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その少女は魔女と呼ばれた

作者: S屋51

随分と前に書いたものです

ちょっと長いですが「短編」の枠になります

  0


 僕は忘れない。生涯忘れることはできない。

 エメリッヒ・ブラウンと過ごした最後の夏のことを。

 僕がエメリッヒ・ブラウンを殺したあの日のことを。


  1


 小さな田舎の村で殺人事件が起きた。

 人口四〇〇に満たない小さな村で、病死、自然死、事故以外で死者が出たのは何年ぶりだったか。村へ向かう車中で考えてみたが、アンスバッハ警部は思い出すこともできなかった。それどころか刑事事件、地元保安官の手に余る事件が起きたことすら記憶にない。

 アンスバッハ警部が記憶している限り、ローゼ・ナッハ村は静かでのんびりした、休暇にマス釣りに行くのに最適なところだった。村の名の由来ともなったローゼ湖の畔にある、ホテルとは名ばかりの宿の主人とは一五年来の知己だった。

 田舎の村でありがちな保守的な気風で、住民の多くは敬虔な人々で、迷信深く、初めてアンスバッハが訪れた折も随分と警戒された。

 アンスバッハが警官であると知れても中々打ち解けては貰えなかった。そんな土地柄であるから観光地としての発展は望めないし、住民たちも望んでいないだろう。稀に起こる騒動と言えば、パブでの酔っ払い同士の喧嘩程度で、保安官が出るまでもなく収まる話だ。田舎の村として慎ましく暮らして行くのが彼らの望みだった。

 そんな村で殺人が起きた。

 ―エメリッヒ

 警部は口中で小さく被害者の名を呟き、暗い気分になった。

 保安官事務所からの話では、被害者はエメリッヒ・ブラウン。まだ一四才の少女だ。

 アンスバッハ警部は彼女のことを知っていた。赤毛でソバカスのある可愛らしい娘だった。警部と会うといつも愛想良く挨拶をしてくれた少女。その彼女が死んだという。それも殺人だ。

 いつかこんな日が来るのではないかとどこかに予感はあった。

 それでもまさかそこまではしないだろうと思っていたし、村の人々の良心を信じてもいたが、彼女が殺されたと聞いてアンスバッハ警部はやりきれない気持ちになった。

 エメリッヒ・ブラウンの家系はローゼ・ナッハ村にあって特別な意味を持つものだった。

 一言で言ってしまえば、ブラウン家は『魔女』の家系として恐れられていた。

 アンスバッハが聞いた話では、ブラウン家は村一番の古い家柄だった。森が開拓されて村ができる前からその土地に住み着き、怪しげな儀式を執り行う異教徒だった。

 敬虔な人々にとっては異教徒というだけでも罪なのに、何代か前の先祖が陰惨な連続殺人を犯した。それが決定的となり、ブラウン家は村から隔離された存在となった。

 しかし、先祖が起こした事件はエメリッヒにはなんの関係もない話だ。それに、あの土地に先に住んでいたのはブラウン家だ。後から来て、自分たちの宗教と違う神を信奉していることを理由に廃絶するなど時代錯誤な話ではあるが、しかしあの村はまだそういう迷信が残る村でもあった。

 エメリッヒが殺されたと聞いたとき、すぐに数名の顔が頭に浮かんだ。自らの神を深く信じる敬虔な人々は、しかし異教徒であるエメリッヒに対しては異常なまでに冷たかった。

 エメリッヒ・ブラウンに好意的、或いは中立だった人間は非常に少ない。

 医者のダルトンは理性的な男で、信仰心はあったが病を治すのが自らの仕事として異教徒だろうと誰だろうと決して分け隔てはしなかった。日頃から親しく付き合いまではしていなくとも、ブラウン家の人間が病になれば医師として駆け付けてその職務を全うした。

 彼のような人間は稀だ。村人の大半はブラウン家の人間を忌避していた。そしてダルトンでさえ、村人の眼を気にしてか普段からブラウン家と付き合ってはいない。エメリッヒが私生児であったこともまた村人たちの反感を買った理由かもしれない。

 私生児は彼らの信仰に反する。アンスバッハ自身はそんなこと気にもせずに彼女と接し、彼女自身からブラウン家のこともいくらか聞いた。それは職業病とも言える好奇心のせいだ。ブラウン家が何者かを知りたがったわけだ。

 ブラウン家は元々森に住まう民の末裔らしいとのことだったが、エメリッヒもその母親もそれ以上詳しいことは知らなかった。だが森のことは実に良く知っていた。森を愛し、森の一部となって生活するのが彼らのやり方であり、そのため村人たちが居住範囲を広げるために新たに森を開拓することに難色を示したのも村人との確執の一つとなった。森の民であるブラウン家にとっては、森の木々はすべて家族同然であり、自分たちの一部だった。

 彼女らは薬草学に詳しく、食用になるものとそうでないもの、どこにどんな植物群があるのか、森のことならなんでも知っていた。森にいれば食べ物に困ることもなかった。

「警部さんはわたしを捕まえたりしないの?」

 初めてエメリッヒと話したとき、少女は不思議そうな顔でそう尋ねて来た。村人たちから忌避されている自分をアンスバッハが逮捕するのではないかと心配していたようだ。

「何故だね? 君はなにか悪いことをしたのかい?」

 エメリッヒは首を横に振った。

「でも、わたしは魔女だから」

「一昔前なら異端審問官でも来たかもしれないがね、私の仕事は犯罪者を捕まえることであり、我が国の現在の法律に魔女の定義もなければそれを罰する法もない。君が法律を犯せば逮捕することになる。だが、それは君が魔女だからではない。ルールを破ったからだ。ルールを破れば、私は誰であろうと逮捕するよ。逆に言えば法律というルールさえ守ってくれるなら、私は君とは良い友達でいられる」

 釣り糸を垂れながらそう言ったアンスバッハに、なら大丈夫、とエメリッヒは笑った。

 エメリッヒは良い娘だった。アンスバッハは彼女が好きだった。良き友人だった。利発で聡明な娘であったから、将来はきっと美しい娘に成長すると思っていた。残念なのは生まれのせいで高度な教育を受けられなかったことだ。

 母子家庭で育った彼女は二年前に母親を亡くし、とうとう独りになってしまった。小学校の教育さえろくに受けていない。頭の良い子であるから、きちんとした教育さえ受けさせれば才覚を表したろうに。

 一度、アンスバッハがもし望むなら自分が身元引受人となり諸手続をしてどこかの学校へ通わせてもいいと提案したがエメリッヒはそれを拒否した。

 彼女は森の生活を楽しんでいた。森の民であることを誇りにすら感じていた。それになにより、「町の学校へ行ったら、エリックと会えなくなるでしょう」と恥ずかしそうに答えた。

 エリックはエメリッヒと同い年の少年だった。エメリッヒの唯一の友達で、親友で、そして恐らくは思春期を迎えてお互いに意識し合っていた。

 エリックはどうしているのだろうか。エメリッヒが死んだとなれば、嘆き哀しんでいるに違いない。事件の全容を解決すると同時に彼と一度話し合ってやらねばならない。年長者として、まだ若い友人を慰めてやらねば。


  2


 やっと到着したローゼ・ナッハ村で保安官の話を聞き、アンスバッハは眼を剥いた。運転手をして来たパゴット巡査はうんざりした顔になる。

 パゴット巡査は村に思い入れもなければエメリッヒと面識もないのだから致し方ないことかもしれないが、アンスバッハは彼を一睨みして竦み上がらせてから視線を保安官に戻した。

