婚約破棄『は』出来ません
夏を目前にしたこの時期、日差しはやや強いものの、風が吹けば心地よい気候となります。
今私がいるのは貴族の子息や令嬢が多く通う学園にあるカフェテラスです。
学園のカリキュラムとして、午前の授業はいわゆる必修で、我が国の歴史や一般教養などの貴族として身につけなければいけないことを学びます。午後は各自の性質にあわせて学ぶものを選択します。
騎士道、経済、薬学、領地経営、魔法、礼儀作法、必修より詳しい歴史など、多岐にわたっています。ああ、将来領地をおさめる際に必要な人もいるからと、農業や土木もありましたか。
いずれも初級から上級まであるので幅広く学ぶのも、一つのことを深く学ぶのも可能なのです。
そうして学んだ者たちが国の、あるいは領地の力となり、民を支え導いていっています。
私も国の……いえ、家の力となるべく学んでいるものの一人です。
昼休みも終わり午後の授業が始まっていますが、私のようにこの時間帯は何も選択していない学生が何人かカフェテラスにいます。
勉強をする人、友人とお喋りに興じる者、あぁ、恋人たちの逢瀬もあるようですね。
気候のおかげか、いつもより人が多い気もします。そしていつもより静かな気もしますが、これはその時々によってかわりますね。
さて、私はどのような用事でここにいるかというと。
「ヒルダ……いや、ヒルデガルド嬢。こちらからお願いしたのに待たせてしまってすまない」
逢瀬が、一番近いでしょうか。
私の名前を呼ぶ声のする方を向いて、その人の顔を確認すると自然と表情がほころぶのが分かりました。
やはり愛しい人と会えるのは嬉しいものです。
「まあレオン様。そのような他人行儀な呼び方などおやめください。わたくし達の仲ではありませんか」
ただ、レオン様(正式にはレオンハルト様です。私をヒルダと呼ぶのと同じで親しいものだけが呼べる愛称です。)の表情は明るくない。いえ、もっとはっきり言いましょうか。とても思いつめた顔をしています。
いけません。
レオン様はとても……とまではいかなくても、それなりに優秀な方ですが、時々思い込みが激しくなります。そのような時には、今のような表情をしているので周囲からは「ああまた何か間違えているのですね」と分かりやすいのですが。……知らぬは本人ばかりなり、とでも申しましょうか。
それにしても、相変わらず素敵な方です。
背が高くないのを気にされていますが、私より五センチほど高いので並んで立つと丁度いい身長差です。
その優しげで整った顔立ちは、悪意ある人には優柔不断などと言われてしまいますが、私は大好きです。確かにいささか優しすぎる性格で、それが表情に出ている節はありますが、レオン様の短所であると同時に長所でもあるのです。単純な顔立ちだけでいけば、年々凛々しくなっていますので、あと数年もすれば誰しも振り返るような美丈夫になられるでしょう。
私たちはまだ十六歳なのです。今時点で幼さが残るのは致し方ない……いいえ、今だけに許された特権でしょう。
「その『仲』についての話を今日はしにきたのだ」
「まずはお掛けください」
私だけ座ったままの会話など出来ません。
レオン様の思い込みをとくのは非常に時間がかかるのです。
「いや、時間はとらせない」
しかしレオン様は頑なです。首を横にふって、決して座ろうとはしません。
それどころか、勢いよく頭を下げてしまわれました。
「ヒルデガルド嬢。大変申し訳ないが、どうか貴女との婚約は破棄させていただきたい」
それなりにざわめいていたカフェテリア内が、しん、と静まり返りました。
「レオン様。どうか顔をあげてくださいませ」
それにしても婚約破棄だなんて。
何故そのような。
ああ、そうか。
「分かりましたわ、レオン様。これは今流行りのアレを模した余興ですね?」
「は?」
ぽん、と手を打って告げれば、余興? とレオン様は呟きます。
そうです。余興です。
「ですがこの場合、レオン様のお隣には女性がいるものではありませんか? そして女性がレオン様が愛しているのは自分だからわたくしに身を引けと言ったり、わたくしがその女性を迫害したという捏造による糾弾があるのでは? その方は今どこにいらっしゃるのです? 役者がそろっていなければ余興としては成り立ちませんわ」
