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短編2

ただの下剋上

作者: 猫宮蒼



 ――父の執務室に呼び出された双子の兄アランを弟のエリオはそっと部屋の外から窺っていた。

 扉をそっと数センチ押し開けて、そこからそっと部屋の中を見ている様は、誰がどう言っても否定しようがないレベルで覗きである。


 エリオのいる場所から話し声はかすかにしか聞こえないが、それでもエリオは困らなかった。既にどういう会話がされているのかを知っているからだ。


 何故か狼狽えているアランに、しかし父はこれはもう決定事項だとキッパリ言い捨てて、そうしてふと顔を上げた。


「――いるのだろう、エリオ。お前も入ってきなさい」


 こっそりと様子を窺っていたのにそれでも父にはバレてしまっていたようだ。

 まぁ、気付くか……とエリオはすぐさま思い直した。

 執務室の扉は閉まっていたはずなのに、気付けばほんの数センチとはいえ開いているのだ。扉を背にしているアランが気付かなくてもそれは当然だけど、父が気付かないなんてあるはずがなかった。


 このままここでいない振りをしたところで、父を怒らせるだけなのでエリオは言われるままに室内に足を踏み入れる。



「……エリオ、お前どこまで知ってるんだ……?」


 そうして少しだけ距離をあけてアランの横に立ったところで、焦りと困惑が混じり合ったような表情と声でアランがエリオにそう切り出した。


「どこまでって何を? 兄さんの婚約がなかったことになって、代わりに俺がマチルダの婚約者になった事?

 兄さんがこの家の後を継ぐ事がなかったことになって、俺が次の当主になる事?

 兄さんがこの家の籍を抜かれて平民落ちする事?

 生憎俺、それくらいしか知らないな。他になんかある?」


 既に父からそう聞いているので、エリオとしては今更驚く事ではない。

 けれどアランはとても驚いたようだった。


「どうして……」

「どうしても何も、なんでわかんないかな。

 兄さんさぁ、マチルダっていう婚約者がいたのに他の女にふらふらしてたじゃん」

「メルンの事なら彼女とはそういう仲ではない」

「だからだよ」

「えっ」

「いっそ浮気だって開き直られた方がまだマシだったよ。

 不誠実だろうとなんだろうと、まぁ貴族なら愛人持つ奴もいるからさ、それならまだマチルダも兄さんの事内心で罵って見下げて蛇蝎の如く嫌ったりしながらも、きっぱり割り切って妻としての役目だけこなして仮面夫婦まっとうしたと思うよ。

 マチルダはうちとの婚約がどういうものかちゃんと理解してるからね」


 うち――ファエルティオン侯爵家と、マチルダの家メルヴォシルア伯爵家との婚約は、そもそもが王命である。

 派閥間のあれこれで今まで散々揉めていたのだが、長い年月をかけてそのあたりの問題がようやく解消されつつあるのだ。

 確執がバリバリにあるか、と言われると別にそうではない。

 揉めていたのは数代前の話で、エリオからすれば自分が生まれる前の話ですらある。それを、祖父母の世代が引きずってそこから恨み節を聞かされてきた親世代が何となく惰性で引き継いでいた部分もあるのだ。揉め事のいくつかは。


 けれどもそんな不毛な争いを延々続けられても、正直得をする者はほとんどいない。

 当事者の世代はとっくにほぼ寿命か事故か病気か暗殺か、ともあれ生きてはいないのだから。


 不毛だな、無駄な事だな、と思っていても個人間の争いどころか結構な範囲に広がってしまっていた争いは、中々終わらなかったのである。

 地味な嫌がらせなども続いていたので、当事者世代は既に亡くなったといっても、それ以降の世代が何の被害も受けていないわけではないので。


 切っ掛けは既に昔の事とはいえ、それでもずるずると微妙な規模での争いは続いていた。

 血で血を洗う苛烈なものではないが、まぁ、普通の敵対派閥に対する足の引っ張り合い程度のものとして。


 それがまたいつ悪化するかもしれないと考えると、王家もいい加減どうにかしないとと思っていたのだろう。

 あれこれ色んな政策を打ち出して、どうにかようやくその手の争いも少しずつ収束しつつあったのだ。


 そこから、各派閥のいくつかの家同士を結び付かせる流れになった。


 ファエルティオンとメルヴォシルアの家の婚約もその一つだ。


 王命での政略結婚。

 そうはいっても、それぞれの家には相応の利があった。


 なんの得にもならないとなれば、まぁ次の争う矛先が王家に向かうかもしれないので流石に王家だって考えている。国内の争いを減らそうというところで新たな火種を生み出すような真似をするはずがなかった。



