CASE2 小説家の苦悩
お久しぶりです。
まさかの適当に初めて書いた小説を読んでくださる方がいることに感動しています。
時間を見つけて書いていることもあり更新頻度は遅いですが、気長に付き合って頂ければ幸いです。
「今日はお客様が多い日ですね」
マスターがつぶやいた。言われてみれば、確かに客は多いようだった。もっとも、この店に数人が集うこと自体が、極めて稀な光景なのだが・・・。
「そろそろ、お客様がいらっしゃいますよ」
マスターが私に目配せした。磨いていたグラスを片付ける。
それと同時にドアが開き、ベルが鳴った。細身でメガネをかけた男性が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
男性は終始おどおどした様子でドアから一番近い席に腰掛ける。
「あのメニューは・・・」
「メニューはございません。お客様に合わせた飲み物をご提供させて頂いております。
「はぁ・・・。じゃ、じゃあ、おすすめでお願いします」
「かしこまりました」
マスターは、恭しく一礼すると、近くにあったシガーカップを取った。
(この人にそのお酒を?)
かすかな驚きと困惑に店が包まれたのを感じた。私の疑問をよそに、マスターはライ・ウイスキーのボトルを手に取ると、琥珀色の液体をシェイカーに注いだ。その重厚な香りに、絞りたてのオレンジとレモンの瑞々しい酸味が加わる。やがてシェイカーを振る音が、まるで静かな雨音のように店内に響き、銀色の表面に浮かんだ水滴がきらりと光った。
マスターは軽やかな手つきでグラスを男の前に差し出した。
「インク・ストリートになります」
その名前を聞いて私は息を飲んだ。インクの道。彼が志している小説家への道。それを体現したような
飲み物を男は受け取った。一口飲み、少々の驚きを浮かべた。
「甘い」
その一言をそっとこぼした。彼は少々、味わうように飲むとそっと息をこぼす。
「小説家になれないかもしれません」
彼の言葉は虚空に吸い込まれた。
「自分に才能がないことはわかっていました。それでも諦めきれなかったんです。何度も賞に応募しました。」
彼の懺悔にも似た独白が続く。私たちは、それをただ聞くしかなかった。
「才能の無さに気付きたくなくて、筆をとることすら辛くて・・・」
彼の言葉が、最後の雫のようにカウンターに落ち、店は静寂に包まれた。マスターは、責めるでもなく、憐れむでもなく、ただ静かに彼の告白が終わるのを待っていた。
やがて、重い沈黙を破るように、マスターはゆっくりと口を開いた。
「ええ、よく分かります。希望であったはずの夢が、いつしか自分を苛むだけの毒に変わるのです」
その声には、不思議な説得力があった。
「才能の有無は、私の知るところではありません。ですが、その夢にまとわりついた『書くことの苦痛』。その味なら、私にも分かります」
マスターはそう言うと、おもむろに男性の前に置かれたシガーカップに手を伸ばした。 「その苦味、私がいただきましょう」
戸惑う男性を意に介さず、マスターは彼のグラスを手に取り、自らの口へと運んだ。 先ほど男性が「甘い」と評した琥珀色の液体を、静かに一口、喉へと流し込む。すると、マスターの眉間にかすかな苦悶の色が浮かんだように見えた。それはほんの一瞬のことで、すぐに彼はいつもの無表情に戻っていた。
マスターがグラスをカウンターに戻すと、男性はハッとしたように、自分の両手を見つめた。まるで、長年ついていた重い枷が外れたかのように、彼の肩から力が抜けていく。
「……そっか」
彼は、誰に言うでもなく呟いた。
「楽しかったんだ、最初は。ただ、書くのが…。誰に読ませるでもなく、評価されるでもなく、ただ物語を考えているだけで…」
忘れていた。彼は、その甘い記憶を、あまりにも長い間。
憑き物が落ちたような、穏やかな顔で彼は立ち上がった。その背筋は、店に入ってきた時とは比べ物にならないほど、まっすぐに伸びている。
「…ありがとうございました」
力強い声だった。彼は財布を出そうとする。
「お代は要りません」
いつものように、マスターは静かに告げる。そして、グラスを磨きながら、続けた。
「もう来るなよ。あなたの物語の甘さも苦さも、これから味わうのは、あなた自身だ」
店を出ていく彼の足取りは、もうおどおどしていなかった。 私は空になったシガーカップを片付けながら、思った。マスターは今日、物語の「苦い部分」だけを抜き取って食べたのだ。
後に残された、あの甘いカクテルの余韻だけが、彼がこれから紡ぐ新しい物語の、最初のインクになるのかもしれない。




