2004(5)
「おいおいおい、久しぶりに連絡くれたと思ったら、延々と愚痴かよ!」
ファミレスの向かいの席で大輔が言った。
「久しぶりってほど久しぶりでもないだろ。先々週もここで会ってるよ」
「ああ、直樹が退職した時な。あ! そん時も俺、愚痴を聞かされてるぞ!」
「平日の昼間に捕まるのは大輔ぐらいなんだって」
「おい、人をヒマ人みたいに言うなよ。最近はスタジオミュージシャンとしての仕事も増えてきたし、髪の毛を立てるのにも時間がかかるんだぜ」
「立てなきゃ良いだろ……」
中学卒業まで同じ学校に通っていた根本大輔は、俺の親友かつ悪友だ。ことあるごとにこうして話を聞いてもらっている。明美さんとも面識があり、昨夜の件も含め、今回も相談に乗ってもらった。
ちなみに彼は現在ミュージシャンだ。結成十周年を迎えるこれから売れる予定のバンド『コンプレッサー』のギター兼ボーカルを務めつつ、スタジオやステージの裏方をしている。どういうわけかライブ以外の時でさえ常に長髪を立たせているため、今日も大麦のような風貌だ。
「でだ、その話の件だが、直樹の気持ちも、明美さんの気持ちも分かるぜ。俺も似たようなことを常々思ってるからな。俺さ、収入は不安定だし、こんな見た目だろ? それに対して、かみさんは役所勤めの公務員だ」
昨年、大輔は結婚した。結婚相手は幼馴染みの『委員長』、野崎久美子だ。明美さんと一緒に参列した披露宴、というよりライブは、いまでも印象に残っている。
大輔は、日頃の生活でも思い浮かべているのか、視線を上に向けた。
「……マジで不安になる。堅気とは程遠い俺は久美子にとって相応しい男なのか、久美子に迷惑をかけてるんじゃないか、ってな」
「いまさら委員長が大輔のことを迷惑に思うわけないだろ」
そう言うと、大輔は身を乗り出してきた。
「ああ、その通り。それは分かってんだ。俺が選んだ女だぜ。収入や見た目で人を選ぶような、そんなセコいことをする女じゃねえんだ。分かっちゃいるが、それでも不安は付きまとう。この話は結局な、相手が迷惑に思っているか否かの問題ではなく、自分の心の問題だ。試練と言っても良い。その試練も含めたエネルギーの塊が、愛だ!」
「試練と愛……」
「つまりな、愛の一部である試練によって愛が成就しないなんて本末転倒だ。どこかが間違ってる。試練は、越えて越えて越えるためにある。いいか? よく聞け。試練は愛のデフォルトコンテンツだ!」
「なんだよそれ」
「俺の新曲の歌詞の一節だ。イカしてんだろ?」
大輔は楽しげに声を出して笑った。
大人になって気付いたことではあるが、彼がこういう茶化した言い回しをする時は、大抵、照れ隠しをしている。彼はいま、真剣に俺に語りかけてくれている。
「大輔、ありがとう。よく分かんないけど。もう一度だけ悪あがきしてみる……」
日が傾き始めた頃、大輔と別れた。
人通りの少ない通りを歩きながら思う。復縁を申し出るなら今日だ。
今日、俺はバイトが休みだが、明美さんは出勤している。それもヘルプの最終日だ。明日以降はほかの店舗に行ってしまう。そうなると、俺との接点はますます希薄になる。
懐から携帯を取り出して時間を確認する。もうすぐ明美さんの退勤時間だ。
どうする。復縁を申し出るにしても、ただ「好き」と伝えるだけでは、昨日の二の舞になる。彼女を振り向かせるにはどうすればいい。
携帯のディスプレイを睨みながら考えを巡らせていると、着信音が鳴った。『メリーちゃん』からだ。俺はすぐさま通話ボタンを押し、送話口に向かって語りかけた。
「もしもし、メリーさん。相談がある。いまどこにいるの?」
『いま……』
短い静寂の後、背後から声がした。