「つまり、殺人事件などなかったと言うのかね」

「ええそうです。すぐ連絡したんですが」

「ああ、すみません、警部。車輌無線の調子が悪いんです」

 パゴット巡査が申し訳なさそうに言った。

「ブラウン家の娘が死んだのは事実ですし、人の手によるものであることも間違いありません。しかし、事故なんですよ。死体を見た助手の奴がパニックになってね、本部へもそう連絡してしまった。私はちょっと外してましたから助手の勇み足です」

 保安官は困ったものだと肩を竦め、保安官事務所のデスクで小さくなっている若い保安官助手を睨んだ。

「どういうことか教えて貰えないか」

「ゲイルはご存知でしょう」

「ああ、ゲイルか。何度か一緒に鹿狩りに行った」

「そのゲイルが農作業の合間に庭先で猟銃の手入れをしてたんです。そこへ悪戯心でも起こしたんでしょう。エメリッヒが突然顔を出した。びっくりしたゲイルは猟銃を取り落としそうになり、慌てたせいで暴発させてしまった。概要なそんなところです」

「それで運悪くエメリッヒに当たったというのか?」

「ええ、そうです」

 保安官は頷いた。とても信じられる話ではなかった。

 ゲイルと言えばエメリッヒを含めたブラウン家を『魔女』と呼んで嫌っていた集団の急先鋒だ。

 エメリッヒが自分から彼に近づくはずがない。それに、ゲイルは数年前に妻子を病で亡くしている。それを『魔女』のせいだと言っていた。パブで酔った彼が「あの魔女野郎、いつか殺してやる」と物騒な発言をしたのをアンスバッハは聞いたことがあった。そのときは、まさか本気じゃないだろうな、と釘を刺すにとどめておいた。酔った弾みの言葉を一々取り上げていてはきりがない。そのときはそう思った。

 しかしゲイルがあのときの言葉を実行しない保証などどこにもなかった。

「お疑いなら、目撃者が何人もいますから聞いてみてください。弾を入れたまま猟銃を手入れしてたゲイルに落ち度がないとは言いませんがね、単なる暴発事故です。もちろん、書類は作成して後は判事に任せますよ」

 エメリッヒが自分からゲイルに接触を持つはずがない。まして猟銃を手にしている相手に悪戯を仕掛けるなど、エメリッヒでなくとも、余程小さな子供でない限りはやらないことだ。

 個人的にアンスバッハがそう思っても証拠がない。逆にゲイルの事故を目撃した村人がいるという。警察は絶対中立でなければならない。証拠もないのに誰かを犯罪者扱いはできなかった。

 無駄と思ったがそれでもアンスバッハ警部は目撃者たちのリストをコピーして貰った。

 村人たちの結束は堅く、死んだのは忌まれていた『魔女』の血を引く少女だ。仮に殺人であったとしても仲間を守るために口裏を合わせる程度のことはする。そうなればどうしようもない。

「分かってると思うが、事故なら事故でそれを証明しなきゃいかん。あんたの仕事を疑うわけじゃないが、一度でも殺人と報告が入ったんだ。それなりの捜査はさせて貰う」

「どうぞ、警部。わざわざ時間をかけて来たんです。報告書の面倒さは知ってますよ。好きなだけ仕事してください。サボってマス釣りしてても、見ないフリしときます」

 アンスバッハの釣り好きを知っている保安官はウインクして見せた。


          ※


 一体なにがあったのか。真実を明らかにすることは難しいだろう。診療所に安置されていた無残な少女の死体を検分したアンスバッハは深く吐息した。

 シートに覆われた少女は、ソバカスの多い顔だけしか見えず、ただ眠っているようにも見えていた。穏やかな顔であったのがせめてもの救いか。そしてシートを取ったとき、アンスバッハの隣にいたパゴット巡査は顔を青くして部屋を出て行き、アンスバッハは眉根を寄せた。

 少女の胸の肉は大きく抉れていた。散弾を至近距離で受けた痕は余りにも痛々しい。仕事柄これまで数え切れない死体を見て来たアンスバッハでもそれは同じだ。

「事故だったと聞いたが?」

「私もです。現場は見ていないので、それ以上はなにも言えません」

 村で唯一の医師ダルトンは辛そうに答えた。

「医師としては?」

「至近距離で銃弾を受け、それで左胸を損傷した。肺と心臓の一部を一瞬で失ったのが死因です。これでは現場に私がいても治療は不可能だったでしょう。法医学は専門ではないので、それだけしか言えません。ただ散弾銃で撃たれて死んだ。それは確実です」

 まだ四〇に手の届かぬ医師の言葉は嘘ではないだろう。彼は自分の見たままを正直に語っている。

 アンスバッハが事件性有りと判断すれば、専門医による司法解剖を行うこともできる。しかしエメリッヒの死については撃った当人も分かっているし、状況を説明する複数の目撃証人もいる。ゲイルが発砲したとき、殺意があったかどうかの証明は不可能に近い。なんとか裁判に持ち込んでも重過失に問えるかどうかも難しいだろう。

「ただ」

 ダルトンが言うとアンスバッハは遺体から視線を医師へと向けた。

「なんだね、先生」

「エメリッヒの右手を見てください」

 言われた通りにアンスバッハは少女の右手を見た。皮膚がやや赤く変色している。左胸の酷い傷にばかり気を取られていて気が付かなかった。そのことをアンスバッハは恥じた。ダルトンに言われる前に気付くべきことではないか。

「火傷?」

「軽度ですがそのようです」

「どうしてこんな場所を? 大体、なにで火傷したんだ?」

「傷の具合から見ると、なにか筒状のものを握ったようです」

 筒状のもので火傷をするほど熱を持つもの。そう聞いてアンスバッハはすぐに思い当たった。

「撃たれたとき、エメリッヒは銃身を握っていたと?」

 銃を撃てば銃身はそれなりに熱を帯びる。素手で持っていれば火傷することもあるかもしれない。

 ダルトンは首を横に振った。

「分かりません。現場を見ていないんです。私がエメリッヒを見たとき、既にこの子は死んでいました。ゲイルたちは血塗れのこの子を運び込み、手当してくれと言ったのです。もちろん、手の施しようがありませんでしたが」

 ダルトンは鎮痛な顔で首を振った。彼は医者だ。信仰上の理由でエメリッヒたちブラウン家と距離を置いていても、命を粗末にはしない。助けられるものなら全力で助けたろうが、心臓の一部と肺を失った人間を生き返らせることは不可能だったに違いない。

 アンスバッハはダルトンの肩に手を置いた。幼い命を救えなかった医師が気落ちしていたからだ。


          ※


 アンスバッハはまずゲイルの家に向かった。パゴット巡査には他の目撃者のところへ聞き込みに行かせている。ゲイルを自分が担当したのはエメリッヒを撃った当人だからだ。

 ゲイルは四〇を越えた男だった。農業に従事し、時折狩猟や釣りに出掛けている。アンスバッハも何度か一緒にマス釣りや鹿狩りをしたことがあった。

「ゲイル、ちょっといいか」

 アンスバッハがゲイルの家に近づくと、ちょうどゲイルは畑で良く育ったトウモロコシの間から出て来たところだった。農作業用にオーバーオールを着ている。最近少し肥えたのか腹の出方が以前よりも目立った。