 マチルダがファエルティオン家に嫁いでくるのは決定事項だ。

 言ってしまえばそれは、相手がアランでなくたって構わない。

 これで家にはアランしか息子がいない、というのであれば問題だったが双子の弟でもあるエリオがいる。

 アランはもっと自分の立場を考えるべきだったのだ、とエリオは思っている。


 むしろ婚約者が決まって、次の家の当主は自分だと思っていたからこその油断だったのかもしれないが、油断は結婚するまでするべきじゃなかったのだ。現に今こうなっているわけだし。


 本人が望んだわけではない結婚相手、という点でアランに不満があったとしても、まぁそれは仕方がない。

 貴族としての役目を頭で理解していても、心が納得しない事というのはいくらでも存在するだろうから。


 他に好きな相手ができたとしても、そこは個人の自由だ。

 そうはいっても、婚約者がいるのでその想いは秘めるしかないわけだが。

 王命での婚約を無視してまで他の相手に入れ上げるのは問題しかないが、しかし誰かを好きになる気持ちまで禁じているわけではない。表に出さなければ、心の中で済むのならそこまで咎められるものではない。

 流石に心の中を見通すなど常人にできるわけでもなし。



 アランは学園で男爵家に引き取られたという少女と出会った。

 見た目は愛らしいものだったとエリオも思う。好みかと聞かれればそんな事はなかったが。

 客観的に見て愛らしい容姿だな、と思う程度だ。

 好きな人は好きなんだろうな、と思うもので、エリオにとってはその程度の、誰かと話題にする程でもないような些細なもの。


 今まで平民として暮らしていたのもあって、慣れない貴族社会で苦労しているとか、そういう噂を聞いたような気はする。

 アランは直接その少女――メルンから聞かされたのだろう。


 学園の中で困った様子のメルンに、ともあれアランは手を差し伸べた。



 それくらいなら別に問題はない。

 紳士たるもの、困っているレディがいるのなら手を差し伸べるべき――というような気持ちで助けようとするところまでは、恐らく他の令息もするだろうから、ここまでなら問題はないのだ。


 問題はその後だった。


 愛らしい少女に潤んだ瞳で見上げられ、助かりましたと感謝され、そうしてその後も顔を合わせるたびに何やら困った様子であれば手を貸して――なんて事を繰り返してしまった結果、アランはメルンとすっかり一緒にいるようになってしまったのである。


 懐かれた、と一言で言ってしまえばそれまでだが、アランはそのまま隣にメルンがいる事を良しとしてしまった。

 メルンにすっかり頼りになる人と見られたアランの心境まではエリオにはわからない。たとえ双子で見た目がいくらそっくりだろうとも。


 エリオは早々に面倒な気配を察知していたから、アランと間違われないように学園にいる間は伊達眼鏡をかけて見た目の区別をつけるようにした。おかげでエリオはメルンに間違われる事も纏わりつかれる事もなかった。そもそも自分を見る目が冷ややかなエリオに、メルンもわざわざ近づこうとはしていないようだったけれど。


 アランが何を思っていたかはさておき、頼られるという事で承認欲求が満たされたりしていたのか、はたまた何らかの下心があったのか……仮に疚しい気持ちがあったとしても、疚しいなんて堂々と言えるはずもない。言えば、浮気ですかと婚約者から冷ややかに詰られるのは目に見えていただろうし、そうでなくたって周囲からもひそひそ言われる事だろう。


 アランを見かければぱっと表情を輝かせて駆け寄って来るメルンは、これが犬や猫なら良かったが生憎と人間なので。

 貴族令嬢としてはそんな振る舞いは問題があるので当然注意されていたのだ。

 メルン本人が何を思っていたのか、エリオは知らない。知ろうとも思わない。


 平民時代に比べれば生活水準は上がったと思うがその分貴族として振舞うために学ぶことが増えた。良いところだけ享受できるわけでもなく、窮屈になったと思う部分だって増えた事だろう。