「あなたの後ろにいるに決まってるでしょ」
俺は振り返り、携帯を耳から外して愛想笑いを浮かべた。
「やあ、珍しく君に会いたくなったんだ」
メリーさんは俺の言葉を聞くと、嬉しそうに笑った。
「やる気になったみたいね」
「女心についてレクチャーしてくれるんだろ? 俺、どうしたらいい?」
「叫べば良いんじゃないかしら」
「叫ぶ? あのさ、俺、真面目に聞いてんだけど」
「あたしも真面目よ。叫べば、あなたは幸せになれる」
叫ぶ。叫ぶ。愛を叫ぶ。そうだ明美さんは、若者文化を俺と一緒に楽しむシチュエーションに浸りたい、と言っていた。愛を叫ぶ。ありかもしれない。
「……メリーさん、分かった。俺、叫ぶよ」
そう言ってバイト先へ向かおうとした時、突然、呼び止められた。
「ちょっと待ちなさい。あなた、大事なことを忘れてない?」
振り返ると、さきほどまで笑顔だったメリーさんが、ひどく冷たい表情をしていた。
「え? 大事なことって?」
「あなたが幸せになり次第、あたし、殺しに行くからね」
唾を飲み込んで、確認する。
「つまり、俺は叫んだら、死ぬってこと?」
「それは言葉が足りてないわね。あたし言ったでしょ。必ず、呪い殺すって。叫ばなくても死ぬわ。ただ少し寿命が延びるかもしれないだけ」
返答に困って黙り込んでいると、メリーさんは言葉を継いだ。
「分かりやすくするために条件をシンプルにしましょうか。叫べば、すぐに死ぬ。叫ばなければ、いつか死ぬ。さあ、どちらを選ぶ?」
俺は即答した。
「どうせ死ぬなら、やれるだけのことはやりたい。叫ぶよ……」
「じゃあ、期待してるわ」
メリーさんに見送られながら、俺はバイト先に向かった。
既に明美さんの退勤時間を過ぎていた。ここまできてすれ違うという事態だけは避けたい。後々電話で呼び出すなんて、いまの二人の関係を思えば難易度が高過ぎる。
俺は走った。そして幅広い川にさしかかった時、橋を渡る明美さんの姿が見えた。
「明美さん!」
喜びのあまり、俺は彼女の名を大きな声で呼んだ。
明美さんが振り返り、橋の上で向き合う。
その時、着信音が鳴った。携帯を取り出してみると、『メリーちゃん』という文字が表示されている。なぜこのタイミングで、と考えて、すぐに思い当たった。明美さんを呼んだ際の声、それが叫びとして扱われたに違いない。
騙された。なにが叫べば幸せになれるだ。所詮はモノノケ。人の人生をおもちゃ程度にしか考えていないのだろう。このままでは想いを伝えられないまま殺される。簡易留守録の設定を解除していないので電話を無視することもできない。ならば。
俺は、携帯を、眼下に広がる川に向かって勢いよく投げ捨てた。
「なにやってんの!」
そう言ったのは明美さんだった。
メリーさんが現れていないことを確認してから、たどたどしく言葉を返す。
「大事な話をしたいから、邪魔が入らないよう、携帯を捨てたんだ……」
「電源を切れば良かっただけでしょ?」
「あ、言われてみればそうだね。でも、もう捨てちゃった。それに、明美さん、いつだったか言ってただろ。携帯を投げ捨てちゃったほうが良いって」
「それは、そういう意味じゃないでしょ」
明美さんは声を出して笑い始めた。
グダグダだ。艶っぽい雰囲気はまったくない。こんな状況で愛を叫ぶなんてことはできやしない。俺は途方に暮れた。すると、明美さんが笑いながら言った。
「直樹がそんな思い切ったことをするなんて思わなかった」
「ここぞという時には結構やれるんだ」
「知らなかった。新たな一面を知ることができたよ」
「ほかにも色んな一面があるよ。明美さんにもっと知って欲しい……」
そこまで言って気付いた。知ること。それが答えだ。