「警部……エメリッヒのことか?」

 もともと厳つい顔のゲイルは不機嫌な顔をした。日曜には教会へ行くのを欠かさず、ややもすると熱心さを通り越すほどの信仰心篤い男だ。

「事情を聞かせて貰いたい」

「保安官から聞いたろ。事故だよ。あの娘がいきなり出て来たもんだから」

 早足で歩きながらゲイルは、いい加減にしてくれ、と手を振った。

「まったく、こっちは良い迷惑だ。死ぬなら死ぬで川にでも落ちてくれりゃいいんだ。選りに選って俺の銃でだなんて」

「おい、ゲイル。子供が死んだんだ、言葉を慎め」

 ゲイルはまた手を振った。

 彼が住まう一軒家が近づいて来る。古びた家だが一人で住まうには広過ぎる。五年前に妻子を相次いで亡くした。当時、質の悪いインフルエンザが流行ったせいで村でも一〇人ほどが死んだ。ゲイルの妻子もその災厄の被害者だった。

 村人たちはそのことでブラウン家を焼き討ちしようとしたそうだ。そのときアンスバッハは村にいなかったから、すべて後から聞いた話だ。

 最初に発症したのがエメリッヒであったことが原因らしい。

 インフルエンザは誰でも罹る可能性がある。集落で最初に罹患したからと言ってその者に責任などあるはずもない。それがエメリッヒでさえなければ、ブラウン家の娘でさえなければ村人たちもそこまで責めなかったろう。

 魔女の家系であるからこそ責められた。

「間違いなく事故だったんだな?」

 アンスバッハが念を押すと、家に入ろうとしていたゲイルは振り返り、

「ああ、そうだよ。事故だ。胸糞悪いな」

「どこだ」

「なに?」

 アンスバッハが庭に入り込み視線を彷徨わせるとゲイルの顔色が変わった。

「どこで撃った? 死体を見たが相当な出血だったはずだ。おまえはどこで撃ったんだ?」

 手入れの行き届いていない庭には雑草が蔓延っている。それでもあの死体の様子からすれば血痕があっても不思議ではなかった。土が液体を吸い込んでいたとしても、なんらかの痕跡があるはずだ。

「さあ、その辺だったかな」

 庭には椅子代わりに材木を大雑把に加工したものがある。テーブルもある。外で仲間が集まったときに、そのテーブルもどきが使用される。アンスバッハもそこでビールを飲んだことがあった。

 アンスバッハ警部はそのテーブル周辺に視線を巡らせたが血痕らしきものは一つも見つからない。テーブルも綺麗なものだった。

「ゲイル、冗談事じゃないんだ。真面目に答えろ」

「なんだ、嘘だって言うのか?」

「いいか、ゲイル。おまえがここで猟銃の手入れをすることはあるだろう。だが、エメリッヒはどこにいた? 隠れる場所なんてどこにもない。おまえがぼうっと居眠りでもしていたってなら話は別だが、そうでなければうっかり引き金を引いてしまうほど間近に来るまで気が付かないはずがないだろう」

 トウモロコシ畑ならいくらでも隠れることはできる。良く育った二メートル丈の畑の中なら大人でも姿を覆い隠してくれる。だが、畑から庭までは一〇メートル以上ある。庭に隠れるような場所は椅子とテーブルだけだ。エメリッヒがテーブルの下に潜っていたというならともかく、その可能性は低い。

 ゲイルがテーブルの上に置いて猟銃を手入れしていたとして、テーブルの下からエメリッヒが現れても距離が近過ぎて偶発的に銃口を向けてしまうことはない。逆にテーブルに背を向けていたとして、背後からエメリッヒが現れても銃口を向けるのは難しい。振り向き、銃を向けて狙って撃たなければ。

 そしてテーブル周辺のどこにも血痕らしきものはない。エメリッヒの死体から考えて銃口が触れんばかりの距離で撃たれたのは間違いない。ゲイルが証言通りに手製の椅子に座っていたなら、その近くに痕跡がないことは不自然だった。

「悪いが、はっきり覚えてないんだ。あんたの言う通り、ぼうっとしてたんだろうよ。なにしろこの暑さだ。で、気が付いたときには間近にあの魔女がいて、俺は引き金に触れちまった。それだけの話だ」

 ゲイルは一刻も早くこの話題を打ち切りたいようだった。過失であっても人を殺したのなら誰でもそうなる。後ろめたいからだ。だがアンスバッハの鋭い嗅覚は別のものをゲイルから嗅ぎ取っていた。

「本当にここで撃ったんだな」

「ああ、そうだよ。疑うなら誰にでも聞けよ。何人もが見てた」

 この話はもうこれまでだ。そう言わんばかりにゲイルは語気を荒げ、そして荒々しい足取りで家に入ると、拒絶を示すためか強くドアを閉めた。


          ※


 遅い昼食のときにパゴット巡査からの報告を聞いた。運転手だけのつもりでついて来た巡査は不満そうだったがそれを口にすることはなく、割り当てられた聞き込みの結果を伝えた。

 彼は不満はあっても仕事はきっちりとこなしていた。アンスバッハが気に入らなかったのは彼の面倒そうな態度ではなく報告の内容だ。

 少なくとも三人がエメリッヒの死をはっきりと目撃し、他に二人が遠目に見ていた。彼らの証言はゲイルの話と一致し、不自然な点はなかった。誰の話も明確だった。ただし、誰もエメリッヒが撃たれる直前、どこに隠れていたか見ていない。

 彼らが見たのは猟銃の手入れをしていたゲイルが突然眼前に現れた少女に驚いて発砲した。それだけだ。実に簡素で、前後のことについても齟齬はない。

「気に入らんな」

「なにがです? 単純な事故としか思えませんが」

 アンスバッハは周囲の席を見回した。小さなレストランにはコーヒーブレイク中の村の人間も何人かいる。彼らが盗み聞きするとは言わないが、聞こえてしまうのは事実だ。

「証言が一致し過ぎている」

 アンスバッハはやや声を小さくした。

「それが問題ですか?」

「ああ、大いに問題だ。どんな事件でも目撃者の証言は多少食い違うものだ。特に突然少女が撃ち殺されたショッキングな事件だぞ。目撃者全員が冷静に観察してるはずもない。判で押したように同じ答えが来る方がおかしい。それはつまり……誰かが書いたシナリオをそのまま話しているということだ」

 証言の一致は却ってアンスバッハの疑心を深くさせた。エメリッヒ・ブラウンを殺したのはゲイルで間違いないかもしれない。しかし、それは本当に事故であったのか。

 事故死を否定するだけの材料がない。本部から鑑識を呼べばゲイルの庭でエメリッヒが殺されたのではないと確認できるかもしれない。だが、小さな村であっても子供一人の死亡現場を探し当てることは困難だ。

 このままエメリッヒを事故死として処理するのは簡単だ。いや、それが一番楽な方法だ。誰も異を唱えたりはしないだろう。だがアンスバッハはそうする気はなかった。刑事としての倫理観と、そしてエメリッヒの思い出がそれを許さなかった。


  3


 アンスバッハ警部がエリックの下を訪ねたのは、彼だけが無条件でエメリッヒの味方だと信じていたからだ。エメリッヒが唯一友人と呼び、恋していた少年。

 彼もエメリッヒのことが好きだったのか、村の人々になにを言われようとエメリッヒと会うのをやめようとしなかった。もし村の中で柵に縛られることなく真実を語ってくれる者がいるとするならばエリック以外にいない。なにがあっても、彼だけはエメリッヒのことで嘘は言わない。