近くで聞き耳をたてている(仕方ないことです。私だって傍観者の立場なら、何事かと注目してしまいますから)人々の同情の眼差しが集まりました。
がくりとレオン様は項垂れてしまいます。
「それは俺の義妹がやらかしたことだよね!?」
レオン様の声は悲痛です。
そう、同情の眼差しの向かう先は婚約破棄を告げられた私ではなく、レオン様です。
「違いますわ」
「違わない。恐れ多くも殿下に言い寄ったあげくに婚約者のマリエラ様に不敬をはたらいたのは間違いなくエリスだ」
エリス様は、レオン様の父君の後妻の連れ子です。
レオン様は、ルーダス子爵家の嫡男として生まれました。子爵夫人はアイーダ様といって、大変美しく、気立てのよい方でした。
私の生まれたガルア伯爵領と、ルーダス子爵領はお隣であったことから、私たちも幼い頃より交流をもっていました。アイーダ様にはよく可愛がっていただいたものです。
私には四つ年上の兄がおり、伯爵家は兄が継ぐことが決まっていました。ですのでごく自然な流れとして、私とレオン様は婚約したのです。それがおよそ十年前。貴族の婚姻は家同士の結びつきでもありますから、特に早すぎるものでもありません。物心ついた頃から親しくしていたレオン様に嫁ぐこと、ましてや子爵夫妻はとても素晴らしい方々でしたので、私にはなんの不満もありませんでした。それどころか幸せを感じていました。
その幸せに影がさしたのが五年前です。アイーダ様が流行り病に倒れられ、はかなくなってしまわれたのです。
当時レオン様は十一歳。
アイーダ様には可愛がっていただいたので私も寂しく悲しかったですが、実子であるレオン様の悲しみはいかほどでしょう。幼心に私がレオン様を守らねばと誓ったのです。(そう兄に告げたら、困ったように「それは何か違わないかい」と言われましたが、未だに何のことか分かりません。)
レオン様には母親が必要だと判断したからでしょうか。二年前に子爵は後妻をむかえました。エルフィ様というその方は、男爵未亡人で、私たちより一つ年下の令嬢がいる方でした。その令嬢が、エリス様です。
「エリス様の行いであることは否定しません。わたくしが違うと申したのは、レオン様がエリス様を『義妹』と仰ったことについてです」
「非常に残念なことだけど、父とエルフィ様が結婚したのは事実だからね?」
ええ本当に。私からしても、非常に残念です。
エルフィ様達が大人しくされていたのは最初の一年だけでした。そのあとは、良識ある人々から眉をひそめられるような行いをなさるようになりました。
煽情的を通り越して下品な装いで夜会に現れるエルフィ様。当然のように、素敵な殿方(もちろん妻子のある方々です)に艶めいた視線を送っているとか。
学園内で目立つ男性にすり寄るエリス様。ちなみに先ほどレオン様が仰った殿下に云々というのは、あまりにも目に余る言動が続き、学園の風紀が乱れたため、殿下とマリエラ様が謀った事だそうです。エリス様は現在謹慎しており、処分の沙汰を待つ身です。
子爵は何故このような方を、と皆が思うのですが、子爵と結婚するまでの、そして結婚から一年ほどのエルフィ様たちはとても大人しくされていたため気付けなかったのです。
我が国では、結婚後一年以内の離婚は容易ですが、それ以降は基本的には認められません。
今ではすっかり子爵の頭皮は心労により寂しくなっておられます。
「存じていますわ」
レオン様の頭に『?』が浮かんだ。
「まずはお掛けください。他の方に迷惑ですわ」
「あ、うん」
「まずですね。最初のお話ですが、わたくし達の『婚約破棄』は無理です。出来ません」
「なんで?」
首をかしげる様子がとても可愛くてきゅんときます。いえ、今はそのような場合ではありませんが。
「だってわたくし達、もう婚約『は』していませんもの」
周囲の皆さまの頭にも『?』がとびかっているのが分かりました。
「レオン様ったら御冗談がお好きですのね。わたくし達、もう結婚しているではありませんか」
だからこそ、レオン様が婚約を破棄したいと言いだした時、私は余興と判断したのです。
周囲に静寂再び。
ええと……野次馬の皆さんはともかくとして、何故レオン様まで?
