父の書斎
「お前のために言っているんだよ」
その言葉が耳にこびりついて離れない。
父の書斎は部屋の三面全てが天井ぎりぎりまで高さのある本棚で、専門書から娯楽小説までがびっしりと詰まっている。扉から入ってすぐに目に入る正面の本棚に収められているのは特に難解な学術書の類で、その分厚い背表紙たちを見るたびに圧迫感を覚えた。硬く詰まった木目を磨いた重厚な机はいつも整理され、無駄なものが一切ない。革張りの椅子に座り、父はいつも何かに苛立っている。
「何だ、これは?」
足を組んでテストの答案用紙を左手に掲げ、父は彼女を険しい目で見上げる。彼女は青白い顔でうつむいた。父は右手で答案用紙を叩く。パシッという乾いた音が響く。
「この点数は何だと言っている!」
怒鳴り声に肩が震える。父は蔑みを声に込める。
「なぜ、百点じゃないんだ!」
答案用紙には九十七の数字が赤で書かれ、一ヶ所にだけ三角の印が付けられている。彼女はかすれた声で「ごめんなさい」と言った。父の声が苛立ちを増す。
「謝って済むと思っているのか!」
左の頬に衝撃が走り、一瞬視界が眩む。彼女は頬を押さえた。父は立ち上がり、彼女の顔に答案用紙を押し付ける。
「いいか。お前は手を抜いたんだ。このくらいでいいだろうと妥協したんだ! お前の甘えがこの結果だ! そういう人間はな、いつでも楽をすることばかり考えるようになるんだ! その場しのぎの場当たり的な人間になるんだ!」
父はさらに強く答案用紙を押し付け、彼女はよろけるように後ろに下がった。扉に背が当たる。父は彼女の顔を扉に押し付ける。
「私はお前のために言っているんだよ。道を誤ろうとしているお前を、正しい道に戻すのは親の役目だ。分かるね?」
固く目を瞑り、彼女は消え入るように「はい」と答える。父はようやく彼女を扉に押し付けていた手を離した。
口の中を鉄の味がする。
「何だこれは?」
今日も父が書斎で苛立っている。手に持っているのは彼女の部屋に置いていた読みかけの小説だった。海外の児童文学賞を取ったファンタジー小説。彼女は小さな声で「ごめんなさい」と答える。父は彼女の小説をゴミ箱に投げ捨てた。ガタンと音を立ててゴミ箱が倒れる。
「こんな幼稚なものを呼んでいるから、いつまで経っても甘えた性格が治らないんだ!」
父が声を荒らげる。彼女の肩がビクリと震えた。父は立ち上がり、彼女の襟首をつかんで扉に押し付ける。
「こんなものは逃避だ! こんなものを見ている暇があったら学術書を読め! 自分の価値を高める努力をしろ! お前に無駄な時間を過ごす自由などないんだ! 分かったな!」
襟首を締め上げられ、彼女は苦しげに呻く。父はようやく手を離し、不快そうに鼻を鳴らした。激しく咳き込み、彼女は膝をつく。父は彼女を冷たく見下ろした。
「私はお前のために言っているんだよ。一度逃げ癖が付くと、人間はいつでも安易に逃げるようになる。私はお前にそんな人間になってほしくないんだよ。分かるね?」
固く目を瞑り、彼女は消え入るように「はい」と答える。父は満足げに頷いた。
鼻の奥で鉄の臭いがする。
「何だこれは?」
いつものように父が書斎で苛立っている。手に持っているのは彼女のスマートフォンだった。以前、テストで百点を取ったときに買ってもらったもの。今度は何に対して怒るのだろう。彼女はうつむく。
「この検索履歴はなんだ!」
くだらないサイトを見るな、時間を無駄にするな、いつの間にそんなことが許される立場になった。矢継ぎ早の叱責。熱を持った頬に手を当てる。
「私はお前のために言っているんだよ」
ああ、早く終わらないかな。
視界がぼやけ、声が遠くに聞こえる。
「何だこれは?」
父が何かを手に持って怒鳴っている。何かを投げ捨て、父は苛立たしげに煙草を取り出した。高級ライターがやけに光を反射している。
「私はお前のために言っているんだよ」
押し付けられた点の痛みは、すぐにぼやけて消えた。
「何だこれは?」
父が何か言っている。
「私はお前のために言っているんだよ」
「何――れは?」
何か言っている。
「私―お――ため――って―――だよ」
「―――――」
「――――――――――――――――」
父の書斎に、ひとり、立っている。彼女の手には父の高級ライターがあった。蓋を開け、火を点ける。やけに長い火が立ち上る。
彼女は無造作に、ライターを本棚に向かって投げた。ライターが放物線を描き、学術書に当たる。ライターの火が背表紙をあぶった。煙が立ち、火が付く。広がる。縦に広がり、横に広がる。赤い炎が壁を這い、部屋を包む。
本棚が燃えている。本が燃えて灰になる。机が燃える。椅子が燃える。父の書斎が、燃える。
彼女は笑った。嬉しそうに笑った。大きな声で、笑った。書斎は炎に包まれ――天井が崩落した。
「もしもし、消防ですか? あの、突然、部屋から火が! え? ああ、私は外に出て、携帯で通報を――他に、ですか? いえ、夫は仕事ですし、娘は学校に行っているはずです。家には誰もいません」




