表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/5

第2章 エリアスとバーンズ ― 二つの指揮



 チェックシートは、ただの紙切れにすぎない。だが今この空間では、それが一枚の契約書より重たくのしかかる。書かれているのは数字と手順、そして人間同士の対立の火種だ。


 「酸素濃度、二一・〇。二酸化炭素、〇・三。湿度五五。温度二二・五」

 エリアスの声は落ち着いていた。感情の波が一切ない。冷水のように澄んで、聞く者の神経を逆に引き締める。

 「数値は落ち着いてる。問題ない」


 「問題ないだと?」

 すぐさまバーンズがかぶせる。眉間に刻まれた皺は深く、声は金属を叩くように硬い。

 「てめぇ、甘すぎるんだよ。問題が出てからじゃ遅ぇんだ」


 船内の空気が凍りつく。俺はタブレットを握る手に汗を感じた。新人の俺に発言権はない。ただ数字を読む役目。それなのに、数字は俺に味方してくれない。


 「昨日の値と変わりはない」エリアスは動じない。「それを確認した。それで十分だ」

 「十分じゃねぇんだよ!」バーンズが声を荒げる。「帰還は一発勝負だ。数字の揺らぎひとつで、海に届かず地獄に落ちる」


 キングが横から軽く笑いを交えて言った。

 「まあまあ、二人とも。ここは戦場じゃないんだ」

 「黙れ」バーンズが一喝する。

 「はいはい。俺は口を閉じても給料は出るんで」

 軽口に救われるはずの場面。だが誰も笑わなかった。


 「次。冷却系統」

 エリアスが指先で画面を叩く。青いバーが安定して並ぶ。

 「稼働率九八パーセント。ノイズは許容範囲」

 「九八は九八だろ。百じゃねぇ」バーンズが即座に切り込む。

 「機械に百は存在しない。九八は安定値だ」

 「お前の口から出ると、それは言い訳にしか聞こえねぇ」


 俺は心臓が一拍、早く動いた。議論ではない。殴り合いの前触れだ。

 フランシスが目配せし、パオロは目を逸らし、ラーナーは窓の外を見つめていた。青い地球が、静かに回っている。ここは無重力だ。だが空気は、会社の会議室以上に重かった。


 ——ISSは会議室に似ている。

 上司と上司が噛み合わず、部下が板挟みになる。数字や資料は並んでいても、意味は人間の思惑でねじ曲げられる。俺は大学のゼミ室を思い出した。研究費の分配を巡って教授同士が口論したときの息苦しい空気。それが、いま目の前で繰り返されている。


 「通信系、チェック」

 エリアスが声を飛ばす。

 「レイテンシ〇・一五秒。安定」

 「それでいい。次に行け」バーンズは苛立って早口だ。

 「焦るのは危険だ」エリアスは淡々と返す。

 「安全にかまけて立ち止まる方が危険だ」

 ふたりの声がぶつかり合うたび、俺の胸に鋭い音が走った。


 そのときだ。

 「新人」

 バーンズの声が突き刺さる。俺は反射的に返事をした。

 「はい!」

 「お前はどう見る。エリアスの数字を信じるか、俺の勘を信じるか」


 一瞬、空気が止まった。視線が集まる。エリアスは何も言わない。ただモニターを見つめている。

 俺は喉を鳴らし、声を搾り出した。

 「……数字に、問題はありません」


 沈黙。


 やがてバーンズが鼻を鳴らした。「フン、つまらねぇ答えだ」

 エリアスが小さく頷いた。「正しい答えだ」


 空気が、ほんの少しだけ緩んだ。だが俺は知っていた。この緩みは嵐の前の静けさにすぎないことを。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