 けれども、男爵家の養女として迎え入れられたのは男爵家だけの意思ではないはずだ。

 いくら平民だからとて、貴族が勝手に本人の意思を無視して養子にする事は滅多にないのだから。


 親に売られたのであればともかく、少なくともエリオがメルンを見かけた時、彼女にそういった影のようなものは感じられなかった。

 アレは恐らく、そこまで深く考えていなかったんじゃないかなぁ……とエリオは思っている。


 多分話の最初の部分だけ聞いて勝手に脳内で自分の都合の良いように考えてしまったのではないだろうか。

 実際メルンが学園に入学するよりも三年前に貴族の家に入っているので、貴族生活に慣れないというのもどうかなと思うのだけれど。


 見た目の良さから養子にという話が出たのだろうとは思う。

 実際家同士の縁を繋ぐのに婚姻関係というのは手っ取り早い。

 ただ、その相手がいなければ他の方法を取るしかないが、その方法を取るのが難しい場合は養子を迎えて……なんて場合もあるので。


 メルンはそのケースのはずだ。


 いい家との縁を結ぶために、とかそういう話を恐らく男爵の方からもメルンにしていたのだろうとは思う。


 問題点は、メルンがそこまで賢くなかった事か。

 この国はどちらかといえば女性の立場が低い。貴族令嬢はそれでも相応の教育を施されるけれど、平民の場合女に学は必要ないという傾向にある。それでも自立している女性もいるが、大半は若いうちに見た目を整えてどこかの家に嫁に行くのが定番である……とエリオは聞いている。実際どこまで事実なのかはわからないが、概ね事実なのではないかと思われる。


 メルンの場合もそうであるのなら、いずれ嫁にいくために見た目こそ愛らしくしていろと言われた事はあるとして、平民時代なら勉強はそこまで重要視されていなかったのかもしれない。

 ところがいざ貴族の家に養子として迎えられて勉強が必要だと言われたのなら、今までしてこなかった分苦労はあったと思う。


 思うのだけれど……それにしたって、引き取られて三年、学園に入学してから二年と合計五年の月日があったにも関わらず、メルンの学習成果は乏しいとしか言えなかった。


 メルンはきっと、自分を甘やかしてくれるアランに懐いて、そのまま彼が自分をお嫁さんにしてくれれば楽して暮らせるとでも思ったのかもしれない。

 アランには婚約者マチルダがいたけれど、あちらは政略結婚という事でメルンからすれば愛のない関係。

 けれどメルンはアランを愛して――いたかはさておき、好意はあった――アランもまたメルンに対して甘い態度で接していたから。


 メルンがいっそ愛人で満足するような相手ならどうにかなったのかもしれないが、愛人という立場は妻と比べて生活の保障という点で危うさがある。

 妻の場合は離婚だとかの手続きが必要になるけれど、愛人の場合相手がこの関係を続けるのを止めるとなった時点で放り出される事すらあるのだ。


 今まで愛人として囲われてきた女がある日唐突に路頭に迷う事になるかもしれない、という可能性を秘めている。


 愛人契約を結んでそうならないよう上手く立ち回れる女性というのは案外少ない。

 平民の女性の大半は学など必要ないと学ぶ機会が少ないからこそ、そういう事を知らない者の方が多いので。

 なので性質の悪い貴族に狙われると泣き寝入りする事にもなりかねない。

 泣き寝入りできればいいが、もっと酷いところは殺される事もあるのだ。

 エリオは直接そういったあくどい事をしている相手を知らないが、それでも噂としてそういった話は耳にしたし、疑惑のある相手の噂だっていくつかあるのだ。


 さておき、メルンはすっかりアランと恋人同士のつもりで、いずれは彼のお嫁さんになれるものだと信じていた。


 アランの婚約者だったマチルダは当然それについて忠告も警告もした。アランは彼女とはそんな関係じゃない、と言ったけれど。

 ならばとっととメルンを突き放すべきだった。


 マチルダからの言葉を単なる嫉妬とでも思っていたのだろうか、その後もアランはメルンとよく一緒にいるのを学園の生徒たちは目にしていた。


 決定打としては。


「前に中庭で件の男爵令嬢に、友人かどうかは知らないけどクルカセラ子爵令嬢が質問してたんだ。

 兄さんには婚約者がいるから二人の関係は学生時代だけの遊びなのか、それとも将来的に愛人になるのか、どっちなのかとね。

 あ、ちなみにその時俺だけじゃなくて、マチルダや他の友人もいたから、聞き間違いっていうのはないよ」


 エリオがそういったところで、アランの表情は特に変わらなかった。

 平然としているというよりは、困惑してこれ以上変化させようがない、という感じだった。


「件の令嬢はね、婚約ならまだ結婚しているわけじゃないから、なんてこたえてたよ。

 兄さんとマチルダの婚約は王命だっていうのをどうにも理解してなかったみたいだ。

 将来兄さんのお嫁さんになって妻になったら使用人が身の回りの事をやってくれるから、自分は何もしなくても裕福な暮らしができるんだ、なんてね。そんなわけ、ないのに」


 確かに高位身分の貴族ともなれば、身の回りの大半は使用人がするけれど。

 けれど、夫人となった後何もしなくていいわけではないのだ。

 家の中を取り仕切るのは妻の役目。そうして他の貴族たちとの縁を結んで立場を盤石にしておかなければ、いつ何の拍子に足を引っ張られるかわかったものではない。万全だと思っていたってそういった事は起こりうるのだから、備えはやりすぎたって足りないくらいだ。


「だからね、俺は父さんに報告したし、マチルダもそれは同じく自分の親に報告したんだ。

 結果、兄さんは我が家の当主としては相応しくないと判断された」

「なんでそうなるっ!?」

「なんでそうなる? 本気で言ってる?

