第2章 エリアスとバーンズ ― 二つの指揮
チェックシートは、ただの紙切れにすぎない。だが今この空間では、それが一枚の契約書より重たくのしかかる。書かれているのは数字と手順、そして人間同士の対立の火種だ。
「酸素濃度、二一・〇。二酸化炭素、〇・三。湿度五五。温度二二・五」
エリアスの声は落ち着いていた。感情の波が一切ない。冷水のように澄んで、聞く者の神経を逆に引き締める。
「数値は落ち着いてる。問題ない」
「問題ないだと?」
すぐさまバーンズがかぶせる。眉間に刻まれた皺は深く、声は金属を叩くように硬い。
「てめぇ、甘すぎるんだよ。問題が出てからじゃ遅ぇんだ」
船内の空気が凍りつく。俺はタブレットを握る手に汗を感じた。新人の俺に発言権はない。ただ数字を読む役目。それなのに、数字は俺に味方してくれない。
「昨日の値と変わりはない」エリアスは動じない。「それを確認した。それで十分だ」
「十分じゃねぇんだよ!」バーンズが声を荒げる。「帰還は一発勝負だ。数字の揺らぎひとつで、海に届かず地獄に落ちる」
キングが横から軽く笑いを交えて言った。
「まあまあ、二人とも。ここは戦場じゃないんだ」
「黙れ」バーンズが一喝する。
「はいはい。俺は口を閉じても給料は出るんで」
軽口に救われるはずの場面。だが誰も笑わなかった。
「次。冷却系統」
エリアスが指先で画面を叩く。青いバーが安定して並ぶ。
「稼働率九八パーセント。ノイズは許容範囲」
「九八は九八だろ。百じゃねぇ」バーンズが即座に切り込む。
「機械に百は存在しない。九八は安定値だ」
「お前の口から出ると、それは言い訳にしか聞こえねぇ」
俺は心臓が一拍、早く動いた。議論ではない。殴り合いの前触れだ。
フランシスが目配せし、パオロは目を逸らし、ラーナーは窓の外を見つめていた。青い地球が、静かに回っている。ここは無重力だ。だが空気は、会社の会議室以上に重かった。
——ISSは会議室に似ている。
上司と上司が噛み合わず、部下が板挟みになる。数字や資料は並んでいても、意味は人間の思惑でねじ曲げられる。俺は大学のゼミ室を思い出した。研究費の分配を巡って教授同士が口論したときの息苦しい空気。それが、いま目の前で繰り返されている。
「通信系、チェック」
エリアスが声を飛ばす。
「レイテンシ〇・一五秒。安定」
「それでいい。次に行け」バーンズは苛立って早口だ。
「焦るのは危険だ」エリアスは淡々と返す。
「安全にかまけて立ち止まる方が危険だ」
ふたりの声がぶつかり合うたび、俺の胸に鋭い音が走った。
そのときだ。
「新人」
バーンズの声が突き刺さる。俺は反射的に返事をした。
「はい!」
「お前はどう見る。エリアスの数字を信じるか、俺の勘を信じるか」
一瞬、空気が止まった。視線が集まる。エリアスは何も言わない。ただモニターを見つめている。
俺は喉を鳴らし、声を搾り出した。
「……数字に、問題はありません」
沈黙。
やがてバーンズが鼻を鳴らした。「フン、つまらねぇ答えだ」
エリアスが小さく頷いた。「正しい答えだ」
空気が、ほんの少しだけ緩んだ。だが俺は知っていた。この緩みは嵐の前の静けさにすぎないことを。