 彼が事の次第を見届けていない可能性もある。エメリッヒが死んだとき彼が側にいたという話はとんと聞かないからだ。だが、彼ならきっと何か知っているのではないか。そんな気がしてならなかった。もちろん、何か確証があるわけではない。

 それは、勘以上のなにものでもなかった。

 しかし、せっかく彼の家を訪ねたのに、夕暮れに染まったドアを勢い良く開けて出て来たのは不安そうな母親だった。

「ああ、警部さん、お久しぶりです」

 彼女はあからさまに落胆した顔でそう挨拶した。

「どうも。エリックはいますか?」

「それがその……さっきまで部屋に閉じ込めていたんですが、いつの間にかいなくなってしまったんです」

 エリックの母親は不安一杯の顔をした。ドアを開いたとき普通ではない勢いだったのは息子が戻ったと考えたからだろう。

「閉じ込めていた? 彼はなにかしたのですか?」

「それは、その……」

 母親は言いにくそうに言葉を濁した。隠し事をしているのは一目瞭然だ。

「エメリッヒのことですね?」

 少女の名を出すと母親は、は、と顔を上げて首を激しく振った。

「違います、違います。うちの子はあんな忌まわしい子とは関係ありません」

 ムキになって否定すればするほどにそれが嘘であると明白になる。

 エリックを訪ねたのは単に勘でしかなかったが、それは正しかったようだ。

「息子さんの行き先に心当たりは?」

「分かりません。当分は部屋から出るなと言ってたのに……いつもならエメリッヒに会いに行くところですけど、あの子はもう」

 エメリッヒは死んだ。エリックがそれを知らないわけもない。なら、彼女のところへは行っていない。行けるはずもない。ふと、アンスバッハは嫌な考えを浮かべ、すぐにそれを打ち消した。

 ―まさかな

 エリックはまだ子供だ。エメリッヒと同年の一四歳。自殺を考えるには早い。それでも姿を消したタイミングが気になった。

 あの二人が警部の知らぬ間に友人以上の関係になっていたとしたら、エリックが自らの命を絶つ選択肢は絶対にないとは言えないものだ。

「奥さん、正直に話してください。エメリッヒの死に、エリックは関係していたんですか?」

「関係なんてありません。エメリッヒを殺したのはゲイルです」

「エリックが最後にエメリッヒに会ったのは?」

 一瞬、母親は言葉を止めた。

「エメリッヒとエリックの間になにがあったんです?」

「知りません。なにも、知りません」

「いいですか、奥さん。なにも興味本位で聞いているんじゃないんです。息子さん、エリックの身の安全を確保するためにもなにもかもを教えてください」

 アンスバッハ警部はかんで含めるように言った。


          ※


 魔女なんてものは実在しない。

 そんなのはお話の中だけの存在だ。

 僕はそのことを知っていた。僕だけじゃない。誰だって知っていることだ。魔法なんて、そんなもの実在しない。

 なのに、みんなはエメリッヒを『魔女』だって言っていた。魔女だから話してもいけないって。

 僕がエメリッヒと初めて会ったのはいつだったかな。ずっと小さい頃だったとしか覚えていない。あの頃は、彼女のお母さんも元気で僕らはいつも一緒に遊んだ。父さんや母さんに見つかるとその度に怒られ、それでも僕らは遊んだ。

 エメリッヒといると楽しかった。でも時々おかしなことが起こった。エメリッヒが触れた馬が数日後に暴れて持ち主のケネスさんが怪我をしたり、エメリッヒとぶつかったポートウィック爺さんが翌日死んだ。エメリッヒに酷いことを言ったアーマンドさんは破産して一家離散した。彼女といると、そういう人の不幸によく出会った。

 もちろん彼女のせいじゃない。全部偶然だ。馬はきっと虻かなにかに刺されたんだろうし、ポートウィックさんは九〇才を過ぎていて死んでもおかしくない年齢だった。アーマンドさんの事業がうまく行っていなかったのは前々から噂があって、子供の僕でも知っていたことだ。他にも色々ある。エメリッヒが見ていた崖が崩れたとか、そんなものが沢山。

 でもエメリッヒに魔法なんて使えなかった。彼女は良く転んだ。前にプレゼントしてくれたハンカチには僕のイニシャルが縫い込んであったけど、彼女の指は絆創膏だらけだった。料理も得意じゃないって言ってた。普通の、むしろ学校のクラスメイトよりもちょっと不器用な女の子だった。

 美人じゃなかった。それを言うと頬を膨らませて怒ったけど、そんな彼女はとても可愛かった。

 僕は、エメリッヒが好きだった。

 この夏の少し前に、僕は初めてそのことを彼女に言った。そして彼女の気持ちを聞いたとき、彼女は恥ずかしそうにしながら頷いてくれた。僕の人生であれだけ嬉しかったことはない。僕はその場で彼女を抱き締めてキスをした。嫌がられるかと思ったけど、彼女は顔を赤くしただけで許してくれた。歯と歯がぶつかってちょっと痛かった。

 僕はとにかく嬉しくて嬉しくて、夏休みが始まるとすぐに毎日エメリッヒに会いに彼女の家がある森へ通った。

 森は慣れていない人には危険だ。僕らが生まれるずっと前、森を切り拓いて村を作った。エメリッヒたちは僕らが来る前から森に住んでいた。だから誰よりも森に詳しい。僕は彼女からいくつも村の人も知らない秘密の場所を教えて貰った。

 食べられる木の実、腹痛に効く薬草、傷に貼ると良い葉っぱ、エメリッヒは森のことならなんでも知っていた。

 村の人たちが勝手に森を開拓してしまったことについては良く思っていないようだった。僕やエメリッヒが生まれるずっと前の話でも、ブラウン家の人にとってはそれは森に対する酷い冒涜だったらしい。僕らが神様を敬うようにエメリッヒたちは森を敬っていた。

 エメリッヒのお母さんが亡くなってからブラウン家がエメリッヒだけになってしまっても、エメリッヒは彼女の先祖たちがそうしていたように森で生活し、時には森に感謝の祈りを捧げていた。僕らとまるで違う信仰を彼女は持っていた。それがアルメイダ神父や村の人たちにとっては許し難いことだったらしい。

 神父は何度かエメリッヒに改宗をすすめ、その度に断られていた。彼女は僕らの信仰を否定はせず、だが自分を捨てたりはしなかった。僕が教会に行くことになにも言わなかったし、僕らのお祈りにも興味を持っていた。僕も彼女の家に伝わるお祈りを教えてもらい、良く一緒に口にした。

 アルメイダ神父や一部の村の人が彼女を信仰上の理由から嫌っていることは僕にも分かっていた。だからエメリッヒは用もないのに村に来たりはしなかった。生活必需品を買うときぐらいのものだ。それすら僕が代わることがあった。彼女はできるだけ村人と係わらないようにするのが良いと知っていたんだ。

 たまに村人が森に入って銃を撃つことについてはできるものならやめさせたいと思っていた。もちろん、エメリッヒにそんなことはできない。僕と一緒のときでも銃声を耳にする度に嫌そうな顔をしていた。

 エメリッヒは村人の中でも近づいて良い人とそうでない人をきちんと分けていた。それはエメリッヒが彼らを嫌っていたって話じゃない。神父を含む一部の人たちが酷くエメリッヒを嫌っていて、時に口汚く罵ったり、石を投げたり酷いことをするからだ。