 まさかだよね?

 俺だって気付いたし、マチルダだってそうだった。なのに兄さんは気付かなかった?

 じゃあ、こうなるのは当然だったんだろうよ」


 エリオは思わず吐き捨てていた。


 平民から貴族の家に迎え入れられた娘が、ちょっと夢を見てしまったとしてもわからないでもない。

 けれど、夢はいつかさめるもの。どれだけ甘い夢に浸っていようといずれは現実と向き合わなければならない。


「兄さんが彼女を最初に助けた事に関してはまだいいよ。でもその後も兄さんはずるずると彼女と関わり続けた。

 慣れない生活が大変って言っても既に学園に入る三年前には引き取られてたんだから、三年あって慣れないなら貴族に向いてないとさっさと男爵に申し出て平民に戻る事もできたはずなんだ。

 それでも彼女は学園に入った。そうして人脈を広げる必要があったけど、実際至らない点ばかりでほとんどの令嬢たちは多少の話をするくらいなら我慢できるけど、友人となるのは無理だと判断したんだ。

 最初の一年目でね。

 だってその頃には兄さんに頼って甘えるのが当然だと思うようになってたんだからさ」


「向き不向きだってあるだろう。それでも頑張っている相手を慰めたりする事の何が悪いんだ」

「努力の方向性を間違わせた原因になっちゃったんだよ兄さんは。

 そうでなくともマトモに勉強なんてしなくたって、将来どこかの家にお嫁さんになったらあとは楽して暮らせるって思い込んでるような相手だ。

 もしかしたら、彼女の母親がそんな考えで、幼い彼女にそう言っていたのかもしれない。

 それでも、周囲の反応からもしかしたらこのままではいけないのかもしれない……と思い始めていたかもしれない。

 けれど兄さんが彼女に今のままでいいと思わせてしまったのは間違いないんだ」


「アラン、お前結局そのメルンという娘をどうするつもりだったのだ?」


 父が呆れたように口を挟んだ。


「どう、とは?」

「マチルダとの婚約を挿げ替えてその娘を妻にするつもりだったとか、愛人にするつもりだとかあるだろう。方々から報告を受けたが、お前とその娘との距離感でただの友人、はいくらなんでも無理がありすぎる」


「学生時代のただの遊びだとしてもだ。

 それでも、だったらなおさら兄さんは彼女が今のままでいる事を注意すべきだった。

 周囲は距離を置いてるんだから、一番近くにいる兄さんが優しくでも言ってきかせればまだ良かったんだけどさ。


 兄さんがやってるのって、よその家庭の教育方針の妨害だったんだよね」

「はぁ!? そんな事はしてないぞ!?」

「してたんだよ。これでもかと甘やかしまくっただろ。そのせいで彼女は嫌な事があれば兄さんのところに駆け込んで慰めてもらえばいいと思うようになってしまった。

 わかるかい? 一応それでもまだ最低限仕方なく、でマナー違反を注意した令嬢相手に虐められたなんて言い出すようになっちゃったんだよ。以前は注意されたという事実くらいは彼女も認識できていたはずなのに」


