五百円にも心がある
五百円玉にも心がある。硬貨のリーダーとしての誇りも少しはあるが、その心の大半はオーナーに対する思いに埋め尽くされていて、もちろん声にはならないから、その思いは五百円玉の奥の奥へとしまわれていく。だが、五百円玉の気持ちはいつでも複雑なので、時々にはその思いを消費してやらないといけない。
例えば、自動販売機があったとする。五百円玉のオーナーがここで立ち止まって財布を取り出した瞬間から、五百円玉の心は複雑に絡みだす。つまり、無論オーナーに可愛がって欲しいから、ぜひともに使って欲しいのだが、一方でオーナーと今生の別れをして暗い狭い販売機内に入る事に対する恐れもある。だが、百円玉や十円玉が使われる事によってオーナーの自分に対する愛を疑ってしまうのも怖く、千円札が取り出された後に、恐らくやってくるであろう新入りの五百円玉に対する嫉妬もある。そんな苦悩の中、どうも気に入る飲み物がないとオーナーが財布をしまってまた歩き出すと、五百円玉はほっと胸を撫で下ろしたりするのだ。
だが、そんな悩める五百円玉の、奥の奥に存在する複雑になった思いを解消するのは、そう難しい事でもない。例えば、磨いてやる。平成二十年、なんて書かれた五百円玉は、たくさんの思いの交錯を中に溜め込んでいるのだが、磨いてやると外面もかつての輝きを取り戻し、内面でもオーナーの自分への愛を確認する事ができて、その後自動販売機に投入されようが新しい五百円玉が来ようがたとえ両替されようが、五百円玉の心中は穏やかである。何故なら、そこに愛がある事を、五百円は知っているから。もしオーナーが、この五百円玉は格段に美しく見えるから、飾っておこう、なんてした時には、その五百円玉は他の五百円玉よりも幸せな五百円玉になる事ができる。
たった五百円の出費で、一つの五百円玉を幸せにできる。それはある意味での理想だとは、思いませんか。