「え?」
「……どうして驚いていらっしゃいますの?」
その反応に、私もびっくりです。
簡単な話です。
エルフィ様とエリス様の行いを見たルーダス子爵が「このままでは何かとんでもない事になってしまう」と判断し、我がガルア家に迷惑がかからぬようレオン様と私の話をなかったことにと相談されました。
しかし父はレオン様を評価していますし、何より私がどれだけレオン様を愛しているかご存知なので、婚約破棄は受け入れませんでした。逆に提案したのが、レオン様の我が家への婿入り。
我が国では、婿入りは滅多に行われません。なぜなら、嫁入りとは違って実家との関係が断たれるからです。そうでなければ後継者問題がややこしくなってしまいますから。家督を継げるのは男性のみですからね。婿入りした時点で、実家の家督を継ぐ権利を手放さなければいけません。情は残りますが、それだけです。実家からの支援については世間からも受け入れられません。
基本、貴族の婚姻は家と家の結びつきによるもの。それを真っ向から否定する形になるので、娘しか生まれず後継ぎに困った家が、養子をとらなかった時だけ使われる仕組みです。
今回はそれが丁度いいと、二人の父親は判断したのです。
レオン様が我が家に婿入りすれば、ルーダス家とは無関係の立場になれる。
つまり、エルフィ様たちの行いによる影響から逃れられる。
ルーダス子爵は、せめてレオン様だけでもどうにかなるのなら、と苦渋の判断を。
父は元々私を可愛がっていましたので、嫁に出さずに手元に置いておけると歓喜。それはもう楽しそうに受理されるように根回しをしていました。あまり例のない婿入りを、学生のうちにしてしまおうというのです。元々婚約していたとはいえ、一切の根回し抜きで受け入れられるものではなかったそうです。
私には兄がいますので、ガルア伯爵家に婿として迎えることはさすがに無理でした。
ですので、ガルア伯爵家の家門としてガルア子爵家を擁立しました。父が家督をつぐ前に、何か功績をたてたとかで子爵位をもらっており、それが宙に浮いていたのが活用されたというわけです。
元々レオン様は子爵に、私は子爵夫人になるべく学習をすすめていましたので、なんの問題もありません。
「わたくし達が学生の間は公表は控えるため、表向きはルーダスを名乗られますが、書類自体は貴族院に受理されたと聞いております。わたくし達はもう次の段階に進んでいますので、婚約破棄は無理というのが分かっていただけたでしょうか」
「ええ!?」
「表向きルーダスを名乗っていても、今のレオン様はルーダス家とは一切関係のない者。その認識で正しいという公文書を、兄が宰相からいただいていますわ」
兄は宰相補佐をしております。
「名乗ってる以上、一切関係ないとか無理だよね!?」
「兄がそのように宰相様にお願いなさったそうです」
「あの人のお願いって脅迫じゃないか!」
さてどうでしょうねえ。まあ父同様に兄も私を可愛がってくれていますから。何も心配いらないよと言った言葉通りにしてくれたのでしょう。
「そもそも俺が知らないっておかしくない!?」
「はい。それはわたくしも、先ほどから疑問でした。ルーダス子爵から半年前の誕生日祝いにと、レオン様自筆署名いりの結婚届をいただいたのですが、本当にご存知なかったんですか?」
あとは私が署名すればいいだけまで揃っていた結婚届。あれに入っていたレオン様の署名は、確かにレオン様のものでした。
結婚届は、本人たちと、それぞれの家長の署名があれば受理されます。
「署名? ……あ」
何か心当たりがあったようです。
