◇2011年7月29日金曜日夕方:神戸市◇
◇2011年7月29日金曜日18:10-神戸市◇
「っざけんな。このヤロぉ・・・。」
三宮駅前の雑踏の中、不覚にも僕は口に出してつぶやいていた。
連なってそごうの歩道橋を上がり降りする人々。
JR口に吸い込まれるスーツ姿の背中。
西口の高架下を走り抜けるヘッドライトの渦、クラクション、アスファルトの饐えた匂い。
マルイの前の女子高生とおぼしき集団から発せられる嬌声、引き笑い。
____ あの日、僕の目の前に存在するすべてが、
僕の気持ちを苛立たせる光景、雑音、悪臭であった。
「ん、どうしたの?いま、なんか言った?」
隣を歩くサチが2、3歩タタっと追いつくように小走りして、左腕に絡みついてくるが、詠治は無言でサチの腕をふりほどきながら、足早に歩を進めていく。
「ねぇ、スチーブンってばー」
もう一度、詠治の左腕を掴もうとして、Tシャツから伸びた色白の細い腕をグっと前につき出したと同時、詠治が不意に歩を止めた。
「わっ☆」
ドン。
「うぐっ...」
勢いがついていて止まれなかったサチの右腕は、詠治の左ひじとわき腹の隙間をすり抜け、形の良い"おでこ"を詠治の左肩にしたたか打ちつける格好になってしまった。
しかも、詠治の左ひじが、ちょうど胸と胸の真ん中、いわゆる鳩尾のトコロに、"ゴン"とヒットしたものだから、サチは一瞬息が出来なくなってしまったのだ。
「・・・お前、ナニやってんの。」
「・・・うぅー。」
「お前さぁ、今日もう帰れよ。俺、行きたいトコあるし。」
やっと息が出来るようになったサチは、少し涙目で詠治の顔を見上げながら、
「もー!スチーブンが急に止まるからじゃない!息、出来なかったんだからぁ。
あーびっくりした。
だいたい、か弱き乙女が急に止まった自分のそのぶっとい腕に不幸にも後ろからぶつかって、
その上振り返ったら、目の前で息が出来なくて苦しんでたら、
フツーは『大丈夫か?』じゃないの!?
それを、『ナニやってんの』って...ナニよぉ!!
しかも、『もう帰れって』どーゆぅことぉっ!」
と、一気にまくしたてた。
「だってサチ。信号、赤だぞ。」
「えっ・・・」
キョトンとした表情でまわりを見渡すサチの周囲から、クスクス笑い声があがる。
____ サチは、僕のことを「スチーブン」と呼んだ...
サチはアルバイト先の後輩。神戸市内の大学に通う19歳か20歳。てことは2回生かな。
チャーム皿の洗い物をしていた俺のことをつかまえて、「ねぇ、スチーブンさん」と(アルバイト2日目にして)、さらっと呼びやがった。
「ん?俺のこと」と当然のごとく戸惑う俺に向かって、さも当然のように、「ほかに誰かいます?」だと。
「なんだよ、それ?」という俺のありきたりな質問を完全にシカトして、「ダスターの在庫ってどこですか?」と自分の聞きたいコトだけ聞き出して、悠々と自分の仕事に戻っていった。
その日以降「スチーブン呼ばわり」するサチ。
不思議とバイト先の連中はサチ本人ではなく俺に「なんで?」と質問してくるが、
「知らねぇよ」とたんびに答えるしかなく、だんだん面倒くさくなってきて、ある日、勝手口から裏通りに出たところに設置してあるスタッフ用の喫煙スペースでたまたま一緒になったときに、
「ところで、なんでスチーブンなんだよ、俺」と不本意ながら自ら問いただすハメになった。
サチはタバコの煙の向こうで、目を丸く見開いたびっくり顔。
「え?かれこれ1ヶ月フツーに受け入れておいて、いまさら理由聞くの?」
「・・・。受け入れてるわけじゃねーよ。放っておいただけで。」
ふーん、て感じで、俺の肩に少しナナメ下から顔を寄せてきて、ニヤっと笑ったときに微かに練乳に似たサチの体臭を感じて、無意識に少し上体を仰け反らせてしまった。
「やめて欲しいの?」となぜか勝ち誇った表情。
「当たり前じゃないか、意味わかんねぇし。」と、返す俺にさらに近寄ってきて、
「じゃ、理由説明したら、これからもスチーブンって呼んでいい?」だと。
「どーせダメって言っても、素直に言うコト聞くタイプじゃないだろ。お前さ。とにかく理由を述べよ。」
と、ここで身体を遠ざけたら、なんか俺がこの小娘にドキドキしたみたいな状況になりそうで、
少しムキになって左手でサチの右肩を掴んで、細い金色の糸のような産毛が揺れているおでこに、
俺のおでこがつきそうなくらいぐっと顔を寄せて正面から目をのぞき込む。
そこに、バンッという音と共に勝手口が開いて、バーテンのヒデが出てくるなり、
「エージさん!・・・。お!・・・。あっ。スミマセン。お邪魔しましたっ。」
ってアセってドアの向こうに引っ込んでいった。
サチは、ドンっともう一回閉まった勝手口のドアに移した視線を俺の目に戻すと、
「へっへっへ。」とちょいと下品な笑い声をあげる。
「おいおい・・・。完全に誤解したぞ、アイツ。」
「いいから、お願いしなさい。」とサチ。
「はぁ?なんの?」と、間抜けな質問の俺。
「理由でしょ、スチーブンさんが『なにゆえ』スチーブンさんなのか、知りたいんでしょ」
「フツー知りたいことを教えてもらうときは、お願いをする、違う?」
くっ・・・。完全にこの小娘のペース。
結局「お願い」させられるし、ヒデはグラスを拭きながら「みんなには黙っておきますから」みたいに器用にウィンクをしてくるし、割りに合わない損害と引き換えに、やっとのことで「スチーブン」の理由を聞き出したわけ。
で、なぜ「スチーブン」かというと、サチの感性の中で俺は「沈黙のなんとか」という映画で見た「スティーブン・セガール」らしいのだ。
見た目は、まったく似ていない...と思う。あそこまでマッチョでもねぇし。いまだに意味わかんねぇ。
_____ とにかく、今はそんなことはどうでもいい。今日はサチとじゃれている余裕は無いのだ。
詠治は青色に変わった信号をナナメに見ながら、交差点を一気に走り抜け、JR三宮南口へと続く陸橋の階段を3段飛ばしに駆け上がる。
はるか後ろから、「スチーブーン!バカー!」という声が聞こえたような気がしたが、勿論振り返ることはしない。
改札を抜けるとホームへの階段を一気に駆け下り、停車していたオレンジ色の上り電車に飛び乗る。
すぐにプシュっという空気音と共にドアが閉まると、ドアのすぐ横にタテに取り付けられた手すりに右手を掛け、ドアのガラスの部分に右肩を押し付けるような体勢で、徐々にスピードを上げる電車の外に夕暮れのホームの端っこを確認してから、詠治は今の状況をもう一度思い起こす作業に取り掛かった。




