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死に際メリー  作者: gojo
第三章 2020
11/16

2020(1)

 晩春の日差しが差し込む病室で、妻の明美は、息を引き取った。

 享年五十二歳。あまりにも早い最期だった。


 常に気丈に振る舞い、それこそ私よりもずっと逞しいと思えた彼女も、病という名の魔手には抗うことができなかった。


 明美の命を奪った病はがんだ。一年前の健康診断において彼女は乳がんという診断を受けた。その時点でかなりの進行が見受けられ、直ちに乳房の全摘出手術を行なった。それによって一度は症状が安定したものの、数ヶ月後、再発が確認されたのだった。


 リンパ節へ転移していた。担当の医師からは、助かる見込みは低いと告げられた。


 それでも私は諦めることができず、放射線治療、薬物治療、あらゆる治療を施した。たとえ一パーセントでも助かる可能性があるならばと、彼女のことを説き伏せて、私財を投じ続けたのだった。

 その甲斐あってか、秋を越え、冬を越え、宣言されいていた余命を越えて、私たちは春を迎えることができた。


 しかし、度重なる治療による副作用だろう、彼女は、目に見えて衰弱していた。そしていつものように見舞いに顔を出した時、私の胸にすがり付き、消え入りそうな声で、「直樹、苦しい……」と言った。笑顔を絶やさず、弱音など口にしたことのない彼女が、とめどなく涙を流しながらそう言葉を振り絞ったのだ。

 私は彼女の、脆く、崩れてしまいそうな体をそっと抱き寄せて、耳元で囁いた。「もう良いよ。よく頑張ったね」と。


 すぐに転院をし、終末医療に切り替えた。桜の蕾がほころぶ頃だった。

 それからの短い日々は、どうにか穏やかに過ごすことができた。


「今年の桜は綺麗だね」


 病院の中庭に咲く花を見て、彼女は言った。

 私の目からすれば例年となんら変わることのない花だった。だが、これが最後の風景であると理解している彼女にとっては、すべてが輝いて見えたのかもしれない。


 やがて、桜が散った。

 それを見届けて満足したかのように彼女は昏睡状態に陥った。


 ただ、臨終の際には小さく笑ってくれたのだった。医師はそれを「奇跡」と呼んだ。方便かもしれない。実際には生理的な反射によって顔が引きつっただけかもしれない。それでも私はその言葉を信じることにした。


 明美は、最期の瞬間に、手を握る私に向かって微笑んだのだ。


 いまだ葛藤に苦しむことがある。治療を中断しなければ助かったのではないかと。しかしその答えは分かりはしない。仮に分かったとしても、失われた命が、明美が、戻るわけではない。承知してはいるものの頭を抱える。まるで自分が彼女を苦しめてしまったかのように。自分が彼女を殺してしまったかのように。


 もうすぐ東京オリンピックが行なわれる。

 賛否あって散々批判を受けていたこの祭典も、どうにか無事に開催されそうだ。とはいえ、開催まで二ヶ月あまりとなったこの時期においても、いまだ熱中症や感染症への対策が万全ではないのではないかと議論されている。また開催当日の公共交通機関への影響も、組織委員会は問題ないと発表してはいるが、実際には不透明だ。


 都心近くに暮らす私たちは、オリンピックの期間中は海外に逃避しよう、と話をしていた。そのために数年前からこつこつと貯金をしていたのだが、それは明美の治療費としてほぼ使い切ってしまった。

 ただし幸いなことに、否、明美のお陰で、娘の教育費など今後必要になるであろう貯えは十分に残っている。まさか死期を悟っていたなんてことはあり得ないと思うが、家計管理の一切を担っていた彼女は、私に黙って積み立てを行なっていたのだった。それを知らなかったとは情けないと思うものの、結果的には救われることとなった。後先考えない私のことだ、その配慮がなされていなければ、すべてを明美につぎ込んでいたとしてもおかしくない。


 娘の美月は、非常に落ち着いている。初七日をとうに過ぎ、普段通りの日常が舞い戻ったいま、何事もなかったかのように日々を過ごしている。現にいまも、ソファに寝転んでタブレットでなにやらゲームをしている。


 私が黙り込んでいるために部屋は静かだ。美月のタブレットから零れるBGMだけが聞こえる。どんなゲームをしているのか知らないが、オーケストラ調の壮大な曲だ。


 壁に掛けられた時計を見やる。いつの間にか夜十時を過ぎていた。近頃は時間の感覚が麻痺しており、気が付くと夜になり、気が付くと朝になっている。


「美月、もう遅いからそろそろ寝なさい」


 返事はない。ちょうど盛り上がる場面にさしかかっているのか、彼女はゲーム画面を睨みながら忙しなく指先を動かしている。


「タブレット取り上げるぞ」


 声を低めて述べると、ようやく彼女はチラと視線を上げた。


「はーい、この戦闘が終わったら寝るー」


 美月には幼い頃からタブレットを持たせている。共働きゆえに構ってあげられないことも多く、暇つぶしになればと買い与えたのだった。結果、屋外で遊ぶよりもゲームを好む子に育った。昨年度まで日中は学童保育に通っていたが、五年生に進級して保育対象外となった今年度からは、昼間もゲームをしているようだ。


「お父さん、おやすみなさい」

「うん。おやすみ」

「お父さんも早く寝てね」

「分かったよ」


 自室に向かう美月を見送ってから明美の遺影に視線を向ける。明美は映画やドラマが好きだったので、後飾りは和室ではなく、オーディオ機器やテレビの置かれたリビングに設置した。額縁の中の明美は今夜も笑っている。


 一つ溜め息を零し、部屋の隅のデスクに移動する。回転椅子に腰を掛け、パソコンを立ち上げる。忌引き休暇の影響もあって仕事が溜まっていた。お陰で近頃は帰宅してからも作業をすることが多い。

 眩く輝くディスプレイを見つめ、さっそく作りかけの資料を開く。そして、キーボードの上に手を置いた時、アラート音と共に、画面の中央にプッシュ通知のウィンドウが表示された。それはビデオ通話の着信を知らせるものだった。ただし、発信者の欄には名前が書かれていない。


 予感がした。否、確信と言ったほうが良いかもしれない。私は密かに望んでいたモノが現れたのだと考え、迷わず、『応答』という文字をクリックした。


 画面いっぱいに映像が広がる。その映像の中の人物が口を開く。


『…………いま……あなたの後ろにいるの……』


 その言葉を聞いた私は、鼻で笑った。


「見れば分かるよ。君の背後に映っているのは、うちのリビングだ」


 それから椅子を回転させ、その人物に改めて声をかけた。


「久しぶりだね。メリーさん」


 おかっぱ頭の少女、メリーさんは、そっと口角を引き上げた。


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