2004(2)
最低だ。最悪だ。そんなことを言われるとは思わなかったのは、こっちのほうだ。
俺は無自覚のうちに、心の隅で期待していたんだ。明美さんが、別れないで、って懇願する姿を。そうでなければ、こんなに精神ダメージを受けるはずがない。もしかすれば、『ヒモ旦那』になることも望んでいた可能性さえある。別れると言いつつも婚約指輪を持参しちゃってさ。別れても良かったけど明美が一緒にいてって言うから、なんてことを言い訳にして、都合の良い関係を築いてしまおうと画策していたんだ。きっとそうだ。
俺は、夜の公園のブランコで、一人揺られていた。明美さんとはレストランを出てすぐに別れた。その時には笑顔で手を振りはしたが、気持ちは穏やかではなかった。いまもなお、グルグルと頭の中で自虐の言葉が巡り続けている。
なんて俺は浅ましいんだ。なんて俺は卑しいんだ。穴があったら入りたい。いいや、穴がなくとも自ら墓穴を掘って埋まってしまいたい。
その時、携帯が鳴った。こんな時に『世界に一つだけの花』を聞かされるなんて、ナンバーワンにもオンリーワンにもなれなかった俺に対する皮肉でしかない。そうは思いながらも、誰からの電話か確認するため、ポケットから携帯を取り出す。
ところが、ディスプレイには発信者の名前が表示されていなかった。いや、名前だけではない。何も表示されていない。電話帳に登録されていない人からの電話の場合は番号が表示されるはずだし、非通知の場合であっても『非通知』という表示がされるはずだ。
訝りながら、俺は携帯を開いて耳に当てた。すると、聞こえてきた。
『……あたしメリーさん、いまゴミ捨て場にいるの』
電話は切れた。ゾワゾワと鳥肌が立つ。十六年前の出来事が脳裏に鮮明に蘇る。いまさら、なにしに来たのだろう。まさか、殺しに。
再び携帯が鳴る。短い逡巡の後、通話ボタンを押す。
『……あたしメリーさん、いま公園にいるの』
ブランコから立ち上がって辺りを見回す。既に公園内にいるはずだ。しかし、その姿を確認することができない。長い時間の経過によって隠れるのが上手になったのか。
そうこうしているうちに、またもや携帯が鳴った。
『……あたしメリーさん……いま……あなたの後ろにいるの』
同時に背後から、キー、キーという、ブランコが揺れる際の軋む音が聞こえてきた。
振り返ると、先程まで座っていたブランコに、立ち乗りをする少女がいた。おかっぱ頭に赤いワンピース。メリーさんだ。
「お久しぶりね。あなた、ずいぶんと大きくなったわね」
「やあ、君は昔と変わらないね」
「そりゃあ、モノノケは歳をとらないもの。怖いでしょ?」
メリーさんはスカートをはためかせ、ブランコを揺らしていた。
キー、キー、キー、キー……
「で、なにしに来たんだよ。ブランコ遊びをしに来たわけじゃないだろ」
「もちろん、殺しに来たのよ。忘れちゃったのかしら、あたし、あなたことを、必ず、呪い殺すって言ったでしょ」
「そのわりには再び現れるまで、だいぶ時間がかかったね」
「あたしもねー、線路に人を突き落としたり、色々と忙しいのよー」
「へえ、それは働き者だ。俺とは大違いだ……」
そう適当に相づちを打ちながら、俺は少しずつメリーさんに歩み寄り、そして、彼女に向かって勢いよく手を伸ばした。
ブランコが大きく揺れてメリーさんの体が高く跳び上がる。伸ばした手は、いつかと同じように、空を切った。メリーさんは、周囲を囲う背の低い鉄柵の上に器用に着地し、俺のことを見下ろした。
「あなた、もしかしてなんだけど、また死にたがってるの?」
「もしかしなくても、死にたいと思ってるよ……」
メリーさんに促され、俺は、ここに至るまでの経緯をすべて話すことにした。メリーさんは鉄柵に腰を掛け、うんうんと首を縦に振った。当然ながら、彼女が死にたがる人間を殺さないということは分かっている。ただ、誰かに自分の苦悩を聞いて欲しかった。
「……明美さんは、俺が無職ってことに気付いて愛想を尽かしたのかも」
「そうかもしれないわね」
「あるいは、ほかに好きな人ができたとか」
「そうかもしれないわね」
「いや、初めから俺と嫌々付き合ってたのかな」
「そうかもしれないわね」
「嗚呼……」
「そうかもしれないわね」
「少しは真面目に聞いてくれよ」
「聞いてるわよ」
メリーさんは呆れたようにそう言うと、膝の上に両肘を乗せて頬杖をついた。
「……あのさ、本人にどうして別れようと思ったのか聞けば良いじゃない」
「俺自身が無職であることを隠してるのに一方的に事情を聞くわけにもいかないだろ」
「あなたって相変わらず面倒臭い性格をしてるのね」
「ほっといてくれよ」
彼女は跳ねるように鉄柵から降り、偉そうに腕を組んだ。
「まあ、いいわ。協力してあげる。あなたに早く幸せになって欲しいし」
「協力ってなにを……」
「それは今度、考えることにしましょう。よりを戻すにしても未練を断ち切るにしても現段階ではなにも分からないもの。まずは、もう一度あなたは彼女に会いなさい」
「無茶言うなよ」
小声で反論をしてみたものの、彼女はまったく聞いていなかったようで、砂利を蹴り上げるような足取りで数歩歩き、俺の手元の携帯を指差した。
「とりあえずね、今後あたしからの着信だってすぐ分かるように、あなたの携帯の電話帳に、あたしの名前を登録しておいたわ」
「そ、そんな魔法も使えるんだ?」
「これだけ文明が進歩しているんですもの、モノノケの能力だってアップデートくらいされているに決まってるでしょ。分かった?」
「分かったけど、納得はできない」
「もー、悪態ばかりついて。ひとまず、今日のところは消えるわね。またね」
携帯が、ピッと、音を鳴らしたかと思うと、メリーさんの姿が消えた。
一人になってから通話履歴を調べる。そこには、なんの記録も残っていなかった。ただし彼女の言っていた通り、電話帳に新たな名前が登録されていた。『佐藤貴子』、『篠崎明美』、『根本大輔』といった具合に漢字ばかりの名が並ぶ中で、『メリーちゃん』という表記は一際目立っていた。
さりげなく、『ちゃん』付けにしているところが、憎たらしい。