李黄の変 悪女と英雄
これは、不倫によって世を惑わした悪女と功績によって英雄としてあがめられた男の史書であります。
宣徳26年4月、宣徳帝が肺結核で崩御した。彼は周2代目皇帝として貴州・広東といった嶺南地方の南蛮を制圧し新たな都を商丘を建造した。
もともとの新たな都としては、新郷に置かれる予定であったが、李賢が造営監督中に何者かに矢を射かけられ宣徳5年10月12日死去。これは帝が広西から親征帰りの出来事である。暗殺犯として呉雄・董洋をはじめとした38人が捕縛され、主だった8人は斬首された。事件直前の9月に死去した王英も、首謀者として墓を暴かれ漢籍からも除名されたのだ。この事件は宣徳帝の弟の秦王にまで及び、遼寧鞍山に送られる途中に憤死にまで発展する。もともと、秦王と李賢はそりが合わないことは知られていたがこれが暗殺につながったかは分からない。
さて、その李賢には息子と娘が1人ずついた。息子の李剛であり、娘の李黄である。李黄は大理寺卿孫旻の妻であり、2男2女の母でもあった。幼少の長女が東宮の宮女となるとこれに伴い宮仕えに上がり、貴人となるが、やがて娘を差し置いて東宮と深い関係になった。これを聞いて帝は怒り、李黄を東宮から追放したのだ。
かたや李剛は宣徳5年、弱冠20歳にして従五品につき、翌年に京衛指揮鎮撫に任ぜられた。ここからの20年間で山東左布政使・中軍都督同知を兼ね、宣徳18年正五品、宣徳21年従四品と順調に出世したのだ。
そして、周3代目皇帝として孝徳帝が即位、彼の弟である斉王が東宮となった。これは孝徳帝が病弱でその子供たちも押さなかったことを考慮した父・宣徳帝の意向があったとされる。しかし、翌孝徳2年には早くも帝の異母弟・燕王が突如謀反の罪を着せられて死に追い込まれるなど、皇位継承をめぐる宮廷内部の紛争は治まることを知らなかった。一方、李兄妹はこの世の栄華に向かっていた。李黄は宮廷に復帰し、貴人となる。夫が広東督撫として嶺南に遠ざけると、帝の寵愛を一身に受けてたちまち政治に介入するようになる。兄・李剛も従三品にまで登り、孝徳4年には河北観察使となった。
しかし孝徳帝は病に伏せるようになるが、これらの病を燕王や叔父・秦王の祟りによるものと考え、禍を避けるために譲位を決意するのだ。帝の寵愛を受けて専横を極めていた李兄妹はこれに極力反対するが、帝の意志は強く、この年の4月、斉王は天啓帝となり、周4代目皇帝となった。皇太子には孝徳帝の3男である楚王がたてられた。
翌年1月、孝徳帝は旧都である西安へ移る。しかし、孝徳時代に設置した観察使の制度を天啓帝が改めようとしたことから孝徳帝が怒り、二所朝廷と言われる対立が起きる。孝徳帝復位をもくろむ李兄妹はこの対立を助長した。そして3月に観察使を正式に廃止し、大師を直属に据えた。
そして、事件は起きてしまった。天啓2年10月13日、商丘を廃し西安に遷都する詔勅を出したからである。天啓帝とて思いがけない事態であったが、ひとまずこれに従うとして造宮使として張白・関翔・劉健らに任命する。これは天啓帝が信頼している者を造宮使として西安に送り込み、孝徳帝側をけん制させるためである。
そして、帝は遷都を拒否することを決定した。10月17日に四川・湖北・河南の関と省都を固めさせる。そのうえで、李剛を捕縛して五軍都督府に監禁したうえで、李剛を大連県令に左遷し、李黄の官位を剝奪して罪を鳴らす詔を出した。ここで張白は左侍郎、関翔は河北参政、劉健は兵部尚書に任じられた。18日に密使を西安に送り込み若干の大官を召致した。
この行動に激怒した先帝は自ら南方に赴き挙兵することを決めた。側近らは極力これを諫めたが、先帝は輿に乗って南に向かった。しかし、帝の動きも早かった。劉健に先帝の南向阻止を命ずる。ここで劉健は、出発の際黄羽の禁錮を解くよう願い、黄羽は湖北参議に任じられた。その10月18日の夜、李剛は射殺された。
先帝の一行は安康まで来たところで帝側の防備が固められたのを知って西安まで戻った。10月19日、先帝は西安に戻って李黄とともに毒を仰いで自殺した。先帝の息子、楚王は廃され、帝の長男である趙王が立てられた。孝徳帝の息子たちは悉く殺され、娘は奴隷とされた。こうして、李黄は世を惑わす悪女として忌み嫌われたのに対し、劉健は英雄として崇め祀られた。
いかがでしょうか?宣徳帝、天啓帝は実在したとはいえ、彼らとは全くの別人でむしろ平安時代初期の桓武天皇~嵯峨天皇をモデルとした皇帝です。
コラム
なぜ、息子たちの最後が変化しているのかというと中国史においては皇族でも反逆者の一族は連座して処刑されるのが当たり前だったからです。(ex:玄武門の変、明の朱高喣)
息子たちの処刑方法は銅の鍋に油風呂で煎り殺す釜茹での刑です。