2 悪役令嬢、地縛霊となる
世の中には、悪役令嬢という言葉があるそうだけど。
婚約を破棄したときのわたしはきっと、まさにそれだったに違いない。
悪夢で混濁したの意識の淵から浮かび上がったビビの目に、ベッドの天蓋が映る。
少し硬いが清潔なベッドの上に、ビビは横になっていた。シーツのさらりとした感触が心地よい。部屋には植物系の香が強く焚かれているが、その奥に懐かしいような優しい匂いも感じる。そろそろと起き直ると、身体の不快感は消えていた。
(……死ななかった?誰かに助けてもらった、のかな)
寮の自室ではないし、実家の部屋でもない。身を起こして確認すると、天蓋付きベッドのヴェールの向こうには、シンプルな設えの個室だった。
ベッドは部屋の中央。右手に窓、左手の奥にドアがあり、窓際には重厚な樫作りのライティング・デスクがあって、その周辺には本と書類がうずたかく積まれている。正面に火の入っていない暖炉、左の壁際に、姿見付きのクローゼット。柔らかそうな広いソファが一脚、暖炉の方を向いて置かれている。どれも高級そうだが落ち着いた作りだ。
部屋を一通り見渡し、ベッドから降りかけたその瞬間。なんか変だ、と思った。
グリーンのドレスの下から、シーツのしわが見える。
床に伸ばした裸足の足を透かして、絨毯の毛並みが見える。
ビビの全身が透けている。
「死んでる!!やっぱりわたし死んでるじゃない!!!!」
天蓋の布を掻き分けた感触もないのに、ビビはベッドから飛び出していた。クローゼットの姿見に映ったのは、寮の自室でお茶を飲んでいた時の姿そのままだ。
鳶色の長い髪はほどかれているが、顔色にも服装にも違いはない。穏やかと言われる小作りな顔立ち、そばかすの散った頬、髪と同じ鳶色の瞳と引き立て合う緑の柔らかいドレス。番茶も出花、とはよく言ったもので、平凡な彼女も丁寧に身繕いすれば、それなりに愛らしく見える。
しかしどれほど愛らしかろうが、何度見ても、全身が半分透けていた。
「死んでる!どう見ても死んでる!」
姿見に映る影を手でパシパシと叩いてみるが感触はない。指先が物体を突き抜けてしまう。震える指でもう一度鏡面をたどると、冷たいガラスの感触が指にふれた。用心すれば大丈夫のようだ。
とりあえず外に出てみようと、少し奥まった戸口を見る。近づいてそっとドアノブに手を掛けたが、鍵がかかってもいないのに動かなかった。
(閉じ込められてる…?)
死ぬ以上に怖いことがあるはずもないが、それでも恐怖が込み上げてきた。ここはどこだ。最近の天国は個室タイプなのだろうか。それとも、永遠に一人で閉じ込められるのが地獄の罰なのだろうか。
(勢いよく衝突すれば、ドアをすり抜けられないかな。失敗したら痛そうだけど…)
ええい、どうせ誰も見ていない。
少し後ろに下がり、助走をつけて駆け出したその時、急に扉の方が内側に開いた。
「ひっ」
すんでのところで人体にめり込むのを避け、顔を上げたその瞬間。
雪のように白い端整な男の驚愕した顔が、ビビの瞳に映る。
「……ヴィヴィアン・ラヴェスター?」
「フ、フランシス・オールモンド……?」
しばらく二人はすぐ間近で見つめ合った。
息を詰めた相手の睫毛が、苦しげに揺れるのがわかるほど。
先に身体が動いたのはビビだった。飛びすさるように距離を取り、柔らかいソファに勝手に座った。
(ここ、フランシスの部屋ね…なんでわたしここにいるの?)
混乱する頭を鎮めようと、半透明の頭を半透明の手で抱える。身体が少し光を透かすので、目の前がチラチラしてあまり効果が無い。その光景が、ますます混乱に拍車をかける。
これは木漏れ日?体漏れ日?からだもれびって何、いや、わたし、何を考えてるの…?