 そう言われて、アランの脳裏にメルンとの過去のやりとりがいくつもよぎっていく。


 あたし一生懸命頑張ってるんですけど、アレはダメこれはダメって言われるばっかりで……


 そんな風に泣きそうなのを堪えるようにして言われた事もあった。

 その時アランは、彼女が元は平民であるという事も知っていたのもあって、周囲はそれを理由に彼女に無理難題を押し付けているのではないか、と思ってしまっていた。


「言っとくけどさ兄さん。彼女、本来の学園での教育内容の半分もまだ理解できてないからね」

「そこまで酷かったのか!?」

「そうだよ。だからマチルダだって兄さんに、彼女との付き合いはよく考えてって伝えてただろ。

 あれじゃ彼女のためにならない。そのまま学園を卒業したところで、成績も悪く貴族令嬢としての最低限すらどうかと思う女性となれば、嫁に出す以前の話だからね」

「そうだな、私もお前には何度か伝えたはずなのだが」


 重々しい声の父。

 確かに言われた事を思い出す。

 けれどその時のアランにとって、父の言葉は今は貴族となったとしても、それでも元平民、お前のようなものが関わるべきではない、という意味で受け取ってしまっていた。


 父はそんなつもりでなくとも、アランこそがそう受け取ってしまったのだ。


「学園から戻って男爵家での追加教育も、彼女はそんなもの必要ないと言うようになっていたと言う。まぁこれは……割と最近聞く事になった話だが。

 お前がいるから、そんなものはしなくたって平気だ、と間違いなくあの娘はそう言ったらしいぞ」


「マチルダがさ、兄さんに彼女の事聞いたと思うんだけど。

 彼女を愛人として囲うつもりなのかどうなのか。

 いくら政略結婚になるとはいえ、愛人と同じ屋敷で生活なんてありえない。まさかマチルダの方を別邸に押し込めるなんて真似はするはずないだろうと思うけど、でも兄さんの態度から絶対そんな事がないとも言い切れない。


 将来どうするつもりなのかとか、マチルダだって仕方なしに踏み込んで聞くしかなかったのに兄さんからは明確な答えは何も出てこなかった。


 自分で飼ってるペットなら甘やかすのも好きにすれば、ってなるけど、兄さんが甘やかしていたのはよその家のお嬢さんだ。それも、慣れない環境で生きていくための教育真っ最中のね。


 でも兄さんのせいで彼女はその教育すら必要ないと思い込んで、やりたくないと駄々をこね部屋にこもったりしてたみたい。


 ペットの犬猫なら別にさ、いくらでも甘やかしたって構わないんだ。でも彼女は兄さんのペットでもない人間なんだよ。確かに今は愛らしいとか言われてる見た目かもしれないけど、彼女だって年をとって老いていく。

 愛嬌が通用するのは若いうちだけなんだよ。でもその愛嬌だって、礼儀作法も何もあったもんじゃなくなっちゃったから、周囲に通用しなくなってきた。

 彼女の事を好意的に見てるのは、あの学園じゃ間違いなく兄さんくらいなものだったよ。


 でも今の兄さんの態度からすると、学園卒業後も、成人したそのずっと先も兄さんが彼女の面倒を見るって感じじゃなさそうだよね。

 学ぶ機会があったのにそれを甘やかして台無しにした兄さんが、責任もって彼女の一生を背負うっていうならまだしもそうじゃないならそれこそ無責任でしかない。

 兄さんがそれとなく今のままじゃダメなんだよって彼女に言い聞かせて学ぶ方向性に誘導してたならともかく、そうじゃなかった。

 見るつもり、ある? まぁあったとしてマチルダと結婚した後同じ屋敷に住まわせるとか流石にマチルダも怒るだろうからその場合は兄さんの資産で家でも用意してあげる必要が出るとは思う。


 慎ましやかな家になるとは思うけど、彼女がそれでも納得してくれるような人なら良かったかもしれないね。でも無理だろ。だって彼女完全に兄さんと結婚してお嫁さんになるつもりだぜ? 本邸で優雅に何不自由なく好きに生活できるっていう夢を見ちゃってるもんな……それがいざふたを開けたら愛人扱い、じゃ向こうも納得しないだろ。


 学園で兄さんが二年もの間甘やかし続けたのは、彼女にとっては楽だったかもしれないけど。

 貴重な学ぶ期間を奪ったに等しいわけだ。それってさ、一種の虐待なんだよね。

 やり方が優しいから一見すると問題に見えないけど、そのまま学園を卒業して兄さんが責任もとらずそこでお別れしたらさ、知識も足りない礼儀もなってない、見た目はいいけど年をとればそれすらなくなる哀れな女が残されるだけ。


 兄さんが跡取りに相応しくないって判断されたのは、つまり生き物を無責任に可愛がってやり方こそ優しいとはいえ動物虐待をしたからだよ。

 優しさは悪ではないけど、貴族として後継者として当主となる以上、無責任である事は看過できない。

 当主にさえならなきゃ多少の無責任は許されていたかもしれないけどね」


「今更そんなつもりではなかった、と言われてももうどうしようもないところまで来ているとお前は理解するべきだ」


 アランが何かを言うより先に父が言った事で、アランが紡ごうとしていた言葉は封じられた。



 実際、今から責任を果たすにしても、学園を卒業するまで残された時間はわずかだ。

 貴族に引き取られてから五年が経過しているにも関わらず未だ最低限の事すらままならないメルンに、五年どころか一年もない期間で急いで必要な常識やマナーを叩きこむにしても、彼女がきちんとそれらを理解し習得できるかとなれば、恐らくは無理だろう。