「父に『今すぐ結婚してもいいぐらいヒルダ嬢が好きならここに署名して』って言われて署名したことがあった」
「それですわ」
「だからって俺が知らないとか……」
ふと不安になりました。
「レオンハルト様。わたくしでは貴方の妻として不足でしょうか。もしこの結婚が本意でないのなら、今からでも……」
レオン様の自筆署名があったからこそ、この結婚はレオン様が望んだものだと思ったのです。周囲もそれならばと受け入れました。
でもその前提が間違っていたのなら……。
「まさか! 俺は、我が家の問題にヒルダを巻き込みたくなくて、悩みに悩んだんだよ。愛してなければ悩みなどしない。ヒルダは俺にはもったいないぐらいの女性だ」
嬉しい言葉に、思わず顔が赤くなります。
「だけど俺は家を……親や家臣を見捨てることになってしまう。それは許されるのか……」
そこで悩まれるレオン様だからこそ、父や兄が動いたのです。
これ幸いと見捨てるような方であれば、婚約はなかったことにで終わっていました。
私を可愛く思ってくれているからが一番大きな理由であっても、一家に迎えるに足る人物であると評価されたのはレオン様本人の功績です。
「ルーダス子爵は、自分の見る目がなかったからだと仰っていました。ルーダスという家はこうなっては仕方ないと。親として、せめてレオン様だけでもと涙ながらに訴えられましたので、どうかご安心くださいとお伝えしましたわ。レオン様はわたくしが幸せにしますとお約束しましたの」
「……嬉しいけどそれは俺が言うべき言葉だよね?」
ではいずれ言っていただきましょう。出来れば二人きりの時に。楽しみですわ。
「それから噂ですが。今回のエリス様の行いは王室への不敬ですから到底許されるものではありません。エリス様ご本人だけでなくルーダス子爵家にも重い沙汰がくだされるでしょう。エルフィ様とエリス様は身分をはく奪されたうえ、別々の修道院へと。ルーダス子爵は、自主的に爵位を返上なさるおつもりだとか」
自主的にとはいっても、半ば強制されたようなものですが。
「そうなると、現ルーダス子爵領を管理できる人がいなくなります。当面はお隣ですから父が面倒を見ますがずっとは無理です。混乱を避けるため相談役としてルーダス子爵に意見を求めたり、今の家臣の方々に残っていただいたとしても限度はありますからね。折りをみて、相応しい方に領地をお任せする方を国が判断なさるそうです。ちなみに筆頭候補はガルア子爵……つまりレオン様だそうですわ」
うん? とレオン様と野次馬の皆さまが首をかしげます。
「父を相談役として俺が治めたら……何も変わらなくないか?」
レオン様と私が、現ルーダス子爵領を治める、という一点だけでは確かにそうかもしれません。
多少の入れ替わりはあるにせよ家臣も残りますし、何より現ルーダス子爵が相談役ですからね。でも……。
「まあ。なんということを仰るのです。ルーダスというお家がなくなってしまうのですよ。これほど大きな違いはありませんわ」
「いや、うん。それはそうなんだけどね? あれ?」
「第一、候補であってまだ決まった訳ではありません。レオン様には一層励んでいただかないと」
とはいえ、あの土地を治める者として育ってきたのがレオン様です。余程のことがない限り、レオン様で決まりでしょう。
「お可哀そうなレオン様。エリス様たちの行いにお心悩まされてきたのですね。ですが心配ありませんわ。わたくしがお守りいたします」
「だからそれは俺の言葉……」
レ「俺だってかっこいいところ見せたいのに!」
父兄「ヒルダは嫁にいかなくてすむし、一家の領地が広がるんだから問題ないよね」むしろ大勝利。