 それでもエメリッヒは誰も憎んだりはしていなかった。自分の身を守るために付き合う相手に気を付けていただけで。

 エメリッヒを悪く言うつもりはない。エメリッヒは単に間が悪いところがあって、よく人の不幸に遭遇していたのは事実。いや、違うかな。村の人たちはなにか悪いことがあるとエメリッヒと関連づけて考えるのが習慣になっていた。だから、なんでもかんでもエメリッヒのせいにされて、エメリッヒは魔女と呼ばれて……でも、彼女はそんなのは平気だと言ってた。

「ちゃんと分かってくれてる人もいるから」

 エメリッヒは僕を見てそう言った。

 そう、僕は分かっていた。彼女は魔女でもないし、ブラウン家は忌まわしい呪われた魔法使いでもないことを。

 彼女は、僕より数ヶ月年下の可愛い女の子で、僕は彼女が大好きで、僕らはこの夏に恋人同士になって、とても幸せで、その時間はずっと続くと思ってた。

 僕はずっとエメリッヒと一緒で、大人になって結婚できる年齢になったら彼女は僕の奥さんになって……。

 それなのに、それなのにエメリッヒは死んでしまった。

 僕が、殺してしまった。


  4


 日暮れ近い森に入ることに不安がなかったわけではない。それでもアンスバッハはどうしてもエリックに早く会って話を聞きたいと思った。

 エメリッヒの身になにが起こったのか、あの少年なら真実を知っているに違いない。姿を消したのもそのせいだ。

 アンスバッハが辛抱強く問い質すと、エリックの母親は息子がエメリッヒの死の直前に彼女と会っていたらしいことを話した。血だらけのエメリッヒを抱き抱え、泣き叫んでいたのを村の人間たちが無理に家に連れ戻し、両親は混乱状態にあった彼にシャワーを浴びさせて部屋に閉じ込めた。

 何時間かは泣き叫んでいて、後は静かになっていたようだ。そして様子を見に行って初めて失踪を知った。

 エメリッヒを殺したのはゲイルであることは多くの証言からもほぼ間違いない。だが、その前後の事情がどうにも腑に落ちない。そもそも、ゲイルたちの話にはエリックは一切出て来ない。それは村の子供であるエリックを事件に巻き込まないための配慮だったのかもしれないがそのことが余計にアンスバッハの怒りを刺激した。

 確かにエメリッヒは正式な村人ではない。村人たちより古くからこの土地に住んでいた者の末裔で、異教徒だ。だが、エリックと同い年の少女ではないか。彼女の死を悼むこともせず、エリックだけを庇う。それが許せなかった。

「警部、本当にこの森にいるんですか?」

 初めて森に入るパゴット巡査は不安そうな声を上げた。

 アンスバッハは何度か森に入ったことがあったが、村の人間か、或いは村人よりも森に詳しいエメリッヒに案内して貰ってのことで、しかも昼間だ。どんどん暗くなる森にあって、パゴットが不安を覚えるのも無理のないことだった。

 明かりも村で借りて来た懐中電灯しかない。まだ点灯させずともなんとか視界が利くが、森が本格的に夜を迎えてしまえば実に頼りにならない代物だ。

 エリックの母親には村人に声をかけてエリックを捜すよう指示をして来た。纏め役は保安官に任せた。エリックのことなら村人たちも手を貸してくれるだろう。アンスバッハが巡査を連れて先行したのは気持ちが逸ったからだ。

 それに、エリックを見つけても大人たちの前では話せない話もあるかもしれない。

「一体、なにを拘っているんです?」

 後からついて来るパゴット巡査が不満そうに言った。

「なに?」

「だって、誰に聞いても事故じゃありませんか。そりゃ、あの子は気の毒だと思いますよ。しかし、事故死で処理するのが妥当じゃありませんか」

 アンスバッハは立ち止まり、くるりと振り向くと巡査を強く睨んだ。巡査はそれだけで怯む。

「真実はなにも分かっていない。ゲイルが撃ったのは確かかもしれんが、そこには嘘がある。証言者たちも話を合わせている。一体なにを隠しているのか。それをすべて調べねばならん」

「しかし、そんなことを穿り返しても誰のためにもならんのじゃないですか?」

「いいか、良く聞け。警察は正義を貫かねばならん。一四歳の少女が死に、そこになにかが隠されているのなら、それを調べ上げねばならん。裁きを下すのは我々でも村の連中でもない。法だ。誰が得をしようが損をしようが関係ない。真実を明るみに出し、法に委ねる。真実事故ならばそれでいい。しかし、そうでない可能性を完全排除できないうちは捜査は続けねばならん。もし、楽がしたいから事故死として処理したいのなら、本部に戻ったらすぐに辞表を出せ」

 誰も彼もがエメリッヒの死を悲しんでいない。

 パゴット巡査は面倒だから事故死扱いでいいではないかという。

 アンスバッハはどうしても許せなかった。一人の少女の死を軽く扱う者たちの態度が。

 被害者が誰であろうと、捜査は平等に行わねばならない。納得できるだけの材料が出揃うまで、アンスバッハはこの捜査をやめる気はなかった。

 パゴット巡査は乗り気ではなさそうだが、反論するだけの材料もなかったのか肩を竦めただけだった。

 面倒だとは思っていても、パゴットもまたアンスバッハが感じているのと同じ違和感を持っているのだろう。

 しかしアンスバッハが悩んでいるのはどうして半端な嘘をつくのかだ。村人たちがその気なら事故死に見せかける必要性すらなかった。村の中での出来事だ。エメリッヒをゲイルが殺害したとして、それを完全に隠蔽することも可能だ。保安官は助手の勇み足を指摘していたが、そうだとすれば一応の説明はつく。

 村人たちと口裏を合わせ、そして隠蔽する前に保安官助手が本部に殺人だと報告してしまった。そういう説明もできないではない。

 むしろ計画的と考える方が難しい。

 予め計画してのことなら保安官助手が慌てる必要はなかった。保安官助手にまで話を通していなかったとしても保安官には話していたはずだ。保安官は村人側だ。いや、村を守るのが職務だ。そしてエメリッヒは村人ではない。保安官が完全なる中立公正な正義の人ならばエメリッヒの死について隠し事などはしないだろう。そうではないから、なにかを隠しているのだ。

 保安官を巻き込んでの計画殺人ならもっとうまく処理できたはずだ。

 話を聞いていなかった保安官助手が偶発的に現場を目撃をしてしまったのか?

 それも違う気がした。計画的犯罪なら人目に付かない場所でやる。ブラウン家は確かに村人の多くから特別視されていたが、それでも殺そうとまでする人間はそうはいない。異教徒として一線は画しても、積極的に危害を加えるほど信仰にのめり込んでいる者は僅かだ。

 だから、エメリッヒの殺害が計画的なものなら人目に付かない時間と場所が選ばれたはずで、真っ昼間に銃の手入れ中の事故という話は下手過ぎる。

 ―エメリッヒの死はやはり偶発的なことか

 だとすれば、一体なにを隠しているのか。純粋に事故なら隠すことはないではないか。

 それを知るためにもアンスバッハはパゴットを責め終わるとすぐに歩を再開した。

 真相を知りたい。同時にエリック自身の身が案じられもした。エリックはエメリッヒと行動を共にすることが多く、森については警部などより余程詳しい。それでも夜の森に一四の少年が一人では心配だった。必ず森にいると断定できる証拠はない。ひょっとしたら全然違う場所なのかもしれない。

