DON'T CHILL THE BANANA(バナナを冷蔵庫に入れるな!)
人間の皆様へ。
バナナの取り扱いについて、ひとつ苦情がある。僕たちを冷蔵庫へ入れるのはやめていただきたい。
長持ちさせたいという気持ちは分かる。しかし、善意であれば何をしてもよいわけではない。僕たちの皮は寒さに弱く、冷やされると黒くなる。親切にも、向き不向きというものがあるのだ。
さて。苦情を申し立てるなら、先に名乗るのが礼儀だろう。
僕はバナナである。名前はまだない。スーパーマーケットの青果売り場では高地栽培フィリピン産と呼ばれていたが、それは名前ではなく出身地の紹介だろう。
人間だって埼玉産と呼ばれ続けたら、多少は複雑な気持ちになるはずだ。おまけに額へ「もっちり濃厚な甘み」と印刷されたシールまで貼られた日には、たいていの埼玉県民は静かに店長を呼びにいくと思う。
僕のシールにはこう書いてあった。
「ヘルシー&朝のエネルギー補給に最適!」
役に立てるならば悪い気はしない。ただし人間というのは、深夜にもバナナを食べる生き物である。缶ビールを三本空けたあとで、最後にひとつだけ健康的なものを口にしておこうと考えるらしい。
バナナ一本で、それまでの不摂生が帳消しになるわけもないのに。人間の健康観というものには、ときどき不思議な辻褄の合わせ方がある。
僕たちは五本一房で売られていた。
房の左端に陣取っていたのは、自分をマイケルと名乗る楽天的な一本である。どうしてマイケルなんだと僕が訊くと、外国っぽいからと胸を張った。
「僕たちは全員が外国産だよ」
「ならば全員マイケルでいい」
「会話が成り立たなくなる」
マイケルはしばらく考えたのち、僕をマイケル二号と呼ぶ案を提出したので、丁重にお断りした。
その隣には、いつも遠くを見つめているような雰囲気の無口な一本がいた。もっとも、バナナに目はない。たまたまそういう角度に曲がっていただけだろう。
残りの二本は、自分たちを双子だと主張していた。
「同じ房に生えていたのだから双子だ」
「でも大きさがずいぶん違う」
「人間の双子だって身長は違うだろう?」
筋は通っているようにも、いないようにも聞こえた。しかし二本とも自分を兄だと言い張ったため、話はそこで行き詰まる。僕たちは便宜上、大きいほうを兄と呼ぶことにした。
根拠はない。人間社会の呼び名というものも、よくよく調べてみればその程度なのかもしれない。
僕たちを買ったのは、三十代半ばくらいの男だった。紺色のコートを着て、片手に買い物かごを提げている。
かごの中には缶ビールとエナジードリンクがあり、その隣には冷凍餃子と歯磨き粉が入っていた。食生活に問題があるものの、歯は守りたいらしい。
男は僕たちの房を持ち上げ、裏返し、匂いを確かめたあと、いったん売り場へ戻した。別の房にも同じことをしてからリンゴをしばらく眺め、キウイを一個だけ触ってから、結局また僕たちのもとへ戻ってきた。
「決断のできない男だな」
マイケルが呆れたように呟いた。
「慎重なんだろう」
「バナナを買うだけだぞ?」
それはそうだった。男は僕たちをもう一度持ち上げ、しばらく眺めてから、ようやく買い物かごに入れた。
選ばれたのだ。
バナナにとって選ばれるということは、近い将来に食べられることを意味する。喜ぶべきなのかどうか、僕には判断がつかなかった。就職活動に似ているのかもしれないが、僕たちの場合は採用されたあとに食べられる。
「いよいよ新生活だな!」
房の左端から、弾んだ声がした。
「食べられるだけだよ」
「君は悲観的すぎる」
「君は現実を見なさすぎる」
「バナナに目はないからな」
マイケルは機嫌よく笑った。
僕は彼のことを少し嫌いだった。そしてたぶん、少し好きでもあった。好意と嫌悪の境界というのは、熟しかけたバナナの皮の色に似ている。緑がどこまでで、黄色がどこからなのか、はっきりとは分からないのだ。
男の部屋は、都内のワンルームマンションにあった。
