2004(3)
翌日の朝、職探しをするよりも先に質屋に行って婚約指輪を売り払った。四十万円したダイヤモンドリングは、その役目を果たすことなく、ただの十五万円に化けた。差額を失ったことは惜しいが、まとまった現金を入手できたのは助かる。
現在、貯金がほぼ底を突いていた。十五万あれば、ギリギリ一ヶ月は生活できる。裏を返せば、一ヶ月しか生活できないとも言える。仮にいますぐ就職したとしても初任給が支払われるのは年明け一月の下旬だろう。もうリミットだ。どんな仕事でも良いので近日中に働き始めなければ、チンピラのアジトのお世話になるしか道がなくなる。
正社員として即採用してもらえる望みは薄い。アルバイトでもしながら地道に就職活動を続けるのが現実的だろう。ならば。
真っ先に思い浮かんだのは、かつてのバイト先だった。全国にチェーン展開をしている小洒落た雑貨店だ。その店先に行くと、おあつらえ向きに、『スタッフ急募』というポスターが貼られていた。急募というからには即戦力が欲しいはずだ。以前と店長が変わってさえいなければ、俺とは顔見知りだし、すぐに採用される可能性が高い。
祈るように店内を覗く。レジカウンターに中年男性が立っている。馴染みのある顔。店長だ。俺は深呼吸をし、店内に入っていった。
ここは、明美さんと出会った場所、かつ一年以上共に働いた場所だ。俺は就職に際してバイトを辞したが、明美さんはその後も働き続け、現在は正社員となって他店に異動している。各店でバイトの人事情報を共有しているとも思えないので、俺がここで働いたとしても問題はないはずだ。
声をかけると、店長は満面の笑みを浮かべた。
「やあ! 佐藤くん、久しぶりだねえ。元気にしてた?」
「あ、はい、すこぶる元気です」
「今日はどうしたの? 買い物?」
「いえ、実は……」
かくかくしかじか、掻い摘んで事情を説明すると、店長は親身に頷いてくれた。
「……そうか。うちとしても助かるよ。佐藤くんなら研修も必要ないし、すぐにでも働いてもらいたいね。いつからシフトに入れる?」
協議の結果、さっそく明日から働かせてもらうことになった。しかも、就活で抜けざるを得ない際には遠慮なく休んでも良いという破格の好待遇だ。人の優しさに触れることができたからか、少しだけ気持ちが晴れやかになった。
ところが次の日、意気揚々と出社すると、意外な事態に陥ることとなった。
「……篠崎明美です。他店で副店長をしています。えー、知っている人も何人かいると思うけど、以前はここのスタッフをしていました。繁忙期のヘルプとして、五日間という短い間ですが、またお世話になります。よろしくお願いします」
開店前の朝礼で、明美さんは深々と頭を下げた。
なんと気まずいことだろう。
そうはいっても、お互い大人だ。勤務中は素知らぬ顔で仕事に集中した。ただし閉店間際、明美さんがすれ違いざまに俺の肩を叩き、小声で話しかけてきた。
「佐藤くん、どうしてこんなところにいるのかしら?」
「あ、えっと、色々あったんですよ、篠崎さん……」
「今夜、時間ある? 一緒にご飯に行こ」
待ち合わせは現地集合ということになった。
店の近くにある老舗のインド風カレー屋の席に着くと、少し遅れて明美さんがやって来た。ほとんど会話をせずに速やかに注文を済ませる。
そして、テーブルにカレーライスが二皿並ぶと、明美さんが口火を切った。
「……でさ、どうしてうちでバイトしてるの? 仕事は?」
「辞めたんだ」
「次の仕事は?」
「まだ決まってない」
「いつまでバイトするの?」
「仕事が決まるまで」
「なんで次の仕事を決める前に辞めちゃったの」
「だから色々あったって言っただろ。仕方がなかったんだ」
親から説教を受けているような気分になって、俺は不貞腐れ気味にそう言った。明美さんは空気を察してか、それ以上、仕事について聞いてこなかった。
無言の時間を持て余し、皿の上の福神漬けをスプーンでつつく。ここのカレーはインド風にもかかわらず、なぜか福神漬けが乗っている。
「明美さん、福神漬け食べる?」
「『食べる?』じゃなくて、『食べて』でしょ?」
「うん……苦手なので福神漬けを食べてください……」
「はい。よく言えました」
明美さんは当たり前のように俺の皿から福神漬けをさらっていった。
それからしばらくして、彼女は、遠い目をして呟いた。
「あ。『セカチュー』だ……」
その視線の先に目を向けると、テレビが置いてあった。画面には、『世界の中心で、愛をさけぶ』のCMが映っている。
「ああ、もうすぐDVDが発売になるみたいだね。明美さん、買うの?」
「買わないよ。もう直樹もいないし……」