 しかしアンスバッハの直感はここだと告げていた。

 エメリッヒは森に住んでいた。エリックはそのエメリッヒと親交が深かった。何度か二人で森で遊んでいるのを見たこともある。二人だけの秘密の場所があると聞いたこともあった。エメリッヒの死がエリックの家出の原因であるのなら、あの少年は暗くなり始めた森のどこかにいるはずだった。

 問題は森の広さだ。森は広く深い。迷えば出られなくなる恐れもある。何度か入ったことがあっても森の全体を知っているわけでもない。アンスバッハが行けるのは、自分が知っている場所までだ。それ以上は遭難の危険すらある。自分が知る範囲のどこかにエリックが居ればいいが、エリックはアンスバッハよりも広範囲を知っている。そのことが不安材料だった。このまま進んでも、エリックを見つけられないかもしれない。

 夜は急速に迫りつつある。急がねば冗談無しに迷いそうだった。

「警部」

 そろそろ懐中電灯に明かりを点けるようかと思案したとき、後について来ていたパゴットが呼んだ。振り向けば巡査は左手を指さしている。眼を凝らすと、薄闇の中に小さく明かりが見えた。

「エリック!」

 声を掛けてからそちらに近づく。だが返事はなかった。それどころか、淡い光はアンスバッハが近づけば近づいただけ遠離っているようにも見えた。

「エリック、私だ。アンスバッハだ。君に聞きたいことがあるんだ」

 警部は足を速めた。足場の悪さから言えば転ばなかったのが不思議なほどだ。現にアンスバッハより三回りも若いパゴット巡査は途中で転んでしまって脱落した。

 走るのはきつい年齢だがアンスバッハは足を緩めなかった。奇妙なことに明かりはアンスバッハと常に一定の距離を保っている。

 明かりの正体は暗さが増していて視認できない。しかし、それがエリックであり、逃げるつもりならもっと素早く、或いは木陰に隠れてしまうなりするはずだ。またエリックでないとすれば何度となく行われたアンスバッハの呼び掛けになんらかの形で応じるはずだった。

 森に潜んでいた犯罪者であるのなら警察の人間が来たと知れば必死に逃げるかもしれない。それだとしてもおかしい。アンスバッハの足は決して速くはない。捕まりたくないというのなら、それこそ必死で逃げるはずだ。その光はまるでアンスバッハを導くように速度を合わせている。

「森には沢山のものがいるの」

 不意に赤毛の少女の言葉が蘇った。

「鹿や兎、栗鼠に小鳥たち、確かに沢山いるね」

「違うわ、警部さん。森にはね、沢山の妖精がいるの。みんな良い子たちだけど、時々人を迷わせたり悪戯もするから気を付けてね」

 そう言ってエメリッヒは笑った。あれはおとぎ話のはずだ。妖精も魔法使いもいるはずがない。眼前の明かりが余りにも妙な動きをするものだからそんな子供じみた話を思い出したが、そんなことあるはずがないのだ。

 不意に明かりが動きを止めた。と、次の瞬間には、ふ、と跡形もなく消えてしまう。闇が濃くなったせいでどれほど眼を凝らしても光が消えた辺りに誰かいるのかどうか見えなかった。

 アンスバッハは急いで懐中電灯のスイッチを入れた。

 小さな光輪を明かりが消えた付近へ向けると、視界の隅に人影が見えた。

「エリック」

 人影はエリックだった。驚いた顔でこちらを見て立っている。そして手には、どこから手に入れたのか拳銃があった。

「警部さん……」

 唖然とするエリックにアンスバッハは慎重に近づいた。

「エリック、その銃はどうした。いや、どうするつもりだね?」

「警部さん、僕は、僕は……」

 エリックの眼には泣き腫らした痕があった。そして今、また少年は大粒の涙をぼろぼろと零す。

「どうした? なにがあったんだね?」

「殺したんだ」

「なんだって?」

「僕がエメリッヒを殺したんだ。だから」

 衝撃的な言葉を口にしてエリックは銃口を自らのコメカミに当てた。

「だから、僕も罰を受けなきゃいけないんだ」

「よせ、エリック。落ち着くんだ」

 なにがどうなっているのか分からないが、警部は長年の経験から様々な状況を想定した。

 もしエリックが告白したように彼がエメリッヒを殺したと仮定すれば、村人たちが口裏を合わせるのも理解できる。犯人がゲイルであっても仲間たちは彼を庇うだろう。まして村の子供が魔女を殺めたとなれば村人は一丸となって守ろうとするだろう。

 だが、本当にそうなのか。

 エリックは他の誰よりもエメリッヒと仲が良かった。その彼がエメリッヒを殺すだろうか。しかもエメリッヒの傷は今エリックが手にしているような拳銃によるものではなかった。あれは間違いなく散弾銃を至近距離で受けたものだ。

 エリックが拳銃で遊んでいて誤って射殺したという話ではない。

 そもそも警部が知る限り、エリックは軽々に拳銃を手にして危険な遊びをする性格ではなかった。

 警部は急いで、しかしエリックを刺激せぬように少年へと近づいた。

 がちり、と撃鉄を起こす音が聞こえたときは正直肝が冷えた。強盗犯に銃を向けられたときよりも心臓が凍り付きそうだった。

「エリック」

 誰かが少年の名を呼んだ。いや、誰かではない。アンスバッハはその声に聞き覚えがあった。

 エリックが一瞬その声に気を取られる。刹那、横合いから人影が飛び出してエリックを押し倒し、同時に銃声が一発響いた。


「警部」

 銃声を聞き付けてパゴット巡査が慌てふためいて走って来た。そのせいで、また転ぶ。

「今の銃声は?」

「落ち着け」

 部下にそう言い置いてからアンスバッハ警部は懐中電灯の明かりを少年へと戻した。

「どうしてここへ?」

 それはエリックではなく、彼を押さえつけているゲイルに向けた言葉だ。闇の中から飛び出してエリックの自殺をすんでの所で阻止したのはエメリッヒを殺した男だった。

「エリックが姿を消したって聞いて、もしかしたらと思ったんだ」

 アンスバッハはエリックの手から落ちた拳銃を拾い上げた。リボルバーの拳銃はエリックの父親か誰かのものだろう。

「理由になってないな。全部話してくれないか」

 アンスバッハはゲイルに手を差し伸べた。エリックは押し倒された衝撃か銃のせいか分からないが気を失っているようで、もう暴れる様子もない。

 ゲイルは立ち上がり、それから苦しげな顔をした。

「ここが……だからだよ」

「なに?」

「ここが、エメリッヒが死んだ本当の場所だからだよ」

 ゲイルは呻くように言った。


          ※


 ゲイルは狩りに出ていた。それほど本気で獲物を探していたわけではなく、半ば気晴らしの狩りだった。兎の一羽でも獲れればいい。その程度のことだった。

 物音がして視線を動かした。猟銃を構えることができる心づもりはしていたが、獲物の姿を確認するまでは銃口を上げないのは誤射を防ぐためだ。森はゲイルだけのものではない。狩りで気張らしをする者はいくらもいる。相手を確認もしないで撃つことは危険だ。

「エメリッヒ?」

 見えたのは赤毛の少女だった。

 エメリッヒは森に住んでいる。森で出会うのはそれほどおかしなことでもないが、正直嫌な奴に会ったと思った。

 ブラウン家は忌まわしい家だ。

 不信心なだけではなくおかしな信仰を持ち、彼らが村に現れると必ず災厄が訪れるとさえ言われていた。エメリッヒがこれまでに引き起こした不幸の数々も耳にしている。ゲイルの妻子が死んだのも、ブラウン家が持ち込んだ病のせいだ。ゲイルはそう信じて疑わなかった。いつかブラウン家には天罰が下る。そうでなければ自分が下してやる。日頃からそう息巻いていたのはなにも全部はったりというわけではない。その機会があれば妻子の仇を討ってやろうと本気で考えていた。