小さなテーブルとベッド。壁際には二人掛けのソファが置かれているが、そのソファに二人の人間が並んで座った形跡はほとんど見当たらなかった。
窓辺には観葉植物が一鉢。葉先は茶色く変色し、鉢の土はすっかり乾いている。枯れかけた葉が、かすかに揺れた。
「新入りか?」
「そうです」
「果物?」
「見れば分かるでしょう」
「会話のきっかけというものだよ」
観葉植物はいかにも疲れたふうに葉を垂らした。
「ここでは水を期待しないほうがいい」
「僕たちは水を必要としません」
「羨ましいね」
その声には、冗談として受け流すには少し重い響きがあった。
僕たちはキッチンの果物籠に置かれた。底には輪ゴムが三本と、何の鍵だか分からない小さな鍵がひとつ転がっている。隣には、ネットに入ったタマネギが三個。
「なんだ、果物か」
そのうちの一個が、面倒くさそうに口を開いた。どうやら歓迎されてはいないらしい。
「そうです」
「甘いだけの連中だな」
「あなたたちは切られると、人間を泣かせるそうですね」
「ああ。俺たちの誇りだ」
自分が傷つけられた結果、相手が泣くことを誇りに思う。そういう複雑な関係も世の中にはあるらしい。
その夜、男は冷凍餃子を焼いた。
フライパンに餃子を並べ、水を注ぎ、蓋をする。そこまでは悪くなかった。しかし途中でスマートフォンを眺め始めたために、やがて部屋じゅうに焦げた匂いが漂いだした。
男は慌てて蓋を開け、水を足した。完成した餃子は底が黒く焦げ、上半分は水っぽく、中央だけがまだ冷たかった。
無口なバナナが初めて口を開いた。
「……器用な人だ」
「反対だよ」
男は餃子を皿に移し、缶ビールを開けた。テレビもつけたが、画面にはほとんど目をやらない。スマートフォンで誰かに向けて文章を打っては消し、打っては消している。結局は何も送らないまま、画面を伏せてテーブルに置いた。
「やはり決断のできない男だな」
マイケルが改めて断言した。
「君の見立ては正しかったよ」
「僕は人を見る目がある」
「目はないけどな!」
双子が同時に言い、マイケルは黙り込んだ。
窓辺で観葉植物が小さく葉を揺らした。笑ったのだと思う。
◇
翌朝、最初の一本が食べられた。
双子の兄だ。
男は寝ぼけた顔で起き上がると水を一杯飲み、ほとんど迷うことなく兄を房から外した。
「待ってくれ!」
弟が引き止めた。
「最後に、どちらが兄だったか決めよう!!」
「僕が兄でよかったよ」
「どうして」
「弟というのは、兄よりも長く生きるべきだからさ」
立派な言葉だった。ただし彼が本当に兄であったという証拠は、最後までどこにもなかった。
男は皮を剥いて三口で食べた。一口目が大きすぎたせいで、三口目はやや苦しそうだった。最初の段階で計画性を欠くのは、この男の生活全般に通じる傾向であるらしい。
残された弟は黙っていた。
兄はこれから消化され、男を動かすエネルギーの一部になる。その力で会社へ向かい、会議で頷き、エレベーターの閉じるボタンを何度も押すのだろう。帰宅すれば誰かに文章を書き、やはり送らずに消す。
そう考えると、兄の犠牲は少し割に合わない。
◇
二日目の朝、マイケルの番がやってきた。
男は冷蔵庫から牛乳を出し、棚の奥に仕舞い込んでいた小さなミキサーを引っ張り出した。容器の表面にはうっすらと埃が積もっている。
「ついに来たな」
「怖くないのか」
「僕は形にこだわらない主義だ。それに、スムージーというのは都会的でいい」
「どのあたりが?」
「名前の響きだよ。田舎ではバナナ牛乳と呼ばれる」
偏見だと思ったが、別れ際にする議論でもなかった。
男はマイケルの皮を剥いて容器に入れ、牛乳を注ぎ、冷蔵庫の奥からミツバチの描かれた瓶を取り出した。
「蜂蜜まで入れるのか。僕の甘みだけでは信用ならないというのか」
傾いた瓶から、金色の液体が惜しげもなく流れ落ちていく。適量という言葉は、男の辞書にはないらしい。
「待て、それは多い。僕は高地栽培だぞ」
ミキサーが回り始めた。
僕たちは黙ってその音を聞いていた。タマネギも口を閉ざし、窓辺の観葉植物は気まずそうに外を向いている。
