第5章 生命の船 ― クルー・ドラゴン搭乗
ドラゴンの船内は、想像以上に狭かった。壁一面に並んだディスプレイが光を放ち、計器の数字が次々と流れていく。座席に腰を沈めた瞬間、体が金属に吸い付いたように固定される。
「よし、各自ハーネスを締めろ」
バーンズの声が響く。短く、荒い。命令のようでいて、脅しにも聞こえる。
俺は深呼吸して、右手でバックルをつかんだ。肩、胸、腰、腿、足首。一本一本を確認しながら締めていく。締めすぎれば血が止まる。緩ければ衝撃で骨が砕ける。数値では測れない微妙な感覚。汗が掌に滲んでいた。
「新人、手が震えてるぞ」
隣のキングが笑った。
「震えてません」
「震えてるよ。俺のチョコバー賭けてもいい」
「賭けはやめてください」
軽口の応酬に救われる。だが、笑いはすぐに消える。
「点検に入る」エリアスの声が落ち着いて響いた。
「酸素供給系統、圧力一〇一・三キロパスカル。リークなし」
「通信系統、遅延〇・一六秒、安定」
「冷却系、稼働率九九、許容内」
一つ一つの報告が、命の糸を編み上げていく。
「問題なしだな」エリアスが総括する。
「問題がねぇなら急げ」バーンズが遮る。「地球は待ってくれない」
「地球は逃げない」エリアスの返しは冷たい氷のようだった。
沈黙が船内を満たす。俺はタブレットを睨みながら、二人の対立が再び火を噴くのを予感していた。
「新人、数値を読み上げろ」バーンズが突然こちらに向いた。
「心拍七二、血圧一二四の八二。血中酸素九九」
「ふん、声がまだ震えてる」
「正確に答えた。それで十分だ」エリアスが横から口を挟む。
バーンズの眉がわずかに動いた。だが何も言わずに視線を逸らした。
「スーツ、最終チェックに入る」
全員が一斉にヘルメットをかぶる。透明なバイザー越しに、互いの顔が映る。息がこもり、耳の奥で心音が大きくなる。
「新人、似合ってるぞ」パオロが笑った。「まるで銀行強盗だ」
「四人目のな」フランシスが乗る。
「四人目はバーンズだ。あっちは本物」
「聞こえてるぞ」バーンズの低い声が飛んだ。「笑ってる暇があったら手を動かせ」
「はいはい、動いてますよ」パオロが肩をすくめる。
笑いが船内に短く漂う。緊張を解きほぐすような、細い糸だった。
「気密試験開始」
エリアスの合図で、スーツが膨らむ。空気が皮膚に圧をかけ、もう一枚の身体をまとったような感覚になる。
「ユウキ、グリーン」俺は声を出した。
「エリアス、グリーン」
「キング、グリーン」
「パオロ、グリーン」
「フランシス、グリーン」
「ラーナー……」
一瞬の沈黙。
「……グリーンだ」
その声に不安が混じっていたが、誰も触れなかった。
「全員、合格」エリアスが結論を下す。
「よし、ISS側ハッチ閉鎖」バーンズが命じる。
アナトリーが最後の別れの仕草をして、ゆっくりとハッチを閉じた。金属音が響く。重たい音。後戻りできない音。
「リークチェック」エリアスが言う。
モニターに緑のランプが並ぶ。圧は安定、漏れなし。
「問題なし」
「だったら次だ」バーンズが畳みかける。
俺は深く息を吸った。酸素が肺に染みわたり、脳まで冷やす。もう帰還は始まっている。ISSの静かな廊下も、アナトリーの笑顔も、すでに過去になった。
「分離準備。ボルト、セーフィング解除」
エリアスの声が響く。
「Tマイナス三〇」キングがカウントを始めた。
「二九、二八……」
俺の心臓は、数字と同じリズムで打ち続けていた。
ドラゴンは、俺たちを乗せて地球へ落ちる。生命の船であり、同時に墓石にもなりうる船だ。
それを理解しているからこそ、誰も冗談を言わなくなった。
カウントが一〇を切る。
バーンズの口元が固い線になる。エリアスは最後までディスプレイから目を逸らさない。
「三、二、一——」
金属が外れる乾いた音が響き、船体がかすかに震えた。
ISSが窓の外で遠ざかる。
半年の生活が、あっけなく過去に流れていく。
俺は思わず呟いた。
「……さよなら」