 森の中

 その場にいるのはエメリッヒと自分の二人だけ

 絶好の機会だというのにゲイルが咄嗟に銃口を彼女に向けられなかったのは、彼女が泣いていたからだ。

 だが、彼女は猟銃を持ったゲイルに気づくと一瞬は驚いた顔をしたものの、すぐに不敵とさえ言える笑みを浮かべた。

「誰かと思えばゲイルじゃない。あたしを殺しに来たの? いいわよ、やりなさいよ」

 エメリッヒが近づいて来た。ゲイルは戸惑いながらも銃口を彼女に向け、

「舐めてるのか。本当にぶっ殺すぞ、この魔女め」

 引き金に指をかけ、脅し文句を言ってやった。それでもエメリッヒは怯まない。それどころか更に挑発的な態度を取った。

「やれるもんならやってごらん。あたしは魔女だよ。そんな銃なんかで死ぬと思ってるなんて、なんてお目出度いお馬鹿さんなんでしょう」

 くすくす笑いながらエメリッヒは近づいて来た。そして銃身を右手で握り、自分の胸部に銃口を当てる。

「さっさと撃ってみなさい。それで殺せると思うなら」

「気でも狂ったか」

 とても正気とは思えなかった。それでも一抹の不安を抱いたのは彼女が忌まわしいと伝えられるブラウン家の娘だからだ。本当に猟銃では殺せないのではないか。本気でそう考えた。

「なにしてるのよ。さっさと撃ちなさい。あんたの女房子供みたいに呪ってやろうか」

 女房子供、それはゲイルの心の引き金だった。ゲイルにとってそれは一番触れられたくないことだ。

 子供が発熱したとき、ただの風邪だと思った。

 農閑期だった。例年なら時間を取れる季節だったのに、知人から新しい仕事の話を持ち掛けられ、そちらに夢中で子供の世話は妻に任せきりにした。村でインフルエンザが流行したと聞いても気にもしなかった。

 インフルエンザは毎年のように誰かが罹っている。取り立てて騒ぐ必要を感じなかった。

 子供の呼吸が停止し、妻が同じインフルエンザで倒れるまでは。

 国の機関が乗り出して来たが村の何人もが死んだ。インフルエンザで命を落とすことがある。それはゲイルも聞き知っていたが、自分の家族にその運命が降りかかるとは思ってもいなかった。どんなに多忙でも毎日祈りは欠かさなかったし、教会へも通っていた。信仰心篤い自分たち家族に不幸が訪れるような理不尽なことはあり得ないと信じていた。

 どうしてそんなことになったのか。理解できなかった。そんなことあっていいはずがない。やり場のない怒りの矛先が見つかったのは、村で最初にインフルエンザに罹患したのがブラウン家の娘であったと聞いたときだ。しかもエメリッヒは無事治った。

 許せなかった。

 神を信じない異教徒の娘が助かり、自分の子が死んだことが。

 そう考えたのはゲイルだけではなかった。身内を亡くした村人たちが集まり、ブラウン家を焼き討ちしようとした。

 先導者はゲイルと神父だった。

 神に背く魔女が悪い病を運んで来て、それで村人が死んだ。

 ゲイルと神父の言葉に集った者たちは興奮状態で、襲撃はそのまま決行されるはずだった。保安官とその助手が彼らの前に立ち、ライフルを手に解散を叫ばなければ。

 保安官は村人の味方だった。彼が守ったのはエメリッヒではなく、村人たちだ。襲撃をやめさせたのは村人たちを罪人にしないためだ。村人たちもそれが分かっているから怒りを抑えるしかなかった。

 しかし、誰も忘れていない。

 ブラウン家の魔女が災厄の源であったことを。


          ※


「それで、撃ったのか? あの場所で?」

 保安官事務所での事情聴取。

 アンスバッハの質問にゲイルは頷いた。

「自分で撃てと言ったんだ。だから」

「撃ったというのか、僅か一四才の子供を!」

 ゲイルをはじめ多くの村人がブラウン家を忌避していたのは知っている。先のインフルエンザで出た死者について哀しみが癒えきっていないのも聞いていた。しかし、そのことでそこまで深くブラウン家を憎んでいたとは思わなかった。

 いや、いつかこんなことが起きるのではないかとまるで考えていなかったわけではない。

 信心深い村人たち。森に住まう異教の娘。

 両者の確執はずっと以前からあったのだ。これほど直接的な形で表出するとは予想していなかったが。

「エメリッヒを撃ったのはゲイルですが、状況からすれば自殺です」

 保安官が湯気を立てるコーヒーカップをアンスバッハの前に置いた。本来は保安官のデスクである場所に今はアンスバッハが陣取り、その前に置かれた椅子にゲイルがいた。

「その判断を下すのは君ではない!」

 アンスバッハは強くデスクを叩き、そのせいでカップからコーヒーが零れかけた。

「君はすぐに事実を明るみにし、ゲイルの処遇については司法に委ねるべきだった。それが保安官の勤めだ。いいか、誰がなんと言おうとこの男は子供を撃ち殺したんだ。武器すら持っていない一四歳の少女をな」

 保安官は苦い顔をした。

「しかし」

「子供に挑発されたからと言って撃ち殺していい理由になるとでも思っているのか!」

 保安官の発言を大音声で抑え込んでから、ふう、と大きく息を吐いた。保安官の考えも分からないではない。ゲイルの話が事実とすれば、エメリッヒは自殺の道具としてゲイルを利用したと考えることもできる。だがゲイル当人の証言だけだ。なによりもエメリッヒは村の人間にすれば恐ろしい魔女かもしれないが、他の地域の者から見たらか弱い少女に過ぎない。

 アンスバッハが指摘したように、裁判となれば陪審員たちはゲイルに対して厳しい結果を突きつけることは分かり切っていた。

 保安官は仲間であるゲイルを信じ、彼が問われる罪をできるだけ軽くしようとしたのだろう。銃の暴発による事故であるなら過失で済む。それも多くの証人の力を借りれば過失割合も少なくなる。だが、結果としてすべてが明らかとなってしまった。どんな挑発行為を受けたにしろゲイルが罪に問われることはもちろんであるし、保安官やその他の証言者たちは偽証をした。保安官の判断は罪人を増やしただけだ。

「しかし、何故だ。エメリッヒは何故そんな真似をした?」

「さあ、そこまでは分かりませんね。親も失って、村人からも冷たくされ、嫌気が差したのかもしれません。それで、自殺ついでに自分を恨んでるゲイルに罪を犯させた」

 保安官の言い様にアンスバッハは腹が立った。保安官はエメリッヒを客観視できていない。他の村人と同じであの少女を魔女とでも思っているようだ。

 エメリッヒは普通の少女だった。異教徒であった以外は。

 自分が何故村人から敬遠されているかも理解していたはずだ。それでも強く生きていた。自殺をするようには思えなかったし、自殺するにしてもやり方が回りくどい。それにゲイルの話が真実なら、そこで二人が出会ったのは偶発的なことだったと思われる。前以て計画していたのではなく、死のうと思ったそのときにゲイルと出会い、利用した。