うずくまった彼女に、ようやく部屋の主は声を掛けた。
「俺の部屋で何をしてるんだ?」
「わたしが聞きたいわ」
お互いに声が震えている。
「あなたから見て、どう?わたし、透けてるわよね?死んでるわよね?」
「そう聞かれても困るが」
「わたしにもわからないの。好きで……好きでこんなところ来たんじゃないわ。寮の部屋でお茶を飲んでたら、気分がものすごく悪くなって、気が付いたらそのベッドの上にいて……」
「それはなぜ」
「だからわたしが聞きたいのよ!」
顔を上げて、かつての婚約者を睨みつける。
一度悪役になった以上、今でもその仕草をやめられない。たとえ死んでいようが、やめるわけにはいかない。
睨まれたフランシスの表情も、早くも冷たい仏頂面に戻っていた。
「……君は死んではいないだろう。意識不明の昏睡状態だ。たった今、俺も君の身体を見舞ってきた」
その冷静な口調に、ふっとビビの緊張がわずかに緩む。
(やっぱり、死にたくはなかった)
昏睡という、最悪の一歩手前の状態であっても。まだ生きているという事実は大きな救いであった。もう一度、今度は安堵の気持ちで、再び頭を抱え込む。
「理由は分からないけど、わたし、魂だけ彷徨い出たのかな」
「かもしれないな。この部屋からは出て行ってほしいが」
にべもない拒絶の言葉が、温まりかけたビビの心を凍らせた。
(……それは、そうよね)
「私だってこんなところにいたいわけじゃないの。私の身体、どこにあるの?さっさと入り込むから」
「うちの地下室だが」
「え、なんで?!」
「文句があるなら身体ごと出ていけ」
「そうするわ。そうするわよ!」
壁際に寄ったフランシスのそばをすり抜け、開いた戸口から出ていこうとしたその瞬間。
ビョイーン、という音が聞こえるほどの弾力で。
ビビの身体ははるか後方、部屋の中へと跳ね飛ばされた。
「……君は生霊状態だが、この部屋からは出られない、と」
「出口全部に、透明な分厚い膜が張られてるみたい」
三十分後。戸口と窓、暖炉の煙突と、すべてを試した二人はその結論に達していた。
「どういう状況だ、まったく」
「これ、聞いたことあるわ……ええと、」
地縛霊。
何年か前、ビビの邸宅には、やたらとオカルトめいた話が好きな侍女がいた。変な娘、と周りに遠巻きにされていたけれど、ビビがせがむと怖い話をいくらでもしてくれた。
そうだった。彼女の話の中にそんな存在が出てきた。
ある場所に縛られて、どこにも行けない幽霊。
「地縛霊……?」
ビビが口にした言葉に、フランシスは怪訝な顔をする。
「あら、頭がいいって評判だけれども、知らない言葉がおありなのね?教えて差し上げましょうか?」
「……いや、結構。無駄な単語を覚えておく余裕は無いものでね」
「私の身体、ここに持って来られないの?」
「医師が交代で見張っている。いい口実が思いつければいいが、今は難しいな」
「最悪。あなた、しばらくどこかに引っ越せないかしら?」
「この部屋が屋敷の動線上、一番防犯性が高い。ここから出ていくリスクを冒す理由はない」
「私だって出ていけるなら出ていきたいわ」
「仕方ない。まあ、俺としては、錯覚か妄想だと思い込めば済む話だからな。実際、そうじゃないという証拠は何もない」
フランシスはあきらめたようにさっぱりと言い切ると、着ていた上着を脱いでクローゼットに掛け出した。そのままシャツも脱ごうとする。
「ちょっと!人の前で……」
「人の前で?」
「人の前で、その……服脱いだりしないでくれません?」
「人の前も何も、ここは俺の寝室なんだが。錯覚の方が目を塞ぐべきだ」
「わかったわよ、もう!」
ビビはソファの上で膝を抱えて俯く。何もわからない。どうすれば生き返れるのかも、ここからどうしたら出られるのかも。
氷のように冷たい目の前の青年に、どういう風に接すればいいのかも。
あの一年前の騒動が焼き付いた心は、反射的に高飛車な態度をとってしまう。
(せっかくなら、出ていく前に、もう一度だけ優しくできたらいいのに)
「そういえば、言っておく必要がありそうだが。俺は基本的に一人では寝ない」
「……は?」
「毎晩様々なご婦人がお越しになるが、適宜無視してくれ」
「……はあ?」
思わず顔を上げたビビは、クローゼットの前に晒された元婚約者の真っ白な全身を目にして。
顔を真っ赤にして、再び膝を抱える羽目になった。