 マチルダとの――あちらの家とこの家との婚姻での結びつきは王命であり逆らうわけにもいかない。

 であれば、メルンはどうしたって愛人になるしかないが、そのメルンがそれを納得しはしないだろう。

 せめて今まで甘やかす事なく、事情をしっかりと説明していれば……いや、難しい事や厳しい事を言って嫌われるのを避けた結果が今だ。

 仮に説明していたとして、その上でメルンに「どうしてそんな事言うの!? アランなんて大嫌いよ!」なんて言われるのが目に見えていたのだ。

 今までのアランはそれを避けたかった。自分に頼って来る愛らしい少女。自分を頼りにして見つければパッと表情を輝かせて近寄って来るメルンが愛おしかった。貴族令嬢としての距離感としてはあまりにも近すぎるそれも、自分に心を許してくれている証拠なのだと思えば気分が良かった。


 しかし今にして思えば、いっそ貴族の常識を説いて嫌われて距離を取られた方が良かったのかもしれない。


 メルンを愛でて近くに置いた事で、結果彼女の教育の妨げとなったと言われても否定できなかった。アランとしてはそんなつもりはなかったけれど、そういう意味では確かに彼は男爵家でのメルンの教育を妨害してしまった形となる。


 見た目が良いだけの娘をどこかの家と縁付かせるにしても、マトモな家ならそんな娘を嫁にしようなどとは思うまい。

 愛人ならまぁ、若いうちは引き取り手もあるだろう。

 若くて健康な、という条件で後妻を求めている家も、まぁ引き取り手としてなくはない。


 けれどもきっと、そういった相手のいずれもメルンが望むような、若くて見た目が良くてお金持ちで、自分をとことんまで甘やかして好き勝手させてくれるような相手ではない。

 下手をすれば自分の父親と同じかそれ以上の相手である可能性すら高くなるのだ。


「まだねぇ、兄さんが性欲に負けて浮気しました、とかの方が話は早かったんだよ。

 もしくは兄さんが彼女の事を気に食わなくて、あえて遠回りな嫌がらせでやらかしたとか。

 けど考えなしにやらかしたってのがハッキリしちゃったからさぁ……跡を継いだあとでそんな考えなしな事をまたやらかされたらさ、何が困るって家が困るの。うちだけじゃなくて、同派閥の家とかにも迷惑かかるわけ。


 でもうちはマチルダの家と婚姻で結びつかないといけない。これは決して譲れない決定事項だ。

 じゃあどうするか。男爵家もさ、まぁ彼女の頭の悪さを甘く見てたのもあるけど、でもうちが――あぁ、いや、『兄さん』が加速させたようなものだろ?

 今までの無責任の代償として、彼女とは彼女を甘やかした兄さんが結婚すればいい。

 そういう話に落ち着いたわけ。

 となると、マチルダと結婚する相手は兄さんだと問題しかない。

 だからね、結果として俺が代わりになった。

 兄さんに何かあった時のスペアだからね、俺」

「スペアなら、お前が代わりに」

「何言ってるのさ。さっきも言ったろ。無責任にやらかしたのは兄さんだって。

 無責任にやらかした次期後継者予定と、問題を起こしていないスペアなら、現当主である父上様がどちらを選ぶかなんてわかるだろ。

 まぁ、マチルダとはよく話をする機会があったからね。主に兄さんが彼女に関わってほったらかしにしてる時とか。うちの不肖の兄がすいません、って尻拭いついでに。

 浮気とか言うなよ。優先順位を履き違えた兄さんがやらかさなきゃ俺が尻拭いする必要もなかったんだから」


 そこで、今更のようにアランは気付いた。

 エリオは最初からマチルダの事をマチルダと言っていた。

 普段であればマチルダ嬢と呼んでいたはずだ。

 この場は身内だけだからあえて省略しているだけかと思ったがそうではなかった、と気付いたがでは一体いつからアランの命運は決まってしまったのか。

 自分自身の事であるというのに、破滅の足音はアランには届いていなかった。だからこそこうして今、未来が閉ざされてしまったわけだが。


「兄さんはもう籍を抜かれてるから平民になるけど、でも安心していいよ。

 件の彼女も一緒だから。変な思い込みを捨てれば彼女もまだ貴族でいられたとは思うけど、でも兄さんに甘えるっていう楽を覚えちゃったみたいだからね。彼女は兄さんのお嫁さんになるって信じて疑ってないし、そんな状態で他の貴族の家に嫁がせるような事になればさ、嫁ぎ先でどんなトラブル起こすかわかったものじゃない。

 そんな相手を嫁がせられないでしょ。でもこれからは兄さんとずっと一緒だ。

 彼女はもう面倒な貴族の礼儀だとかを学ばなくてよくなるし、何の意味があるのかわからないような勉強をする必要もない。……貴族の常識も含まれてるのに意味がないって思えるのも大概だけど。


 兄さんだって、これからは好きなだけ彼女を甘やかせるよ。誰からも文句がないまま、好きなだけ、ね。


 まぁ、兄さんは平民になるし、彼女も平民に逆戻りになるけれど、何、優秀な兄さんの事だ。

 そこらの平民よりは学があるから、それなりに稼げる仕事とかに就く事は可能なんじゃないかな?

