1988(5)
街の灯りはもう遠い。電灯もまばらになり、お化けが現れてもおかしくない雰囲気が漂う。語る言葉の尽きた僕たちは、歌を口ずさみながら並んで歩いた。
闇が、深くなる。
やがて土手と呼べる盛り土が失われ、砂利道ばかりになった頃、目の前に高架線が現れた。見上げる位置を電車が通り過ぎていく。
大輔はその電車をじっと見つめ、それから興奮気味に言った。
「あの電車、群馬行きだ!」
なにをそんなに興奮しているのか分からなかった僕は、次の言葉を待った。
「直樹、BOOWYのメンバーの出身地だよ。この線路沿いを進めばそこに行けるぜ」
「川沿いを歩くのは、やめるってこと?」
「このまま川に沿って歩いても山の中に入るだけだ。線路沿いなら街に出る。そこでまずはチンピラのアジトにでも住み込みで働かせてもらおうぜ」
「なんだよ、チンピラのアジトって」
「とりあえずさ、線路に沿って群馬に行こう。一旗揚げるにはちょうど良い」
大輔は嬉しそうだった。彼の語る未来はキラキラしていた。それに引き換え、僕は死に場所を求めているだけ。いいや、それさえももう探す必要はなくなった。
「僕は、このまま川沿いを行くよ」
「は? なんでだよ」
「線路沿いの道は大輔一人で行ってくれ」
「一緒に行こうぜ。夢を追いかけたくないのかよ」
夢? 僕の夢はなんだ。
「……僕には、追いかけるほどの夢はないよ。なにか特技があるわけでもない。やりたくないことばかりが明確で、君の荷物にしかなれないよ。僕には、なにもないんだ」
そう言うと、大輔は僕の肩を掴んで大きな声を出した。
「そんなことねえよ! お前はさ、お前は、ここまで歩いてきただろ。それって凄えことじゃん。それだけじゃない。お前は、その、俺と出会うこともできた……」
彼は深く息を吸い込み、穏やかな声色で続く言葉を口にした。
「お前になにもないなんて嘘だ。お前は俺と出会ったし、俺はお前に出会った。それだけでも十分凄えよ。これから行く場所にも、凄えさ、凄えことが待ってるぜ」
ああ、こいつって良い奴なんだな。そのことに気付いて一つだけやりたいことが見つかった。いまの僕のやりたいことは、彼の幸福を祈ることだ。
「僕は長生きできそうにないし、迷惑をかけたくない。大輔だけで頑張ってくれよ。大輔はそっちの道を行ってくれ。僕はこっちの道を行く。じゃあね」
淡々とそう告げて、早足で砂利の道を歩き始める。僕の覚悟が伝わったのか、背後から呼び止める声がすることはなかった。
川沿いの道は、大輔の言っていた通り、山の中へと伸びていた。進むにつれて険しく、そして鬱蒼としていく。ここは樹海だろうか。おそらく樹海だろう。こんな電話もありそうにない場所にメリーさんは現れることができるのだろうか。そんな疑問が湧く。いずれにしても、このまま行けば生きて帰れそうにはない。
この場所で、僕は、どんな死に方をするのだろう。
淡い光が降る。月は意外と明るいということを知った。といっても、物の輪郭を映す程度の明るさなので、手探りで歩く。足元は、雨上がりなのか夜露のせいなのか分からないけれど、ネチョネチョとしていた。ただし、ところどころは木材で組まれた階段だ。残念ながら、ここはまったくの未開の地というわけではなさそうだ。
僕はあえて、深く深く、木の生い茂る方向へと進んだ。
そして小さな段差を越えようと跳ねるように一歩踏み出した時、足元から、地面が消えた。枝やら草やらをへし折りながら転げ落ちる。転落死という言葉が頭をよぎる。けれど実際には、高さ二メートルにも満たない傾斜を滑っただけだった。
全身に付着した泥が不快ではあったけれど、怪我一つしていない。安心すると共に拍子抜けするという複雑な気持ちを抱きながら、僕は立ち上がり、元の道に戻ることにした。
ところが、戻れなかった。たいした高さではないのに、土がぬかるんでいて思うように斜面を登れない。周辺の木に足を引っかけたりしてみたものの、状況が変わる見込みは一切なかった。どうしよう、と一瞬だけ迷う。でも、よくよく考えてみれば初めから山深く分け入ることが目的だ。予定通りといえば予定通りではないか。後ろを向く。そこに道はなく、背丈を越える茂みが黒々と立ちはだかっていた。
掻き分けて行こう。心の中で呟いて、足を前に出す。と同時に、進行方向の少し先から枝葉の擦れる音が聞こえてきた。目を凝らしても、深い闇が広がっているだけだ。それでも、その姿を捉えることができた。
細く艶やかな体が、月明りを反射させ、ヌメリと蠢いていた。
「……マムシ?」
茂みに入ったら噛まれるかもしれない。マムシは体温を察知して襲いかかってくるという話を聞いたことがある。
僕は、死ぬつもりで来たのに、動けなくなってしまった。
その時、気配がした。いや、予感と言い表したほうが良いかもしれない。とにかく、背後に誰かがいるということが分かった。
ゆっくりと振り返ると、斜面の上に人が立っていた。暗闇の中にあって、その人の姿は青白く浮かび上がっているように見えた。メリーさんだ。メリーさんは、ひどく冷たい目で僕を見下ろし、それからしゃがみ込んで、こちらに向かって手を伸ばしてきた。
そうか。ここが旅の終着地点か。
彼女に触れれば呪われて死ぬ。おそらく表向きは、蛇に噛まれて死んだだけということにされるだろう。でも、気付く人は気付くはずさ。そして僕という存在は、子供たちの間で、メリーさんの犠牲者として語り継がれていくんだ。