数十秒ののち、マイケルは液体になった。
男はスムージーをグラスに注ぎ、一口飲んだ。
「甘すぎるな」
その瞬間、マイケルの魂が天井のあたりで激怒したような気配がした。
◇
三日目の朝を迎えたとき、残っていたのは僕と無口なバナナ、それに双子の弟だけだった。皮のあちこちに茶色い点が浮かび始めている。斑点が増えたねと僕が言うと、弟は首を振った。
「斑点じゃない。模様だ」
「同じことだろう」
「斑点と呼べば劣化になる。模様と呼べば個性になる。言葉というのは大事だよ」
弟は自分の皮を確かめるように、ゆっくりと身体を曲げた。大きな茶色い部分は大胆さの証、色の濃い箇所は経験の蓄積だという。先端が少し柔らかくなってきたことについて訊ねると、包容力だと答えた。
言葉は、たしかに大事だった。
その日の夕方、男は一人の女を連れて帰ってきた。女は玄関で靴をきちんと揃え、部屋に入ると窓を開けた。真っ先に目を向けたのは、窓辺の観葉植物だ。
「この子、まだ生きてる?」
「たぶん」
「水はあげてるの?」
「たまに」
観葉植物が小さく枝を揺らした。嘘をつくなと言いたいのだろう。女はコップに水を汲み、鉢にそっと注いだ。変色した葉先がかすかに震える。
「神はここにいた」
「ただの水ですよ」
「水を必要としない者には、分からないだろうね」
それは、そのとおりなのかもしれなかった。
女は次に僕たちのほうを見た。
「このバナナ、もう危なくない?」
危なくはない。僕たちは刃物も毒も持っていないし、夜中に房から抜け出して人間を襲った前科もない。ただ静かに甘くなっているだけだ。それでも人間は、茶色い斑点の増えたバナナを食品ではなく事件として扱い始める。
「バナナケーキにしようよ」
双子の弟が震えた。
「僕はケーキになりたくない」
「ケーキになれば、もっと個性的になれるじゃないか」
「個性と加熱は別問題だ」
男はスマートフォンでレシピを検索した。必要なのは薄力粉、卵、バター、砂糖。卵と砂糖は部屋にあるが、薄力粉がない。
「材料があれば作るけど」
「もう外に出るのは面倒だな」
僕たちは息を呑んだ。
三本のバナナの運命が、徒歩四分のスーパーを面倒に感じる一人の男に委ねられている。人間の歴史においては、勇気や信念が数多くの命を救ってきたと聞く。しかし台所においては、面倒くささもまた、同じくらい多くの命を救っているのだ。
男はしばらく考えたのち、ソファに腰を下ろした。
その夜は何も作られなかった。
「助かった」
「一日延びただけだよ」
「君は悲観的すぎる」
それは以前、マイケルにも言われた台詞だった。
僕は天井を見上げた。正確には、そういう気分になっただけだ。マイケルの魂はもうあの天井にはいない。もっと自分の甘みを正当に評価してくれる場所を求めて、都会の空を漂っているのかもしれなかった。
翌朝、男は双子の弟をそのまま食べた。
「ケーキの話はいったい何だったんだ」
弟はそう言い残して、房から外された。
◇
僕と無口なバナナの二本だけが残った。
彼の皮はもうかなり黒ずんでいる。房の外側にいたために、運搬中にどこかへぶつかった痕もあった。以前は遠くを見つめているように見えた曲がり具合も、いまではただ疲れているだけのように見える。
怖くないのかい、と僕は訊いた。
彼はすぐには答えなかった。もともと沈黙の長いバナナだった。返事を考えているあいだにも、熟成だけは着々と進んでいるのかもしれない。やがて彼は言った。
「バナナには二つの死がある」
「二つ?」
「食べられることと、食べられないことだ」
「食べられることも死なのか」
「形がなくなるからね」
「食べられないほうは」
「意味がなくなる」
僕はその言葉についてしばらく考えた。哲学的にも聞こえるし、単に熟しすぎた果物の独り言にも思えた。
その夜、男は彼を手に取った。親指で皮をそっと押すと、そこだけが深くへこんだ。
「これはちょっと無理だな」
男は彼をゴミ箱へ捨てた。
無口なバナナは、最後まで何も言わなかった。目はないはずなのに、蓋が閉じる瞬間、そっと目を瞑ったように見えた。