 一応餞別として兄さんの私物のいくつかは持っていってもいいからさ、上手くやればそれなりの暮らしはできると思うよ?

 彼女が奥さんとしてどこまで頑張ってくれるかは知らないけど、ま、そこは兄さん次第だよな。


 それから、兄さんも知ってるとは思うけど。


 貴族と違って平民の離縁って簡単にできるんだよね。

 そうはいっても、一方的にっていうのは無理だけど。双方合意の上なら貴族以上に簡単にできちゃうみたいだよ。

 ま、やったらやったで兄さんが本当の意味で無責任な人間だっていう事が証明されるだけなんだけどさ」


 言いながらも、エリオは内心でさてこう言った事でこの兄はどうするのかな、と漠然と考えた。


 無責任に他所の家の人間を甘やかし、結果彼女は頑張らなくてもいいと覚えてしまった。

 頑張らなくたってアランが優しく親切にしてくれるし、じゃあわざわざ辛い思いをする必要なんてない、と彼女は本来ならもっと努力してやらなきゃならない勉強に対する努力を放棄してしまった。


 兄は彼女に対して責任を取る必要のない立場ではあるからこそ、好きなだけ甘やかしたのだろう。

 男爵家からすればそのせいで相当苦労したようだが。


 無責任に甘やかして、結果彼女は再び平民へ逆戻りする事になった。

 彼女はきっとそれを望まないだろうけれど、今更何を言ったところでその結論が覆される事はない。それどころか、貴族の娘という立場にしがみつこうとしたところで、場合によっては引き取った男爵家そのものが敵に回りかねない。


 彼女が縋りつく先は、不満があろうとも最早兄しかいないのだが、努力を止めた彼女が平民に戻ったからといって、果たしてその後真面目に働いたりするだろうか?

 甘やかしてくれる兄がいるのだから、自分は家にいればいいと思う可能性はとても高い。

 兄が彼女に君も働いてくれ、なんて言ったところで素直に聞いてくれるかはエリオからするととても賭けだった。


 しぶしぶであろうとも働いて平民として再び頑張るならそれで良し、そうじゃない場合、兄に甘えて働こうとしない場合であっても、それについてはそうしてしまった兄の責任だ。

 けれど、若いうちから働かなくていい、という風に思ってしまった彼女はそのまま年をとってもきっとそのあたりは変わらないだろう。


 兄に持ち出して構わないと告げた私物のいくつかを売って生活資金にかえたとしても、生憎と一生遊んで暮らせる額には届かない。彼女がある程度慎ましく生活してくれればいいが、男爵家という低位身分の貴族の家に入り平民の時よりは贅沢な生活をしていたのだ。そう簡単に以前のような生活に戻れはしないだろう。


 であれば、きっといつか兄には限界が訪れる。

 その時に彼女の方も兄に嫌気がさしている可能性は普通に考えられるので、離縁するとなった時案外すんなりいくかもしれない。

 重荷が消えれば兄一人なら、それなりにやっていけるんじゃないかなぁ……とは思う。


 思う、けれど。


 エリオはアランに対して不満を募らせていたので、あえてそんな風に言ったのだ。

 彼女と兄、お互いが同意の上で離婚する事になるかもしれない。だが、エリオのこの言葉によってそこまで馬鹿でもない兄ならきっと――


 無責任に甘やかしておいて、今度は簡単に離縁するんだ?

 兄さんはどこまでも無責任だなぁ。


 きっと、エリオのその言葉を脳裏によぎらせるかもしれない。

 その場にエリオがいなくても何かの拍子に思い出してくれれば、自分が無責任だなんて思っていなかった兄だ。離縁するのがベストであると思っていても、恐らくはそう簡単に離縁という選択はしないだろう。自分は決して無責任な人間ではないのだという事を示すために。