 そんな風にすら解釈できた。

 ゲイルの今の様子を窺う限り、彼の話に嘘はないようだ。なら、やはりエメリッヒがゲイルを挑発したことになる。そんなことをすれば殺されると分かっていたろうに。

 一体なにがエメリッヒをそんな行動に走らせたのか。

「エリックに聞くしかないな」

 別室のソファでまだ気を失ったままの少年。

 彼がこの事件のキーマンであるとアンスバッハは確信した。


  5


 魔法なんて信じていなかった。村の人たちが言うようにブラウン家が呪われてるとも思っていなかった。

 エメリッヒが不幸を振りまいているなんて酷いデマだ。僕はそんな幼稚なことを言うクラスメイトと何度か殴り合いもした。エメリッヒはなにも悪いことなんてしていない。

 悪いのは僕だ。

 僕がエメリッヒを殺した。

 あんなこと言うべきじゃなかった。どうして言ってしまったのか。

 僕とエメリッヒは仲が良かった。僕はエメリッヒが大好きだったし、彼女も僕を好きだと言ってくれた。

 それでも喧嘩することもあった。小さい頃は取っ組み合いの喧嘩をしてエメリッヒのお母さんに二人して叱られたこともある。それからだって口喧嘩は何回もした。何回も喧嘩して、それと同じだけ仲直りした。何回それを繰り返したか分からない。でも、僕が彼女にあんな酷い言葉を使ったことはなかった。

 彼女が、眼に一杯涙を溜めて、言い返しもせずに僕の前から逃げ出したのも初めてだった。

 僕が自分のしでかしたとんでもない間違いに気づくまで少し掛かった。いつも、いつも彼女は言っていたのに。

「村の人たちになにか言われても平気。だって、エリックはいつもわたしの味方でしょ?」

 どんなことがあっても、僕は、僕だけはあんな言葉口にしちゃいけなかったのに。

 エメリッヒにとって僕は唯一の友達で、恋人で、味方だった。そのこと、知ってたのに。分かってたのに。

 僕はエメリッヒを裏切った。

 いいや、違う。裏切ってなんてない。あれは、ただ、喧嘩の勢いでつい口から出てしまっただけで。それでもエメリッヒは許してくれない。どんなに謝ったってもう駄目だ。

 僕はすぐにエメリッヒの後を追った。

 ごめん、エメリッヒ。

 そう言いたくて、泣きながら走って行く彼女の後を追ったけど、彼女の脚はとても速くて追いつけなかった。やっと彼女を見つけたとき、エメリッヒはゲイルに叫んでいた。

「なにしてるのよ。さっさと撃ちなさい。あんたの女房子供みたいに呪ってやろうか」

 駄目だ、って僕が叫ぶ前に大きな音がして、それでエメリッヒは倒れて、僕は彼女に謝る機会を永久に無くした。


「彼女に、なんと言ったんだね?」

 うまく説明できたか分からない。

 前会ったときよりも白髪の増えたアンスバッハ警部は僕の肩に手を乗せながらよく冷えたレモネードをくれた。

「僕は、僕は……」

 自分でも嫌になるぐらい声がうまく出ない。涙ばかりがぼろぼろと零れて。

 呼吸がうまくできずに咳き込んだら、アンスバッハ警部が背中を摩ってくれた。

「僕は、エメリッヒに『うるさい、魔女め』って」

 そう言ってしまった。


          ※


 涙しながらの少年の告白に、アンスバッハ警部は大きく吐息した。

 魔法なんてありはしない。魔女なんていやしない。村人たちの中でも、本当にエメリッヒを魔女だなどと思っていたのはゲイルや神父など極一部だけのはずだ。

 それでも彼女はブラウン家の娘であるというだけで嫌われ、忌まれた。

 親を亡くした彼女がこれまで負けずに生きて来られたのは、村に好きな男の子がいて、その子だけは自分を魔女だとは言わなかったからだ。普通の友達として付き合い、女の子として扱ってくれたからだ。

 境遇的に恵まれていなかったエメリッヒの唯一の心の拠り所だった少年から一番言われたくない言葉が発せられたとき、一四才の少女の胸に去来したものがどんな感情だったかは容易に想像がつく。

 エリックにとってはそれは単なるいつもの口喧嘩だった。エメリッヒにしたところで時間を経れば立ち直れたかもしれない。そうすれば少年と少女はいつものように和解して、その口論も彼らがこれまで行って来た数え切れない喧嘩の一つとして当たり前のように思い出に変化していたはずだ。

 そのとき、エリックがすぐにエメリッヒに追いついていれば。

 そのとき、ゲイルが森に来ていなければ。

 そのとき、ゲイルとエメリッヒが出会しさえしなければ。

 そうすれば誰も死なず、誰も傷つかず、少年たちの夏の、小さな苦い思い出で終わった。終わったはずだ。

「僕がエメリッヒを殺したんだ」

 少年が嗚咽しながら言った。

 ある意味、それは間違ってはいない。彼の言葉がエメリッヒの行動の起因であるのは確かだ。しかし、それでもアンスバッハ警部は少年を責める気にはなれなかった。それは既に少年が自分で自分を責めているからでも、法律的に彼がなんの罪も犯していないからでもない。

「だから、僕は行かなくちゃいけないんだ。エメリッヒのところへ。彼女のところへ行って、ごめんって言わなくちゃいけないんだ」

 レモネードの入ったグラスを手に、少年はまた大粒の涙を流し始めた。

「なあ、エリック」

 少年の涙に潤んだ眼が年老いた警部を見上げた。

「君の気持ちは、ちゃんとエメリッヒに伝わっているよ。彼女は君を許している」

「……」

 なにか言おうとした少年の言葉をアンスバッハ警部は手で制した。息子を、いや、孫を見る慈愛の眼を彼に向け、

「君が死のうとしたとき、私は確かに聞いたよ。君を呼ぶ声を。君も聞いただろう」

 エリックが引き金を引く寸前、エリックを呼ぶ者があった。

 それはアンスバッハではなかったし、エリックの居場所に心当たりがあって探しに来たゲイルでもなかった。

 そんなことはあり得ないことだ。

 だが、あり得ないことならアンスバッハを導いた明かりもそうだ。あの明かりの正体は今も分かっていない。あれは、アンスバッハをエリックの下にまで誘導したのだ。

 そしてあの声。

 あれは間違いなく、あの子の、エメリッヒの声だった。


 エリックが親に付き添われて保安官事務所を出て行くとき、アンスバッハ警部は彼らを外まで見送りに出た。

 大きく肩を落とした少年を両親が支えている。彼は大きな罪悪感と共に生きて行かねばならないだろう。或いはそれこそ少年にとって最も厳しい罰かもしれない。しかし、あの声の主が少年に罰を与えるために助けたのではないとアンスバッハ警部は信じていた。

「ありがとう」

 事務所へ戻ろうとした警部はその声に振り向き、夏の晩の暗がりに一人の少女を見た気がしたが、しかとは確かめられなかった。

 それでも彼は、どういたしまして、と若い友人に言い、小さくした背に寂寥感を漂わせて事務所内へ戻って行った。


  ∞


 僕はあの夏を忘れない。忘れることができない。

 大好きだったエメリッヒ・ブラウンと過ごした最後の夏を。

 誰よりも好きだった彼女を殺してしまった夏を。

                              終           

小さな過ち、大きな罰

たった一言の過ちは、少年の胸に生涯消えない傷をつけた。


エメリッヒは本来男性に付けられることが多いそうです

語感だけでつけたので意味はありません

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