メリーさんはなにも言わない。それにならって僕もなにも言わないまま、差し出された手を、握り締めた。
すると。
「直樹、大丈夫かよ!」
力強く、僕の体は、元の道に引き上げられた。
「あれ? メリーさんは?」
「メリーさん? なに言ってんだ?」
へたり込む僕の顔を覗き込んだのは、大輔だった。手を差し出してくれたのも彼だったようだ。辺りを見回してもメリーさんの姿はない。知らずしらずのうちに精神が追い込まれ、幻を見てしまったのだろうか。ただ、その答えについては、いまはどうでも良い。いま最も気になることは。
僕は、たどたどしく大輔に尋ねた。
「ど、どうして、ここに、ここにいるんだよ」
大輔は口元を緩め、肩をすくめた。
「こっちのほうが面白そうだったから黙って後をつけてきたんだ」
「どうして……夢を追うんじゃなかったのかよ」
「もちろん追うぜ。この程度の寄り道、たいしたことねえだろ」
あまりに暢気な顔を見て、かえって焦りの気持ちが湧き起こる。山の中は危険だ。
「大輔、ここは足元が悪いし、毒蛇もいる。僕を置いて先に行け!」
「そこにいる蛇なら、たぶんアオダイショウだ。毒はねえよ。まあ、どちらにしても暗い中で歩くのは確かに危ねえから、さっさとここ離れようぜ」
強引に手を取られ、僕たちは二人で山の出口へと向かった。というより、少し歩いただけで車道に出たのだった。
遠目から彷徨った山を眺めてみると、それは、山と呼ぶにはあまりにも小さい、単なる丘だった。
「これが全財産だな」
閉店間際のコンビニエンスストアの前で、大輔は財布から五百円玉を取り出した。
道すがら、「お腹が減った」という話題になって、彼は迷わず、僕をここまで引っ張ってきたのだった。
「買い物は俺に任せとけ」
そう言って、彼は店内へと駆けていった。すぐそこには公衆電話がある。でも、大輔や店員がいるからだろうか、メリーさんから電話はかかってこない。
しばらくして、大輔はニヤニヤ笑いながら戻ってきた。
「金がギリギリだったよ。でも良い物を買えたぞ!」
差し出されたビニール袋の中には、打ち上げ花火とライターが入っていた。
「あれ? 食料は?」
「今日明日だけ食い繋いでも、あんま意味ねえかなって思って、買わなかった」
「そ、そうなんだ……」
彼のお金なので文句は言えない。
「俺たちはこれから大成功する。伝説の始まりのお祝いをしようぜ」
近くにある大きな駐車場。そこの中央に移動し、大輔は、『六連打ち上げ!』と書かれた花火を設置した。続けてライターを取り出し、火を点ける。導火線がチリチリと光と音を発すると、大輔は、「離れろ。離れろ」と叫びながら、僕のほうに駆けてきた。
花火が打ち上がる。
ただし、僕の知っているいわゆる花火とは違って、とても地味だった。その花火は、ポスッ、ポスッと、空気の抜けるような音と共に、火の球を十メートルほど跳ね上げるだけだったのだ。全財産をこれにつぎ込むなんて、完全に無駄遣いだ。
でも、満足だった。僕はこの花火を見るためだけにここまで来たんだ、そう思えるほど充実していた。たぶん、僕は、僕たちは、こんな小さな花火を見るために、毎日を、いつも、歩き続けている。
赤、青、緑、次々と上がる火の球を感慨深く見上げていると、同じように首を上に向けていた大輔が、口を開いた。
「チクショ、意外と地味だったな」
「自分でそれ言っちゃうのかよ」
軽く突っ込みを入れると、彼は横目で視線を寄越し、笑顔を作った。
「だけど、最高にイカしてるぜ!」
「ああ、ロックだ」
六発目の花火が上がると同時に、僕たちは声を出して笑った。
いまから本当の旅が始まる。
そう思った時、突然、道路のほうから眩い光を浴びせられた。
「君たち、そこでなにをしているんだ」
そこには、懐中電灯を持った警官がいた。
結論を言うと、僕たちは警察に捕まって、パトカーで家まで送り届けられた。丸一日かけて歩いた道のりは、たったの一時間ちょっとで振り出しに戻ってしまったのだ。
もう時間が遅いからと、事情聴取は翌日に行なわれることとなった。警察から親への引き渡しの際、大輔はお母さんに片耳を引っ張られて、「痛いよ母ちゃん!」と叫びながら泣いていた。おそらくスイミングバッグを捨てたことがバレたら、もう片方の耳も引っ張られることだろう。
そして今日の午前中、警察官と、僕と大輔、それから双方の母親による面談が行なわれた。しつこく、「なんで家出したんだ?」と問われたけれど、僕たちには語ることなんてなにもなかった。
大輔のお母さんが、「どうせ、うちの馬鹿息子が直樹くんを誘ったんですよ」と頭を下げていた。否定をしようとしたけれど、大輔が、余計なこと言うな、と目配せをしてきたので、黙ってやり過ごした。
母さんは警察署から帰ると、昼食の用意だけしてパートに行ってしまった。今日は平日だけれど学校を休んで自宅待機するよう言われている。いま、家には僕しかいない。
黒電話をじっと見つめる。
ジリリリリ、ジリリリリ……
思った通り黒電話は鳴った。
そこで僕は、ヘッドホンを装着して、出掛けることにした。本当は外出してはいけないことになっている。だけど、駄菓子屋に大輔がいるような気がしたんだ。
いつもの曲に合わせて軽快に歩く。
メリーさんに狙われても、電話を無視し続ければ、そのうち呪いは解けるらしい。
そんなの、誰だって知っていることさ。