「俺とDVDは関係ないだろ」
「関係あるんだよ。わたし、別に『セカチュー』が凄い好きってわけじゃないもん。わたしはね、いわゆる若者文化と言えばいいのかな、そういうのを直樹と一緒に楽しむっていうシチュエーションに浸りたかっただけ」
「そ、そうなんだ……」
「だからといって、『セカチュー』が嫌いってわけじゃないよ? むしろ、ああいう王道の話は好きかな。ほら、白血病モノだと、山口百恵の『赤い疑惑』とかね」
「ごめん、俺、その映画知らない」
「あ……」
「なに?」
「なんでもない。ちなみに、『赤い疑惑』は映画じゃなくてテレビドラマだよ……」
わざわざ二人きりで食事に来たというのに、お互い、なぜ別れることにしたのか、という話題に触れることはなかった。いたって自然に、いや、むしろ不自然なほど、いままでとなんら変わることのない会話をした。
食事を終えると、明美さんは先に立ち上がって、伝票を拾い上げた。
「わたしがおごるね。今日は食事に付き合ってくれて、ありがと」
会計に向かおうとする彼女の腕を、俺は咄嗟に掴んだ。
「ちゃんと割り勘にしよう」
「気にしないで良いよ。直樹、フリーターじゃない。しかもいまは、わたしが上司で、直樹が部下みたいものでしょ。だから、わたしが払うよ」
俺はうつむき、必死に声を抑え、訴えた。
「こういう風になるのが嫌だったんだよ……」
明美さんは、しばし動きを止め。それから力なく微笑んで、俺の頭を撫でた。
「ごめんね。ごめん……じゃあ、ちゃんと割り勘にしようね」
自宅アパートに着いた俺は、鞄と上着を床の上に放り投げた。そして携帯を、ベッドの枕元に置いてある充電器に差し込んだ。
その時、着信音が鳴った。ディスプレイを覗き込むと、発信者は、『メリーちゃん』になっている。少しだけ迷ったが、電話に出ないことにした。俺を殺してくれない彼女は役立たずだ。色恋沙汰の解決に関しては、なおさら使いものにならないだろう。
俺はシャワーでも浴びてこようと、鳴ったままの携帯を放置して、バスルームに向かって歩いた。すると、背後から声がした。
「あたしメリーさん、いま、あなたの後ろにいるの」
振り返ると、メリーさんがいた。ベッドの上にうつ伏せに寝転んで、足をパタパタと振っている。俺は、呆然と尋ねた。
「なんでいるんだよ。俺は電話に出てないだろ」
メリーさんは引き続き足を振りながら、視線を合わすこともなく返事をした。
「あなた、携帯を簡易留守録設定にしていたでしょ? あたしはね、正確には、回線が繋がることで姿を現すことができるの。怖いでしょ?」
「そういうことか……」
メリーさんの言う通り簡易留守録設定にしていた。これは、電話に出られない際、電話機本体で、発信者からの音声メッセージを預かるという機能だ。俺が電話に出なかったことで、その録音機能が起動したのだ。つまり回線が繋がった。
「調子はどう? 幸せになった?」
「なってるわけないだろ。もう最悪だよ」
「じゃあ、進捗報告をしてちょうだい」
「そんなことをする義理はないね。だいたい、君のような子供が、男女の問題に首を突っ込んだところで、なにかが改善するわけないだろ」
そう言うと、メリーさんはベッドの縁に腰を掛け、腕を組んだ。
「侮ってもらったら困るわ。あたし、こんな見た目でも、あなたよりもずっとずっと年上よ? 女心の機微についてレクチャーくらいできるわ」
メリーさんはじわじわと口角を引き上げ、薄気味悪く笑った。どうやら引き下がる気はなさそうだ。俺は諦めの溜め息をついて、呟いた。
「分かったよ。報告するよ。今日、明美さんに会えたんだ……」
そして、詳細を伝えた。
話を聞き終えたメリーさんは、大袈裟なほど深く頷いた。
「なるほどねー。そういうことねー」
「そういうことって?」
「なんとなく分かっちゃったわ。あなたの彼女、嘘をついてる」
「俺の彼女じゃなくて、元彼女だよ。で、嘘って?」
「話を聞いているうちに、ビビッときたのよね。ヒントは『あたし』」
「もったいぶらずに答えを教えてくれよ」
「あなたの彼女、たぶん……」
そこまで言って、メリーさんは姿を消してしまった。
一体なにが起きたのかと携帯を確認してみると、ディスプレイに、音声メッセージの録音が完了した旨を知らせるアイコンが表示されていた。簡易留守録の最長録音時間は五分間。それを超過したために自動的に回線が切られてしまったのだ。
話が中途半端だったので電話帳を開いて『メリーちゃん』に電話をしようとしたが、あいにく名前しか登録されていなかった。これではかけられない。
かけ直してくるのを待ったが、その夜、再び着信音が鳴ることはなかった。