36 仮面の男とエルシオン
エルシオンの口を塞いでいるのは仮面の男だ。
黒いローブが水の中で、花のように広がっている。
エルシオンは男を睨みつけると、抵抗しようとした。だが、仮面の男のローブがまるで大きな手のように水中を動き、エルシオンの体に巻き付いた。
「……っ」
ベアトリーチェは、エルシオンに手を伸ばした。
底をついていた魔力を、必死にかき集める。エルシオンを救うために。
だが──今のベアトリーチェは空っぽだ。伸ばした手は水を掴む。
『この、魔力。星獣を従える力。君は本当にクリエスタなのだな。会いたかった、クリエスタ。ずっと君を待っていた』
仮面の男の声が、ベアトリーチェの頭に響く。
彼は、クリエスタを知っている。だが、そんなはずはない。クリエスタが死んだのは五百年も前。
五百年前から生きることができる人間など、この世にはいない。
『器の分際で、クリエスタに恋心を抱くとは、身の程知らずな。……すぐに迎えに行く。クリエスタ、君を傷つけたこの国を私は滅ぼそう。そして君と、新しい王国を築こう』
その言葉を残して、仮面の男とエルシオンは闇の中に飲まれるように消えてしまった。
ベアトリーチェは片手で口を押さえる。
もう、息が続かない。手も足も、動かすことが難しい。
意識が途切れて、消えていく。
(エルシオン様……)
彼はクリエスタが恋をしてしまった、ルキウスではない。
ベアトリーチェの婚約者で、いつでもベアトリーチェを守ろうとしてくれる、エルシオンだ。
クリエスタが抱いていた禁忌が、ベアトリーチェの感情の邪魔をしていた。
だって、仕方がなかった。
クリエスタは孤児。誰の血が流れているかもわからない女だ。
ルキウスは王太子。結ばれるはずがない。結ばれてはいけない。
それなのに──。
『クリエスタ。父が私に結婚をしろと言う。だが、私は君以外の女性と結ばれる気はない。クリエスタ、どうか私を受け入れてくれ』
クリエスタはアシュベルドに命じられて、新しい兵器の開発をしていた。
アシュベルドは飛空艇に魔導砲を設置するのだという。空からの砲撃ができるようになれば、他国の支配が容易になると彼は言った。それは国の防衛に繋がるのだと。
クリエスタはその危険性に気づいていたが、アシュベルドの頼みを断るという選択肢を持たなかった。
飛空艇の中に一人こもり、作業を続けた。
そうしていると、ルキウスが夜半過ぎに現れたのである。
『いけません。ルキウス様、あなたと私は……ただの、友人です。友人とさえ呼ぶことも、私にはおこがましいというのに。ルキウス様、一時の気の迷いで、あなたの人生を壊してはいけません』
ルキウスには何度か、『愛している』と言われていた。
だがクリエスタはそれを冗談だと笑って受け流し、拒絶を続けていた。
クリエスタもルキウスに恋をしている。だがそれは禁忌だ。
このまま友人でいられたらいい。クリエスタにとってはそれで十分だった。
『王家の血などどうでもいい。王位は弟に譲る。父に、もう君を利用させたりはしない。私と共に生きよう、クリエスタ』
『……駄目です、ルキウス様。駄目、だめ……っ』
ルキウスの結婚の話は聞いていた。隣国の姫を娶るのだという。
悲しかったが、同時に安堵もしていた。
この思いは、心の中に閉じ込めて墓まで持って行こう。ルキウスと結ばれることは、アシュベルドへの裏切りにもつながる。
そう決意をしていたのに、この日ルキウスは──強引にクリエスタを押し倒した。
城の敷地内に停められている飛空艇の甲板からは、無数の星が見える。
その星空の下で、クリエスタは逞しい男のぬくもりを感じた。
『ルキウス様、駄目です、お願いです……』
涙ながらの訴えに、ルキウスの手が止まる。
彼は苦し気に眉を寄せて、クリエスタの瞳を覗き込んだ。
『何故だ。君はやはり父を愛しているのか?』
『違います』
『では、どうして』
『アシュベルド様を、裏切りたくない。あなたを、苦しめたくない。私の立場では、あなたの隣には並べない。……それに、ルキウス様。私はあなたを、友人としか思えません』
『嘘だ。……瞳は言葉以上に雄弁に感情を語ってくれる。君も私を愛している。大丈夫だ、クリエスタ。全て私に任せておけ。必ず君を、幸せにする』
ルキウスは──その数日後、隣国に渡った。
隣国の姫との婚姻を断るためだ。
ルキウスが不在の間に、あっという間にクリエスタの悪い噂が広まった。
そして──。
『クリエスタ。多くの民を騙し、儂を謀った裏切り者の魔女め。お前を処刑する』
『兄の心を乱し、国を簒奪しようとでも考えていたのだろう。最低な魔女め』
アシュベルドと共に、ルキウスの弟──第二王子アルシウスが、クリエスタを冷たい瞳で睨んでいる。
クリエスタはアルシウスが苦手だった。
そこに愛などないのに、彼はクリエスタを幾度か強引に犯そうとしたのだ。
ルキウスがクリエスタと親しくしているのが気に入らないと言って。
父がクリエスタを見る目が気に入らないと言って。
クリエスタが拒絶をし、抵抗をしたことで──アルシウスはクリエスタを恨んでいるようだった。
こうなってしまったのはきっと、孤児のクリエスタが筆頭魔導師に上り詰めたから──という嫉妬だけではない。
ルキウスとの恋を、咎められているのだと感じた。
ルキウスの幸せのために、きっと自分は消えたほうがいいのだろう。
疲れてしまった。
なにもかもに。自分の立場にも。
なによりもルキウスの想いを受け止められないことが苦しい。
このまま生きていたらきっと、ルキウスを不幸にしてしまう──。
「あぁ、もう、馬鹿だわ。なんて馬鹿なの、本当に……!」
己を呪う怒りの声と共に、ベアトリーチェは跳ね起きた。
ベアトリーチェを心配して保健室のベッドの傍に座っていたアルテミスとソフィアナが、その勢いに驚いて椅子から落ちた。




