アキト君とチカちゃん
習い事やっているといつか来るお話しではないかと思います。こうなれたら理想だなって思います。
「あのね、私、今日が最後なんだ」
チカの発した言葉が、すうっと俺の身体を通り過ぎた。それぐらい自然に、それでいて心地良く入ってきた。いつもの他愛ない雑談と同じように、消化しようとしたんじゃないかな。意味が分からなかったんだと思う。
暫く、暫くだ。暫くして、彼女のその突然の告白からコンマ数秒遅れて、背筋がゾワゾワっとなった。同時に、腹の中から何かが上ってくる衝動に襲われた。「これは飲み込んじゃいけない、吐け。吐き出すんだ!」みたいな危険信号が、ぐるぐる回る。
「今までありがとうね、アキト君」
言葉の意味に身体が振り回されるのを他所に、チカはずいっと顔を近づけ、俺を覗き込んだ。白い肌に、まんまるの目が特徴的だ。チカを見ていると、その特徴的なまんまる大きな黒い瞳が、今の俺の苦しみなど、ギュッと吸い込んでしまいそうだった。
「そうなんだ、さみしいな。チカはあれか? 高校入ってからも書道続けるのか?」
「んー、どうだろう? 今みたいに時間とれるならやってみたいけどね」
屈託のない笑顔でにかっと笑いながら、チカは俺に課題のお手本を回した。先生から先にもらっていたのだろう。本日のお題は漢詩のようだが、正直、あまり入ってこない。感じの並びが、ひどく気持ちを不快にさせる。いつもの楽しい時間が、今日はとても退屈になりそうだと思えた。
「ねー、アキト君」
「なんだ、チカ」
硯で墨をすりながら、チカが声をかけてきた。書道の時間が始まると、今までの外向的なところはすっかり影を潜め、チカは一心不乱に墨と紙に向かう。それなのに今日は、俺に話しかけてきた。不思議だ。やっぱり、今日が最後というのは、このチカをもってしても何かしら考えさせるのだろうか。
「あのね。手を握ってほしいの」
「手を?」
俺はギョッとした。「何を言いだすんだこの娘は!」と、心の中で叫んでしまった。やはり、やめるのが辛いのだろうか。
「ここが、まっすぐ書けない」
そう言いながら、チカはお手本を指差した。うちの教室は、作品ができたら先生に見てもらう方式だ。普段から俺もチカも静かに書に向かっているからか、先生は終わる間際まで教室にやってこない。放任甚だしい教室ではあるが、互いに書に向き合えるこの空間は、俺たちに合っていた。お互いたまにこうやって教えあうこともあるが、今日は異例だ。驚きゆえに、チカの言葉に一瞬躊躇してしまった。「なんだ、うまく書けないのか」と頼られたことが素直に嬉しい気持ちと、「こんな時でも書道かよ」と、なんとも言えない気持ちが溢れた。いやいや、何を考えているのだ俺は。
「木偏か。こういうのは手首をうまく使うんだ」
俺はチカの手に自分の手を添え、勢いよく動かした。人に教えるなんて高尚なことをしている気恥ずかしさからか、それとも、チカに自分の手を添えていることに動揺しているのか、勢いとは裏腹に中々うまく進まない。時折感じるチカの体温が、尚のこと難しくさせた。
「おお! ありがとう。うまく書けたよ」
「こういうのは、迷っちゃ駄目だ」
俺、もとい俺たちは、なんとか紙にまっすぐな線を書くことができた。よく見ると歪といえば歪なところもある。しかし、この上なくうまく書けたと言えばそうも見える。これを超える木偏は、暫く書けないだろう。そして、これを二人でやりきったことで、俺は一つの決心を固めることができた。
「あのさ、チカ」
「何、アキト君」
「やっぱり、高校入ってからも書道やれよ。木偏ぐらいで難儀してるようじゃ、まだまだ卒業なんて駄目だって」
「あら、木偏はもう書けるよ。それに払いや行書は、私の方がうまいよ」
「うまさの問題じゃないよ」
「じゃあ、どんな問題?」
「分かってるだろう?」
「うーん、それでも、教室には通えないよ?」
「いいよ、それでも。書道やってたら、またどこかで会えるよ。書展とかさ」
「その時は、アキト君が銀賞で、私が金賞だね!」
「馬鹿、逆だ逆。俺が金賞」
「言うね。それか、二人とも選外だったり」
「じゃあ、その時は二人でがっくり肩でも落とすか」
「まあ、私は書道部が有名な桜ヶ丘高校に進学が決まっているから、選外はないと思うけどね」
「え? チカって桜高?」
その言葉に、俺は思わず尋ねた。思えば、俺たちは同好って感じで、学校生活とか話したことがなかったっけ。そもそも、学校も違うし。そうこう考えながらチカを見てみると、とても不思議な顔をしていた。
「あれ、言ってなかったっけ? 推薦もらえたんだ」
その言葉に、俺は笑った。大いに笑った。チカは横でキョトンとしている。
「ふ、ふふっ。ははははは。チカ、悪いな。たぶん、すぐ会えるわ」
「すぐって、なんで?」
「俺も桜高。一般入試でだけど」
「え? 本当!」
「こんなところで嘘なんか言わないって」
この後、お互いのクラスや入試について、色々話した。正直、内容はあまり覚えていない。それよりもチカと同じ高校に行ける。それだけで十分だ。最後に教室終了後、部屋を出るときチカが尋ねてきた。
「ちなみに、高校の部活はもう決めた? 私は書道部だけど」
その質問に、俺はただ一言、こう答えた。
「もちろん、書道部で」
もりやす たかと申します。久しぶりに書きました。見てください!