。名前が無いから、呼び止めようもないしね……」

「呼ぶ名が無いということは、それほど重大か?」

「ええ。大きすぎる問題だわ。『武御雷』も『大神直日』も、その名が神としての役割や能力、すなわち、存在そのものを現している。そこは分かるでしょう? 青龍も同じなのよ。青、つまりは水を統べる者なの。その名前……『言霊』が失われたら、どうなっちゃうのかしらね?」

「……名前が、統治者の証として作用していたということだよな? その証が無いのなら、今の青龍は……」

 ベイカーが話を理解したのを確認してから、グレナシンは、先ほどの言葉をもう一度繰り返す。

「今のうちに、関係者一同に根回し済ませておいたほうがいいでしょ?」

「……なるほど。そういうことか……」

 何がなるほどなのか理解できていないロドニーは、まるでパパとママの夫婦喧嘩を見守るペットの犬状態だ。何を揉めているのか、何がどうして合意に至ったのか、何一つ分からない。

 しかし、ロドニーはここで驚異的な楽観主義思考をはたらかせ、『とりあえず仲直りしたならそれでいいか』と納得することにした。

「あの、隊長? 副隊長? 根本的なことだけ聞いておきたいんですけど、神様たち、何をしようとしてるんです?」

「ん? ああ、共通の目標は、先ほど言ったオオマガツヒの復活阻止だ。と言っても、いずれは必ず目覚める。そのときにできるだけ有利な条件で戦えるように、今は仲間を募っているところだな」

「え~と、共通の目標ってことは、共通しない目標もあるんですよね?」

「そうねぇ……ま、よくある話なんだけどさ? 戦争に勝った後、誰が支配権を取るか、ってところかしらね?」

「え? 神様も、そういうの気にするんですか?」

「アタシは気にしない派のツクヨミちゃんで~す」

「俺は気にする派のタケミカヅチだ。何やら、この世界で一番信仰される神になりたいらしい」

「だからさぁ、もうこれ何度も言ってるけど、それってかなり中二病臭くなぁ~い? 世界征服とか、童貞臭ハンパないわぁ~」

「もっと言ってやってくれ。俺も、ものすごくそう思う」

「や~い、万年ヘボ神ぃ~。そんなんだから、センターポジションうちの姉ちゃんに取られっぱなしなのよ~ぅ。いいとこ見せたくて人間に力あげ過ぎて異界送りにされるとか、馬鹿じゃないの~? アタマ大丈夫ぅ~? いいお医者さん紹介してあげましょうかぁ~?」

「おー、今日も絶好調にぶち切れているぞ。この程度の煽りで熱くなっているようでは、野望達成の日は遠いな」

「サイトちゃんに力だけ渡して、アンタはおとなしく眺めてりゃいいのよ! このバァ~カ!」

「つーか、隊長がガチで世界征服狙ったら、マジで達成できそうですね」

「ああ、神の加護などなくとも、商人たちに合成麻薬を販売させれば周辺国の首都制圧くらいあっという間だ。その後は占領地を足掛かりに、先へ、先へと進攻する。降伏しない国には化学兵器を投入すればいい。なんなら、計画書を作成して見せようか?」

「あ、すみません、そういう物騒なモノは本当には作らないでください」

「そうか? それならやめておこう」

 さも当然のように語るベイカーは、もはや軍神以上に神々しいオーラを纏っている。

 彼は大富豪貴族の家に生まれ、経営戦略を徹底的に教え込まれた。未開拓分野の研究に投資するのも、技術者を育てるのも、基本的な思想は軍備増強に通じるものがある。同業他社のシェアを奪い、そこを足掛かりにさらに業績を伸ばすのは、まさに領土拡大作戦そのものだ。

 ただし、武力によって力ずくで奪い取るのではない。商売上手なベイカー家は、顧客のニーズをつかみ、大衆心理の誘導を図る。やろうとしていることは同じように見えて、その実、そこに至るまでの手法は正反対なのだ。

 脳内で喚き散らす軍神を完全無視して、ベイカーは言う。

「さて、ロドニー。覚醒してしまったなら、もう隠し事はできないな。マルコが今どこにいるか、今のお前なら分かるだろう?」

「え? マルコが……って、あれ? なんだ、これ……」

 五感とは異なる、第六の感覚器官。『神の器』として改造された人間たちのみが持つ第六感は、一般的に言われるそれとは根本的に異なる。常人よりも勘が良いとか、幽霊が見えるとか、そんな次元の話ではないのだ。

 ロドニーの『眼』は、青い世界の底で横たわるマルコを見ていた。息はあるようだが、彼はピクリとも動かない。外傷はない。健康状態に問題が無いことも分かる。けれども、人間が人間らしくあるために最も必要な要素、『心』が死にかけていた。

「おい……おいマルコ! しっかりしろ! ダメだ! そいつの心に呑まれるな! 戻ってこられなくなるぞ!」

 ロドニーの『声』は、青龍の精神世界にも届いている。しかし、マルコに反応はない。

「ヤバい……隊長! 俺! ちょっとマルコ助けに行ってきます!」

「行けるのか?」

「え?」

「行き方は分かるのか? 俺は古の神々と接点がない。本人の許しが無くては、彼らの心に踏み入ることは出来ないぞ」

 ベイカーの内にいるのは戦争の神。つまり、人間の誕生以降に創られた『新しい神』なのだ。タケミカヅチが誕生したころには、青龍は異界に送られた後だった。全く面識のない相手が、一言二言口を利いただけで心を許してくれるはずもない。

「……えーと、なんか、オオカミ的にはうっすら面識あったみたいなんですけど……」

 ロドニーは口ごもる。

 頭の中で、オオカミはこう言っている。


「青龍は四神の中で、最も成熟した神。その仕事ぶりに間違いはなかった。我は不具合を修正する役目にあり、生まれたばかりで問題の多い玄武の世話に掛かりきりだった。言葉を交わしたことなど、数度しかない」


 何億年も前に、数回話したことがあるだけの関係。そんな間柄で、心の中にまで入れるわけがない。

 ロドニーとベイカーは、揃ってグレナシンを見た。

「……何よ。そんな見つめてくれなくたって、ちゃんとアタシが連れてってあげるわよ。ただし、まずは禊を済ませてからね!」

「禊?」

「そうよ。曲がりなりにも、神様の精神世界にお邪魔しようって言ってんのよ? 体を清めて、身なりを整えるのは基本でしょ? てことで、サイトちゃん! 来なさい! オネエサンが頭のてっぺんから足の先まで、前も後ろも穴も袋も丸ごと綺麗に洗ってあげるわ!」

「い、いやいやいや! ヤメテ! ダメ! そこはダメ! 穴と袋は自分で洗うから!」

「だまらっしゃい! これは儀式よ、ギ・シ・キ! 絶対に! 必要なことなのよ!」

「ほ、本当に? 本当に必要不可欠なのか⁉ 別に、誰が洗っても同じなのでは……」

「はぁ? 何言ってんの? え? もしかして逆らう気? タケミカヅチよりツクヨミのほうが神格高いって、分かってるわよねぇ? いいから来いって言ってんでしょ? ね?」

「ひぃっ……!」

 オカマ副隊長に凄まれ、美少女風の特務部隊長は風呂場に連行されていく。

 口をさしはさむタイミングもなく、なんとなく取り残されたロドニーとオオカミは思った。


 そんな儀式必要だったかなぁ――と。


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