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第3章 最後の軌道生活



 ISSでの最後の一日は、いつものように始まった。だが、俺の体は正直だった。半年間の無重力生活で、筋肉は明らかに落ちている。腕を曲げると、以前よりも力が入らないのが自分でも分かる。太腿も細くなり、ベルトの穴がひとつ余った。骨密度も下がっているらしい。歩くことのない生活は、人間の体をこんなにも脆くするのかと、あらためて思い知らされる。


 加えて、体液の移動。血液や水分が下半身から上半身に押し上げられ、顔はむくみ、目の奥が重い。鏡に映る自分は、地球にいたときより十歳は老け込んで見えた。


 「新人、顔がパンパンだな」フランシスが笑う。

 「笑い事じゃありません」俺は返すが、彼の目も充血している。皆、似たようなもんだ。


 その時、船内に不穏な空気が走った。ラーナーが、酸素の供給量を勝手にいじっていたのだ。

 「ラーナー、何やってる!」エリアスが声を張る。

 「ちょっと濃くすれば気分が良くなるんだよ。まるで酒みたいだ」

 ラーナーの声はどこか浮ついていた。実際、彼の呼吸は早く、頬は赤く染まっている。


 「酸素はドラッグじゃない」エリアスが制止する。

 「誰も死にはしないさ」ラーナーは笑いながら手を伸ばす。


 フランシスがそれを真似するように、錠剤ケースを開いた。鎮静剤の一つを指先で弄びながら言う。

 「ほら、こっちも効くぞ。地球に帰る前にちょっとリラックスだ」

 「やめろ!」俺は思わず声を上げた。

 だが、二人の目には理性の光がなかった。酸素濃度の上昇と薬の影響が重なり、彼らは戦場の兵士のように錯乱し始めた。


 次の瞬間、バーンズが動いた。

 「ふざけるな!」

 鋭い声とともに、ラーナーの胸ぐらをつかみ、壁に叩きつけた。無重量とはいえ、その力は圧倒的だ。ラーナーの背中が金属パネルにぶつかり、鈍い音が船内に響いた。

 「酸素も薬も、ここでは命を奪う武器だ! 遊びじゃねえ!」


 フランシスが反発しようとした瞬間、バーンズの拳が宙を走った。

 「やめろ!」

 俺が叫ぶより早く、エリアスが割って入った。

 「待て、バーンズ!」

 エリアスが二人の間に体を差し込み、腕を広げる。

 「殴ってどうする! 制御を失うのは一瞬だ!」


 ラーナーは肩で荒い息をしながら、かすれ声を出した。

 「俺は……もう帰りたくない……」

 その目には恐怖と絶望が滲んでいた。


 エリアスが彼の肩を押さえ、落ち着いた声で言う。

 「ラーナー、聞け。帰るのは義務じゃない。生きるためだ。ここに永遠にいることはできない。地球に戻らなければ、君は君でなくなる」

 ゆっくりと、ラーナーの呼吸が落ち着いていく。


 フランシスも薬をケースに戻し、俯いた。

 「……悪かった」


 バーンズは鼻を鳴らした。

 「これだから甘ちゃんは困る。こいつらが足を引っ張れば、全員死ぬ」

 「暴力で抑えるのは愚かだ」エリアスが冷たく言った。

 「じゃあどうする。放っておいて全滅か?」

 二人の視線が激しくぶつかる。俺は思わず息を呑んだ。


 その瞬間、はっきりと理解した。

 ——帰還は戦場と同じく危険な作戦なのだ。

 敵弾は飛んでこない。だが、酸素の数値ひとつ、薬の粒ひとつが、命を奪う。仲間が錯乱すれば、それだけで船は壊滅する。


 俺の胸の奥で、心臓が強く脈打っていた。数字を読み上げるだけの任務だと思っていた。だが違う。この船に乗る全員が、生と死の最前線に立っている。

 地球までの数時間。俺たちは戦場に向かう兵士と同じ顔をしていた

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