第1章 ISSの夜明け
地球は、静かに回っていた。
窓の向こうで、白い渦がゆっくり伸びる。青が勝ち、茶が線になって消える。見ているだけで胸が詰まる。
「見飽きねぇか、チャーリー」
背後から声。キングがニヤリと笑って、俺の肩を指でつついた。
「飽きるわけないだろ」
「だよな。——で、今日も帰還前チェックで揉めるに、俺のチョコバーを賭ける」
「賭けるなよ、それ食糧だ」
「食糧でも賭けは賭けだ」
軽口の向こうに、張り詰めた空気がある。ISSの「きぼう」実験棟。金属とケーブルが美しい。だが今日だけは、どんな美しさも背筋を冷やす装飾に見える。帰る日が近い。そういう日付の匂いがする。
通路から、短いヒール音。
「集合。ECLSS(環境制御・生命維持装置)、最終前の確認に入る」
エリアスの声は、冷たい水みたいに澄んでいた。あの声を聞くと、肩で吸っていた息が腹に落ちる。数字で語る人だ。感情で流れない。
「集合は聞こえたか」
今度は、金属を擦るような低音。バーンズ。苛立ちを隠さない。
「聞こえている」エリアスが短く返す。
「じゃあ、動け」
二人の間に目に見えない線が引かれる。俺は線を跨がないように、タブレットを抱えて立ち位置を決めた。新人は、線を踏むとまず怒鳴られる。
ハーモニーからドラゴンへの連絡路。フランシスが工具袋を浮かせたまま、舌打ちする。
「またチェックかよ。昨日やったろ」
「昨日の“正常”は今日の免罪符じゃない」エリアスが淡々と言った。「酸素濃度、二一・〇。二酸化炭素、〇・三。湿度、五五。温度、二二・五。ログ通り」
「ほらな、問題なし」フランシスが肩をすくめる。
「数字は問題なしだ」バーンズが割り込む。「だが、速度が遅い。帰るんだ。帰ると決まったら速い方がいい」
「速さと安全は敵同士じゃない」
「しばらく黙れ、エリアス」
言葉が、無重量の空間で回転した。
俺はタブレットの表示をスクロールし、指先を止める。心拍は六二、血圧一二〇の八〇、血中酸素九九。訓練で叩き込まれた“自分を測る”ルーティン。数字が平静を連れてくる。
ラーナーがふわりと近づいてきて、覗き込む。
「新人、緊張してるな」
「バイザー越しに見えるのか?」
「表情筋の電気信号ってやつだ」
冗談に聞こえないから困る。ラーナーの目は、ときどき地上を見ていない。ジャングルの影が瞳に映る。彼は前の戦場から、まだ戻っていないのかもしれない。
「手順に入る」
エリアスが、マルチファンクション・ディスプレイに手を伸ばす。タップ。グラフが生きる。
「酸素供給ライン、圧力安定。リーク痕跡なし」
「冷却ポンプ稼働率、九八。ノイズバンド、許容範囲内」
「消火システム、グリーン」
数字は真面目だ。嘘をつかない。俺は数字を信じる。信じたい。
「さっさと終わらせろ」バーンズが言う。「地球は待ってくれない」
「地球は逃げない」エリアスは顔も向けない。「俺たちが焦るだけだ」
キングが俺の耳に囁く。
「今日は危険だ。二人の距離が、いつもより近い」
「距離?」
「人は近づくとぶつかる。会社でも宇宙でも同じさ」
俺は笑いそうになって、やめた。笑うと、バーンズが嗅ぎつける。
ISS側ハッチに、アナトリーが現れる。掌で短い別れの合図。
「地球で」
「地球で」エリアスが微笑を返す。
バーンズは顎だけ動かす。「見物人はここまでだ」
空気が少しだけ冷たくなる。別れは、いつだって空気を冷やす。
「宇宙服、着用」
エリアスの合図で、白いスーツが並んだ。未来の装甲。俺はヘルメットを被り、右太腿のポートにアンビリカルを差す。カチリ。スーツが呼吸を始める。