◇
僕は一人になった。
仲間がいた場所には、乾いた房の跡だけが残っている。窓辺の観葉植物はあの日に水をもらったおかげで、以前よりも少しだけ元気を取り戻していた。
「寂しいか?」
「バナナは房で売られますが、食べられるのは一本ずつです」
「答えになっていないよ」
「寂しいです」
観葉植物は何も言わず、ただ静かに葉を揺らした。
翌朝、男はコーヒーを飲みながら僕を眺めた。僕の皮にもたくさんの模様がある。大胆さと経験。それから包容力。言葉を上手に選びさえすれば、僕はなかなか魅力的なバナナだった。
男は僕を持ち上げた。
「これはまだいけるな」
その言い方が、少し引っかかった。
人間がまだいけると口にするとき、その裏側にはいずれ駄目になるという意味が必ず潜んでいる。まだ若い。まだ使える。まだ間に合う。人間は短い言葉のなかに、時間への不安をそっと詰め込む生き物なのだ。
僕は食べられる覚悟をした。
形を失うことと、意味を失うこと。もしどちらかを選べるのなら、食べられるほうがいい。
しかし男は皮を剥かなかった。
彼が開けたのは冷蔵庫の扉だ。
「長持ちするかな」
やめろ。冷蔵庫だけはやめてくれ。
男は僕を棚の上にそっと置き、何も知らない顔で扉を閉めた。暗くなった庫内には、半分に切られたキャベツがあり、その隣に賞味期限を過ぎたヨーグルトがいる。奥のほうには、いつ開封されたのか分からないオリーブの瓶もぼんやりと見えた。
「新入りかい?」
「そうです」
「日付は?」
「日付?」
「賞味期限だよ」
「書いてありません」
ヨーグルトは少し間を置いた。
「自由なんだね」
自由ではない。いつまで大丈夫なのか、誰にも正確には分からないというだけだ。その点では、人間も似たようなものなのかもしれない。
翌朝、冷蔵庫の扉が開いた。
男は棚の隅にいる僕を見つけた。昨夜そこへ入れたのは彼自身であるのに、まるで予想外の荷物が届いたかのような顔をしている。
「ずいぶん黒くなったな」
冷蔵庫に入れられたバナナとしては、ごく正常な経過である。驚くべきなのは僕の色ではなく、男がその変化をまるで予想していなかったことのほうだろう。
彼は僕を取り出し、匂いを嗅いだ。皮を親指で押し、念のためにもう一度匂いを確かめる。一度目と二度目のあいだに何かが変わるとは思えなかったが、人間は不安になると同じ行動を繰り返す。
男はスマートフォンを手に取った。検索窓に黒くなったバナナは食べられるのかと入力する。
表示された記事には、皮が黒くても中身に問題がなければ食べられると書いてあった。熟したバナナはむしろ甘みが増すらしい。ただし異臭やカビがあれば捨てるようにという注意書きもあり、男はそこで指を止めた。
記事を三つ読み、動画も二本見た。最後には専門家らしき人物が黒いバナナを笑顔で食べるところまでしっかり確認した。それでもなお、彼は僕の皮を剥こうとしない。
「……食べられるのか」
食べられると書いてある。
「でも黒いよな」
それも書いてある。
男は僕と画面を交互に見比べていた。正しい答えを知っただけでは、正しい行動を選べない。そこには深い溝がある。バナナ一本のために用意するには、いささか大げさな溝だが。
しばらく迷った末に、男は僕を冷蔵庫へ戻した。
「明日考えよう」
扉が閉まり、庫内の光が消えた。
僕はスーパーで彼に選ばれた日のことを思い出していた。あの日も男は僕たちを手に取っては戻し、別の房を眺めてから、またこちらへ戻ってきた。
マイケルは最初から見抜いていたのだ。
僕は食べられるのだろうか。それとも捨てられるのだろうか。どちらにしても、行き先はすぐに決まるものだと思っていた。
どうやら違ったらしい。
僕の運命は、選ばれることではなかった。選ぶことのできない男のそばで、決断を明日へ、また明日へと延ばされ続けること。それが僕の運命だった。
考えてみれば、最初からすべては決まっていたのかもしれない。
決まらないということだけが、最初から決まっていた。




