昼下がりのキッチンで
休日の昼間。息子の大きな声が今の中に響いた。
「ねえ、作ろうよ! 父ちゃん!」
息子が何かを俺に見せているようであったが、俺はテレビを見ているフリをして見ようとしなかった。すると突然、俺の眼前に何かがテレビを遮った。
「ねえ、これ作ろうよ!」
「近い近い! これじゃ何も分からないよ」
そう言って、頬が膨らんでいる息子が見せてきたものを手にとってピントを合わせると、それは絵本のあるページだった。
「これを……作るのか?」
「うん! メチャクチャ食べたい!」
俺はすぐに頷くことができない。どうにかしてこの事態から逃げたい。
「ええと、母ちゃんと作ればいいんじゃないか?」
「母ちゃんは今美容室だから、今日は帰ってくるのは遅いよ」
「実はこの後、父ちゃんが好きなテレビがあってな?」
「今日、その番組は駅伝でやらないよ」
「材料は? 突然言われても無いとできないからなぁ~」
「この前、母ちゃんが棚に入れているのを見た!」
逃げ道は塞がれてしまったようだ。
「じゃあ……作るか?」
息子は飛びっきりの笑顔を、俺は苦虫を噛み砕いたような表情を浮かべた。
「で、どうやって作るの? 父ちゃん?」
「ああ、それはな……」
言葉が詰まった。俺はこれまで料理なんて、学校の授業でしかしたことがない。しかし、やるからには意地でも作り上げたい。俺は先ほど見た絵本を思い出す。
「『ぷくぷく』と『ぽこぽこ』を見極めることだ」
「な、なんだ! その呪文は!」
「これを見極めることでおいしくなるのさ」
「おお~! 父ちゃんカッケー!」
早速、息子が棚から持ってきた袋に書いてある作り方を見ながら、牛乳と卵を冷蔵庫から取り出した。卵を割るぐらいなら、普段牛丼を食べるときにやっているから大丈夫だろう。
卵を割る俺を傍で見ている息子は、うずうずしながらその様子を見ていた。
「割ってみるか?」
息子は力強く頷くと、その勢いのまま卵を割り、殻まで入ってしまったことは言うまでもない。
卵の入ったボウルに牛乳を感覚で入れ、息子はそれを一生懸命にかき混ぜた。その間に俺はフライパンを中火で温めて、ぬれぶきんの上で冷やした。
「どう、父ちゃん?」
「いいだろ!」
ボウルの中に袋の中に入っている白い粉を半分くらい入れた。そしてそれを今度は俺がダマにならないようにかき混ぜた。
「さあ、本番だぞ!」
フライパンを弱火にかける。息子の目の輝きもキラキラと増していく。
「まずは俺が手本を見せよう」
お玉一杯分の生地をフライパンの真ん中にゆっくり落とし、丸い形を作った。そして黄色いその表面をじっと見つめる。
「よく見てみな。これが『ぷくぷく』だ」
「本当だ! 小さいぷくぷくができてる!」
さらにぷくぷくしている表面をじっと見つめる。息子の表情もいつにもなく真剣そのものだ。
「そしてこれが『ぽこぽこ』だ」
「あ、さっきより大きくなってる!」
「そして、ここでひっくり返す!」
フライ返しを持った俺は、生地の下に潜らせてお好み焼きをひっくり返すように一気に決めた。
「おお……」
思いのほか上手くいった。チラッと息子の方を見る。何も言わなくても、そんな表情をされちゃあ分かるよ。
「さあ、次はお前の番だ!」
息子はお玉を持って、慎重にフライパンの真ん中に丸い形を作った。そこから息子は後ろに立っている俺を一度も見ずに、少しずつ膨らんでいく生地を見続けた。
「まだ『ぷくぷく』だ……」
息子はそう呟いてフライ返しを手にとった。凄く力が入っているように見える。
「ここだ!」
そう言って、息子はフライ返しを生地の下に潜らせて、思いっきり上空へと舞い上げた。
眼前に広がる世界はスローモーションだった。
回りながら落ちる生地。見上げる息子。ゆらゆらと揺れるコンロの火。
それらは美しく輝いていた。俺にはなぜかそう見えていた。
その瞬間、ベチャ! という音を立てて生地は見事フライパンの上に落下した。
息子は俺のほうを向いてガッツポーズを得意気に見せてきた。どうやら上手くいったようだった。
「ただいま~」
玄関から声が聞こえてきた。美容室から妻が帰ってきたのだ。息子は俺のスマホを持って走っていく。
「母ちゃん! 見て見て~」
「どうしたの~?」
「今日、父ちゃんとホットケーキ作った!」
「あら? ホットケーキミックスあるの知ってたのか~」
妻がそう言いながら居間へと入る。
「お帰り~」
「どう?」
「大変だったよ。料理は大変だ」
「それが分かったならよろしい。……って違うわよ。ホットケーキじゃなくて私に対する感想よ」
「あ、いつも通り美しいですよ~」
「見ないで言うな」
「見なくても分かるんだよ」
そう言ってから、妻の声がぱたりと止まった。
「それで~、このキッチンはどうしてくれるのかな~」
その声を聞いた途端、妻の頬がぷくぷくと膨らんでいくのが見なくても俺には分かった。
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