1 そういえば──私は、王国最強の大魔女でした。
世界がぐるりと反転した。
視界に広がるのは真っ青な空だ。
宙に浮いた足も、何かを掴もうとしてもがく手も、空を切った。
無様にもがいたベアトリーチェは、大きな水飛沫をあげてざばんと、庭園の池に落ちた。
ベアトリーチェが最後に見たのは、くすくす笑っている彼女の妹弟の姿だった。
──ベアトリーチェ・アリステアは、優秀な魔導師をうみだしてきたアリステア伯爵家にうまれた。
けれど、ベアトリーチェにはうまれつき魔力がなく、カンテラに自力で火をつけることさえできなかった。
グラウアルク王国では、大なり小なり魔力があることが普通である。
そのため、ほとんど全ての道具の使用に魔力を用いる。
生活のために魔力を使うことは当たり前で、魔力の有無は人権の有無と同等だった。
その中において、アリステア伯爵家は優秀な魔導師を輩出し、国中で暴れ回る魔物討伐で戦功をあげて伯爵位にまでのしあがった家である。
それは、何世代か前の話であるが、その当時の成り上がりと呼ばれた記憶が先祖代々脈々と受け継がれており、こと魔力量の多さに関して言えば非常に気位が高かった。
アリステア家の血族たるもの、優秀でなくてはならない。
その信念の元に輿入れしてくる妻は吟味され、より優秀な血を残すために家柄と魔力量の多さで選ばれた。
そんな中で――アリステア家の長女として生まれたベアトリーチェが、物心ついても魔法の一つも使えないことに、両親の落胆と失望はすさまじかった。
魔力量を測定するための魔道具である血の天秤で示された数値は、ありえないことにゼロを示した。
こんなことは、アリステア家においてははじまって以来のことだった。
両親は、ベアトリーチェをいないものとして扱った。
ベアトリーチェが生まれてから遅れて二年、生まれてきた双子の妹ユミルと弟ノエルは強い魔力を宿していた。
もちろん両親の関心は双子に向いた。
その時にはもう、両親はベアトリーチェに失望していたので、家族としての扱いは受けていなかった。
流石に放置して殺すわけにはいかなかったのだろう。
使用人たちによって必要最低限の世話をしてもらっていたベアトリーチェだが、魔力のない子供などアリステア家においては道ばたの石と同じ程度の価値しかない。
アリステア伯爵夫妻が何も言わないのをいいことに、食事が抜かれることは当たり前で、憂さ晴らしに髪を抜かれることも、背中を蹴られることもざらだった。
それから数年。両親は双子の妹弟に、「お前たちの玩具にしていい」と、ベアトリーチェを与えた。
ベアトリーチェは六歳の時から、二人の魔法の練習台になった。
水魔法で窒息させられそうになったこともあれば、炎魔法で火傷をさせられたこともあった。
火傷の跡は、ベアトリーチェの足や腕にケロイド状に残っている。
風魔法で衣服を切り裂かれたこともあったし、土魔法で体半分を土に埋められて、一晩放置されたこともあった。
朝になって衰弱しているベアトリーチェを見て、ユミルとノエルは笑いながら「なんだ、まだ生きていたの」「まだ生きていたのか、役立たず」と言った。
いつか命を落とすだろう。
なぜ私は生まれてきてしまったのだろう。
そんなことをぼんやり考えながら、苦痛に耐え続けていた。
いつかきっと命を奪われてしまうだろうと考えていたものの、どうにも悪運が強かったらしい。
どれほど苦痛を味わっても死ぬということはなく、気づけばベアトリーチェは十五歳になっていた。
ユミルもノエルも、そして使用人たちも、ベアトリーチェを死なないぎりぎりまでいたぶるのが得意だったのだ。
けれど――。
(とうとう、これで終わり)
今日は高位の風魔法の訓練をすると言って、ベアトリーチェはユミルとノエルに庭に呼び出されていた。
二人はいとけない子供から、十三歳の愛らしい少年と少女に育っていた。
女と男であるが、顔立ちはよく似ている。
ベアトリーチェは真っ直ぐな黒髪に紫の瞳という、父に似た色合いをしていたが、二人は銀の髪に青い瞳の、人形のように美しい母によく似ていた。
そして性格も、瓜二つだった。
彼らは蝶の羽をむしることも、蟻を踏み潰すこともなんとも思っていない残虐さを、いつでもベアトリーチェに向けていた。
二人の唇は、楽しげな弧を描いている。
「お姉様、空中浮遊の魔法の実験をしますね」
「姉上、空中浮遊は一歩間違えると大怪我をしますから、姉上が実験台になってください」
そう言って、ユミルとノエルはベアトリーチェに魔法をかけた。
ベアトリーチェの体はふわりと浮かび上がり、それから――庭園にある大きな池の上へとすいっと移動した。
伯爵家の池は、湖というには小さく、池というには大きい。
子供では足がつかないほどに深く、岸までは泳ぎになれていないものではたどり着けないほどに遠い。
なにより悪いことには、そこにはかつてアリステア伯爵、ベアトリーチェの父サイラスが討伐に出かけて、勲章のようにつれて帰ってきた魔生物の、蛇竜が飼われていた。
蛇竜は、ベアトリーチェを三人繋げたほどに巨大な蛇である。
水生生物で、水の中から出ることはできない。
もっぱら船を襲い、釣り人を襲う。
伯爵家では朝晩に、森で狩ってきた獣の肉を池に投げ入れて、蛇竜の食欲を満たしていた。
ベアトリーチェは、池に投げ入れられる獣と同じぐらいの大きさをしている。
「あぁ、魔力切れだわ!」
「やっぱり、空中浮遊は難しいね」
笑いながらユミルとノエルが言うのを、ベアトリーチェは絶望的な気持ちで聞いていた。
唐突に浮力を失った体が、池の中へと落ちていく。
池には黒々とした巨大な蛇の影がある。
ざばんと音を立てて、ベアトリーチェの体は水面に叩きつけられた。
痛みで一瞬意識を失い、気づいた時には息苦しさにもがくことしかできなかった。
ベアトリーチェは泳げない。落ちた拍子に水の深いところまで体が沈み込み、体が上を向いているのか下を向いているのかさえわからない。
がぼがぼと水を飲み、口を両手でおさえる。
蛇竜が音もなく近づいてくる。ベアトリーチェの頭と同じ大きさほどの金の瞳と目があった。
水の中で自由に動き回る鱗のある白い長い体、凶悪な牙の並んだ大きな口。
ぱくりと口を開いて、ただ獲物を捕食するためだけに、蛇竜はベアトリーチェに真っ直ぐに向ってきている。
――とうとう、死ぬんだわ。
――でも、これで終わる。
――魔力がない私は、生きる価値もないのだから。
心は諦めかけているのに、苦しさにもだえる体は生きたいと望んでいるようだった。
――あぁ、食べられる。
いよいよ、眼前にまで巨大な口がせまる。赤くてぬらぬらした舌が、その奥の空洞が、ベアトリーチェを飲み込もうとしている。
食べられる。食べられる。
食べられる?
――この、私が?
酸欠と恐怖に意識を失う間際、頭に思い浮かんだのは――知らない記憶だった。
ベアトリーチェ・アリステア、十五歳。
これが、五百年前に死んだ大魔女クリエスタの記憶を思いだした瞬間である。
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