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目の前に着信を知らせる通知ウィンドウがふわりと浮かぶ。発信者は『荒木結花』となっている。私は、『通話』と念じた。
すると三十代の女性が現れた。荒木結花、私の孫娘だ。現れたといっても、実際にそこにやって来たわけではない。これは立体映像だ。しかも網膜に映されたものではなく、視神経に直接電気信号を送られたことでもって結ばれた像。
「直樹お爺ちゃん、今日さ、そっちに行くね」
まるで目の前に本人がいるかのようだ。
私の脳にはインプラントコンピュータが埋め込まれている。五年前、新世代デバイスとして一気に流行し、多くの人がこのコンピュータを頭に埋め込んだ。その頃、既に八十代なかばとなっていた私からしてみれば、いわゆる流行りものに抵抗感があったし、なにより体に埋めるということ自体に、分かり易く言えば、恐怖があった。
しかし寝たきりとなったいまでは、埋め込んでおいて良かったと思う。
人の脳波を読み取って概念を抽出することにより、念じるだけで、かつての平面デバイス、パソコンやスマートフォンなどと同じことができるのだ。
いや、同じではないな、それ以上のことが容易にできる。言語を越えた概念抽出なので、例えば異国の言葉しか使えない人とも、インプラントコンピュータを介せば、なんら不自由することなく会話できてしまう。要は万人がテレパシーを使えるようなものだ。
「……あ、そうだお爺ちゃん。うちの息子も一緒に行くから」
「それは珍しいな」
「あの子が面白い物を買ってきたのよ。そうしたらお母さんが、直樹お爺ちゃんに見せに行きなさいって、そそのかしたの」
「美月が? なんだよ、面白い物って」
「それは見てのお楽しみ。じゃあ、あとでね」
結花の姿が消える。通話を終えると、辺りは静まり返った。
病室には私しかいない。見舞いに来る客人もほとんどいないので、こうして孫たちが連絡でもしてこない限り、静寂だけが親しげに寄り添ってくる。致し方のないことだ。既に大半の知人は他界してしまっている。もちろん母も父も、そして姉も。
私よりも長生きしそうだった大輔に至っては、亡くなったのは二十年も前のことだ。もともと気管支が弱く、少し体調を崩したと思ったら、そのまま帰らぬ人となった。
二十年も前。そんなに時が過ぎたのかと、ふと、感慨が込み上げる。
大輔は、生涯において最も親しい友人だった。お陰で人生の節目には必ずと言っていいほど彼の姿があった。孫が生まれた時、娘が生まれた時、結婚した時、自作の歌とフェンダーのギターを引っ提げて、尖った髪を振り回しに来たものだ。
そんな彼も晩年にはジャズミュージシャンに転向していたのだから、人生、最期まで何が起こるか分からない。思えば、私の人生に予想外のことが起こるようになったのも、大輔がきっかけだった。
どこまでも伸びる遊歩道と、小さな花火。
少女の姿が頭をよぎる。
つられて、これまでの様々な記憶が蘇ってきた。
新たな家族との同居、娘との二人きりの暮らし、妻との死別。
一つひとつの思い出を噛み締めるように振り返っていると、ドアを叩く音が聞こえた。
「どうぞ」
そう言うと、少年が入ってきた。
「ヒイちゃん、元気!」
ひ孫の平太だ。平太は私のことを、ひい爺ちゃんではなく、「ヒイちゃん」と呼ぶ。
「お母さんは一緒じゃないのか?」
「母ちゃんはあとで来るよ。俺は急いで走ってきたから先に着いた」
私は鼻で笑った。急いで来たということは、面白い物を、見せたくて仕方がないのだろう。せっかくならば惚けておいたほうが良さそうだ。
「で、今日はなにをしにきたんだ?」
「学校の遠足に行った時に良い物を買ったから、見せに来たんだ」
「へえ、なんだろうな」
「これ」
平太は小さなマスコットキーホルダーを取り出した。
「これは……」
赤いワンピースを着たおかっぱ頭の人形が、目の前で揺れる。
「これさ、いま流行ってんだよ。メリーア様っていうお化けなんだ。回線の中に潜むお化けでさ、『あたしメリーア様』って通信を送ってきて、いつの間にかに背後に立ってるんだってさ。怖くね?」
「それは怖いな」
メリーさんのことだろう。思うに、長い時間の中、人から人へと噂話が伝わっていく過程で、徐々にその呼び名が変化していったのだろう。
メリーとは、聖書由来の英語圏の名だ。同じ由来でも、フランス語ではマリー、ドイツ語ではマリーエという名になっている。そして元々のラテン語では、マリア。図らずもメリーさんの名は、語源に近付きつつある。
「こら、平太。うるさくしないの。廊下まで声が聞こえてるよ」
遅れてやってきた結花に叱られて、平太は黙り込んだ。
「……直樹お爺ちゃん、平太の相手をさせちゃってごめんね。疲れたでしょ?」
結花は私の身の回りの世話を始めた。着替えを交換し、見舞い品を片付け、最後に、空気を入れ換えるために窓を開けた。中庭の花が見える。
「今年の桜は綺麗だな」
「そうね。でも毎年、同じように綺麗じゃない」
「……ああ、そうだな」
「窓は開けたままにしておくね。肌寒くなったら看護師さんに閉めてもらってね」
結花はそう言い残し、平太を連れて病室を出ていった。
開け放たれたままになっていた内開きの扉がパタリと閉じる。すると、いままで死角になっていた場所に、一人の少女が腕を組んで立っていた。
これは通信による立体映像だろうか。
そう疑問を抱いたことを察したかのように、少女は、ゆっくりと述べた。
「……あたしメリーさん……いま……あなたの目の前にいるわ」
懐かしい声。
微笑みながら言葉を返す。
「久しぶりだね。メリーア様じゃなくていいのか?」
「どちらでも良いわ」
「実はね。そろそろ君が訪れる頃だと思っていたんだ」
「あら、じゃあ、待っていてくれたのかしら?」
そう言って、彼女も笑った。
「君が来たってことは、殺しに来たんだね?」
「そうよ。あたしはモノノケですもの」
ひどく落ち着いた口調にもかかわらず、その声は、耳の奥、頭の中心まで染み込むように届いた。私は口元を引き締め、それから静かに尋ねた。
「なあ、聞いても良いか? 君は本当に存在するのか? 君は、私が死にたくなるたびに目の前に現れ、あらゆる手段で、私のことを救ってくれた。ひょっとして、君は、私自身の生きたいという意思が生んだ幻なのではないか?」
「さあ、どうかしらね。そんなこと、どうでもいいんじゃないかしら。いずれにしても今日、あたしが、あなたを殺しに来たってことに変わりはないんだから」
これ以上の返答は得られないだろう。得たところで、彼女の言う通り、結果は変わりはしない。彼女は殺しに来た。ただし。
「君は、幸せな人間しか殺さないんだろ?」
そうよ。だから確認するわ。あなた、いま幸せ?
「ああ、良い人生だった。幸せだったよ。いや、幸せだ」
死にたくない? 怖い?
「ああ、死にたくないな。怖いよ。この幸福に満ちた世界から、消えなければならないなんて。でも、もう長く生きたからな。仕方がないことだ」
じゃあ、殺してあげるわ。
「私のほうから手を繋ぐのでも良いかな?」
良いわよ……
私は右手を前に差し出した。
その手は、小さな手を握り締めた。
死に際メリー 了