俺は呼吸を整えて、改めて明美さんに語りかけた。
「明美さん。明美さんは俺のすべてを知らない。同じように、俺は明美さんのすべてを知らない。だから色々と知りたいんだ。例えば、子供の頃のこととか、昔見たドラマのこととか、あと、試練についてとか……」
「試練?」
明美さんは神妙な面持ちをした。
「そう、試練。二人で一緒にいる際の試練。明美さんにとっての試練は、年齢のことだった。そのことを俺に打ち明けてくれた時、俺は『気にしない』って切り捨てた。でも間違いだった。試練は明美さんの持ち物であって、それがどれほど重いのか、それは明美さんしか知らない。俺は、重さを教えてもらうべきだったんだ。いや、これから教えてもらいたい。理解するまで時間がかかるかもしれないけど、俺の隣にいて欲しい」
懸命に訴えた。想いを言葉に乗せた。
明美さんはうつむき、掠れた声で呟いた。
「わたしがそれを教えるとして、直樹は、わたしになにを教えてくれるの?」
「色々だよ。試練もそうだし、ふざけたモノノケについても教えてあげる。でも、そうだな、まずはもう一つの新たな一面でも教えようかな」
「新たな一面?」
「うん。明美さんは俺を子供扱いするけど、実は結構大人なんだぜ」
そう言ってから俺は明美さんに近付き、その体を抱き寄せた。
そして、耳元で囁いた。
「明美、愛してる……」
細い腕が俺の背中に回される。そして、耳に囁き声が届く。
「うん、わたしも……」
二人の時間はとても濃密で、毎日が、瞬く間に流れていった。
明美と一緒に暮らし始めてから半年後、俺は某大手広告代理店の子会社に入社することができた。ただし、学生の頃に希望していたクリエイティブ職ではなく営業職でだ。かつて働いていた怪しい出版社での経験が評価されたのだから、人生、どこでなにが役立つのか分からない。
就職を機に、明美とは正式に入籍した。あいにく忙しかった上に先立つものが心細かったため、結婚式を挙げることはできなかった。ただし、親しい友人や双方の家族たちが小さなパーティーを開いてくれた。その際、大輔が『愛のデフォルトコンテンツ』という新曲を引っ提げてきたのには驚かされた。
それからの毎日もキラキラと輝いていた。仲睦まじい、という言葉は俺たち二人のためにあるのではないか、そんなことさえも思った。
ところがその後、考えを改めなければならないことが起きた。仲睦まじい、という言葉は、俺たち三人のためにある。
入籍してから五年後、なかば諦めていた頃に、子供が生まれた。
四十二歳という高齢でありながら、普通分娩によるスムーズな出産だった。明美の言葉を借りるならば、スポンッと、生まれたのだ。立ち会った際、これが普通なのだろうと思っていたが、主治医の先生から、「こんなに楽な高齢出産は経験がない」と散々驚かれたので、おそらく、かなり凄いことなのだと思う。
まあ、それを差し引いたとしても、新たな命の誕生は凄いことだ。
ちなみに、メリーさんから電話はかかってきていない。
呪い殺すのを諦めたのか、それとも忙しいのか、正確なことは分からない。いずれにしても俺はまったく怯えていなかった。なぜなら、目の前の、自分の家族たちとの日々を楽しむことが忙しく、怯えている暇がないからだ。
ただ、時折メリーさんからの適当なアドバイスを思い出すことがある。思い出すたびに少しだけ笑ってしまう。世の中には色々な考えの人がいるので、もしかしたら、メリーさんのアドバイスを有難がる人もいるかもしれない。
しかし、少なくとも俺にとってはやはり違う。俺の見つけた答えはこうだ。
世界のどこかで叫ぶ必要なんてないさ。
抱き寄せた耳元で、愛をささやいてやるよ。永遠にね。
永遠に……永遠のはずだった……