「似合ってるぞ、チャーリー。銀行強盗の三人目みたいだ」パオロが浮かびながら、親指を立てる。
「四人目じゃないのか」
「四人目はバーンズだ。あっちは本物」
「聞こえてるぞ」バーンズが言った。「笑ってる暇があったら手を動かせ」
「動いてますよ、サージ」パオロは肩をすくめて、ハーネスのバックルを締めた。
俺も肩、胸、腰、腿、足首。一本一本、張りを確かめる。締め過ぎれば血が止まる。緩ければ衝撃が刺さる。中庸。地球でも宇宙でも、それがいちばん難しい。
「気密試験に入る」
エリアスの声。
スーツの中で空気が膨らみ、皮膚に第二の皮膚が重なる。ヘルメットのゲージが上がり、止まる。針は微動だにしない。
「ユウキ、グリーン」俺は声を出す。
「確認。エリアス、グリーン」
「パオロ、グリーン」
「フランシス、グリーン」
「ラーナー……」
少し間が空く。
「グリーン、グリーンだ」
息を吐いた音が、通信に乗った。
「全員、合格だ」エリアスが簡潔に言う。
「次だ」バーンズが被せる。「ISS側、閉鎖の準備」
アナトリーが大きなハッチを押し、ロックピンが順に噛む音が伝わる。重たい音。不可逆の音。
「リークチェック開始」
MFDには、きれいな数列が並ぶ。圧が落ちない。緑が灯る。
俺は喉の渇きを自覚した。水を吸う。味がない水が、身体に染みる。地球の水道の味を思い出そうとする。思い出せない。半年も経てば、人間は宇宙の水でさえ「普通」にできる。
「分離ボルトに移る」
エリアスが言い、バーンズが短く頷いた。
「Tマイナス三〇。セーフィング解除」
キングがカウントを始める。声が落ち着いている。彼は、こういう時に落ち着く。
「二九、二八、二七——」
「待て」エリアスが言った。
全員の視線が、音に向く。
「ボルト三番。抵抗値が一瞬、跳ねた。ログを巻き戻す」
「誤差の範囲だ」バーンズが切る。「続行」
「誤差の範囲かは、確かめれば一分だ」
「一分遅れは、着水海域をずらす」
「五百キロはずれたところで、海は海だ」
バーンズが、面の皮の厚さを見せる。
「誤差の話をしている」エリアスが言う。「安全側で行く」
沈黙。
俺は息を止めた。
バーンズが、わざとゆっくり息を吐いた。「——一分で済むなら、二十秒で終わらせろ」
エリアスが頷き、指が走る。ログが遡る。波形が並び、三番の山が一度だけ高い。
「推測、静電ノイズ。問題なし」
「だったら最初にそう言え」バーンズが吐き捨てる。
キングのカウントが再開される。
「二七、二六——」
ラーナーが、視線を窓に落としたまま小さく言った。
「地球が遠ざかって見える」
「近づいてるさ」フランシスが笑う。「物理だ、ラーナー」
「見え方の話だ、フランシス」
ラーナーの声に湿り気があった。俺は彼の腕を軽く叩いた。
「帰る」
「ああ」
短い返事。届いたのか、届いていないのか。
「Tマイナス一〇」
キングの声が一段下がる。言葉に重さが載る。
「九、八、七——」
俺の心拍は六八に上がる。呼吸を整える。
「六、五——」
バーンズの顎が動く。エリアスの目は、ディスプレイから離れない。
「四、三——」
アナトリーの声が、通信に入った。「地球で」
「地球で」
「二、一——」
「セパレーション」
金属が外れる乾いた音。押し込めていた空気がひと呼吸だけ動いた。船体が微かに身じろぎする。
数センチ毎秒の相対速度。人間の人生を運ぶ速度にしては、あまりに遅い。
「姿勢、安定。回避ベクトル、確保」
エリアスの報告に、管制のサラが返しを入れる。「確認。美しい分離だ。続行」
