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第4章 ハッチ前の別れ



 ISSの通路に立ち尽くすと、空気が重く感じられた。数時間後には俺たちはドラゴンに乗り込み、地球へ帰還する。だが今はまだ、このステーションの一部であり、ここに残る仲間たちと同じ呼吸をしている。

 だからこそ、別れの瞬間が胸を締めつける。


 「ハッチ閉鎖、あと二〇分だ」

 エリアスの声が静かに響いた。いつもと同じ落ち着いた調子だが、どこか深みがあった。これが最後の指示になることを、彼自身が理解している声だった。


 ロシア人のアナトリーが前に出てきた。大きな掌を広げ、俺たち一人ひとりと手を合わせる。

 「地球で会おう」

 短い言葉だった。だがその重みは計器の数値より確かに伝わる。


 「必ず帰る」エリアスが答えた。「君の言葉を約束にする」

 「ウォッカを冷やして待っている」アナトリーが冗談を言う。

 「じゃあピザも用意しよう。宇宙食じゃない、本物をな」パオロがすかさず続ける。

 その場に短い笑いが生まれた。けれど、笑い声はすぐに消えた。別れの場では、楽しげな音ほど長持ちしない。


 バーンズが口を開いた。

 「感傷は要らん。俺たちの任務は地球に戻ることだ。泣き言を言う暇があったら、計器を確認しろ」

 その言葉は冷たく響いた。だが俺には、戦地へ戻る兵士の号令のようにも聞こえた。彼なりの激励。けれど優しさを包むには、あまりにも鋭すぎる刃だった。


 俺は窓から外を覗いた。青い地球が足元に広がる。雲が渦を巻き、光の筋が海に落ちている。その下に家族がいる。娘の笑顔が浮かぶ。名を呼びたくなったが、声に出せば涙になる気がして飲み込んだ。


 「チャーリー」キングが小声で言った。「手が震えてるぞ」

 「震えてません」

 「震えてるさ。俺の目は誤魔化せない」

 俺は苦笑した。震えていたのかもしれない。だが、それを認めるわけにはいかなかった。


 ラーナーは黙って窓に張りついたまま、口を開いた。

 「……帰りたくない」

 「またかよ」フランシスがため息をつく。

 「ここにいれば静かだ。地球に戻れば、戦場と同じだ」

 その言葉に、俺の心が揺れた。確かに帰還は勝利ではない。ただの危険な作戦だ。


 「くだらねぇこと言うな!」バーンズが怒鳴った。「地球は俺たちの目的地だ。疑うな」

 「戦場に戻るのと同じなら……俺はもう十分だ」ラーナーの声は震えていた。


 エリアスが彼の肩に手を置いた。

 「ラーナー、君の恐怖は分かる。だが帰らなければ人生は続かない。ここは永遠の避難所じゃない。君を待っている人がいる」

 ラーナーはしばらく目を閉じ、やがて小さく頷いた。


 「ハッチ閉鎖開始」エリアスが宣言した。

 アナトリーが金属ハンドルに手をかけ、重い音を響かせながらゆっくりと扉を閉めていく。

 その音は、取り返しのつかない現実を告げていた。


 「……地球で」アナトリーが最後にもう一度言った。

 「地球で」俺たちは声を合わせた。

 バーンズは顎を引いて短く頷いただけだった。


 ハッチが完全に閉じられた瞬間、船内の空気が変わった。外界と隔絶された圧力が、心臓を押しつぶす。もうISSには戻れない。戻るのは地球か、あるいは……。


 「気持ちを切り替えろ」バーンズが言った。「俺たちはもうドラゴンの乗員だ」

 「帰還船は、墓石にもなる」エリアスの声は静かだった。


 二人の言葉が奇妙に重なる。全員がそれを飲み込み、声を失った。

 俺は深呼吸し、ハーネスを強く締め直した。


 ISSでの最後の瞬間。会社の会議室を後にするだけのはずなのに、ここには命の重さがあった。

 俺は心の中で繰り返した。

 ——生きて帰る。必ず、生きて娘に会う

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