 一体誰に示すのだ、という話ではあるのだけれど。

 だってそうなった時、エリオが近くにいるわけがないのだから。

 それでも――


「そうだね、定期的に市井に下りた兄さんの様子は確認だけしてあげよう。既に思い描いた未来は閉ざされてしまった兄さんだけど。

 でも、場合によっては多少の救いはもたらされるかもしれないね?」


 綺麗な笑みを浮かべてエリオがそう言えば、これでアランは術中にはまったも同然だった。


「さ、兄さん、そろそろ荷物をまとめた方がいい。着の身着のまま家を出るのは後を考えたら大変だろう?」


 言って、そっとその背を押してやればアランは青を通り越して真っ白な顔色のまま、覚束ない足取りでふらふらと部屋を出て行った。ここでこれ以上不平不満を述べたところで、アランの待遇が改善される事はない。それどころか、屈強な使用人の手で無理矢理家を追い出される可能性の方が高いのだ。


 であれば、自分の足で移動して部屋で荷物を纏めるのが現状もっともマシな行動である、とはアランでも一応理解できていたようだ。


 ふふ、と思わず笑みが零れるエリオに、


「助けるつもりか?」


 父の重々しい声が投げかけられた。


「まさか」


 そしてエリオは即座に返す。


「あぁ言っておけば、少なくとも馬鹿な真似はしないだろうと思いまして。

 よそで飼ってる動物を優しくとはいえ虐待するような男ですよ? 下手に開き直られて別の騒ぎを起こされたら後始末が面倒じゃないですか。

 それに、アレはもう我が家から除籍されているのですから面倒事を起こさなければそれでいい。

 わざわざ助けてやる義理なんてありませんよ。

 今まで忠告も警告もしてきたし、苦言だって呈してきた。その上でこの道を選んだのはあの人だ」

「そうか」

「安心してください。余計な事はしませんよ」


 その言葉にエリオはアランに対して何かをするつもりがない事を悟り、父は重々しい溜息を吐いた。

 エリオがアランを嫌っているのを父は知っていた。


 表向きはそれなりに仲の良い兄弟に見えていたが、アランが不誠実な態度を取り始めてからエリオのアランを嫌う気持ちはいっそ憎しみといっていいまでに変化していった。


 年が離れているのならまた違ったかもしれないが、双子なのだ。

 生まれたタイミングがほんの少し違っただけで、二人の人生には差が生じた。

 片や将来の跡取りとして、片やそのスペアとして。


 アランにとっては当たり前の事でも、エリオにとっては理不尽にすら思えていただろう状況。

 そんな中、アランがその立場から引きずり落とされるような事をすればエリオにとってはさぞ足を引っ張りやすかっただろう。


 隙を見せた方が悪い。


 家庭内でこれなら、もしアランが予定通りにこの家の当主となったとしても、社交界で何かしらの失態を見せた可能性はある。マチルダが夫を支えるにしても、何事にも限度はあるのだから。


 エリオはアランのやらかしを間近で見ていた。

 故に同じ失態を演じる事はない。婚約者の変更に、向こうの家は特に何も言ってこなかった。

 マチルダを放置し続けていたアランと、そのアランの尻拭いとしてマチルダに謝罪し細々としたやりとりをしていたエリオとなら、マチルダにとってもエリオの方がまだマシなのかもしれない。



「それでは俺はこれで。

 あ、そうだ。

 兄さんが本来やるはずだった雑務に関しては、既に終わらせてありますので後で家令に書類渡しておきますね」


「あぁ、わかった」


 事も無げに告げて執務室を後にするエリオに。


 後継者としての教育はまだそこまでやってないのに、なんでできてるんだろう……? という疑問と、あまりのソツのなさに一体いつからエリオはこの展開を読んでいたのかという疑問。

 跡取りとスペアという差こそあれど、貴族としての常識やマナーといった教育に関しては二人に差をつけた事はない。

 だというのにこの差はなんなんだろうか……



「子育てとは……教育とはかくも難しいものなのだな……」


 そう呟いた父の声は、大層重々しいものであった。

 次回短編予告

 異世界から聖女がやってきた!

 殿下から聖女の事を頼まれたのだから、殿下と同じように精一杯もてなさなくてはね!

 あら? 殿下? 一体どうなさったの……?


 次回 私の代わりによろしく頼むと言われましたので

 タイトル通りの内容です。

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最初の方でごくごくナチュラルに男爵養女を弟に押し付けようとしている言動があることから、これ兄は幼少期あたりに何か自分の失敗を弟に押し付けて誤魔化した成功体験があったんじゃないかな、と思いました。 スペ…
スペアは同じ事学ばせないとスペアにできないので、教育は同じもの受けさせたんでしょうな。それでこの差がついたのは、やっぱ「タッチの差で跡取りが約束された」持てる者と「何の落ち度も無いのにスペアだった」持…
アランがやったのは、まさに優しい虐待ですよね。確かにこれなら学生時代は遊び相手として、卒業後は愛人にするために囲っていたというほうが遥かにマシ。 この行為が周りの利害関係者すべての人間に頭を抱えさせ…
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