「ほらな」バーンズが小さく笑う。「速い方が美しい」
「美しいのは、正確だからだ」エリアスは視線を上げない。
俺は窓に目をやる。ISSが後ろに流れる。太陽電池パネルが光を受けて、巨大な蝶の翅のように輝く。半年分の生活が、すっと遠くなる。
喉の奥に、何かが詰まった。
キングが肩で笑う。「感傷は着水後だ」
「言ってろ」俺は言葉を返し、視線を前に戻した。
ドラゴンの座席が包む。ハーネスが骨に「ここに居ろ」と命じる。
「デオービット前段階。通信系、ナビ、推進系、最終前チェック」
エリアスの声が、また水みたいに清い。
バーンズが「了解」と答える。このタイミングだけは、二人の声が揃う。
フライトコントロールから、サラの声。「全局、耳を立てろ。ここからが本番だ」
「了解、ヒューストン」俺は自分の声が思ったより落ち着いていることに驚いた。「ユウキ、ECLSSオールグリーン」
「キング、通信レイヤ安定。レイテンシ許容内」
「フランシス、電源供給グリーン」
「パオロ、Draco予備噴射、準備良し」
「ラーナー……」
少し、間。
「ラーナー、心拍八四。——グリーンだ」
数字が、彼を地上に繋ぎ止める一本のロープに見えた。
バーンズが、唐突に言う。
「全員、聞け。帰るのは目的だ。目的は最優先に扱う。迷うな」
それは命令というより、自分に言い聞かせているように聞こえた。
エリアスが言葉を足す。
「目的に最短で行くには、手順を最短で踏むことだ。飛ばすな。抜かすな。やり直す時はやり直す」
二人の言葉は、同じ場所に届くのか、別の場所に落ちるのか。俺にはまだ判別できない。
ドラゴンは、静かに地球へ鼻先を向ける。
視界の端で、青が大きくなる。
俺は息を深く吸った。ここから、落ちる。落ちて、帰る。
会社で言えば、稟議書に最後の判を押したくらいの段階だ。もう引き返せない。押印済み。発送済み。
俺は自分に言い聞かせる。
——生きて帰れ。理屈は後だ。
その時だった。
MFDの片隅で、小さな赤が灯って、すぐに消えた。
「今の、見たか」俺は反射的に言った。
「見た」エリアスの返事は早い。「電源バスの一瞬のドロップ。ログを巻き戻す」
「誤差だ。続行」バーンズの声が重なる。
また、線。
また、選択。
静かに、サラの声が落ちてきた。
「エンデバー、こちらヒューストン。問題の切り分けを一分で。評価が『GO』なら、その場でバーンに入る。いいわね」
短い言葉。逃げ道を塞がない配慮と、決断の期限。
「了解」エリアス。
「了解だ」バーンズ。
俺の指が自然に動いていた。バス電圧、レギュレータ、負荷の瞬間分布、温度プロファイル。
数字は、俺を試す。俺は、数字に答える。
キングが低く言う。「急げ、新兵。俺のチョコバーが溶けちまう」
「知らないよ」
「知っとけ。賭けは賭けだ」
馬鹿話に助けられて、手が速くなる。
「エリアス、ドロップは負荷瞬間集中。スラスター予備系テスト起因。復帰は自然。——俺は『GO』を支持する」
言った瞬間、自分の声に驚いた。
エリアスが短く頷く。「合理的だ。俺も『GO』」
バーンズが言う。「じゃあ、行くぞ」
サラが確認を置く。「エンデバー、デオービット——」
通信が一瞬、遠くなった気がした。
「——GO」
言葉が決壊する。
バーンズの手が、トリガーに触れる。「撃つ」
「待て」エリアス。
刹那の静止。
バーンズが、目だけで笑った。「三、二——」
俺は、息を止めた。
地球が、こちらを見ている。
戦場の上空みたいに、青く。
——落ちてこい、と。
(つづく)